覚めない夢の中で

ユユユ

覚めない夢の中で

朝起きた時も、夜寝る前も、思い出すのは彼だけで十分だと思っていた。


"悪魔の睡眠"


今、この世界ではそんな言葉が飛び交っている。眠りにつくとそのまま一生目が覚めることはない、謎の現象があちこちで起こっているからだ。その現象を解明している者はおらず、わかっているのは、一度に一時間以上の睡眠をしてしまうと目が覚めることはないということ、たったそれだけ。それでも睡魔に負けてしまう者は多く、誰かが作り出しているロボットがもうこの世にはいない人間たちの代わりをしている。ロボットがこの世を支配するためだとかそうじゃないとか、真相は誰にもわからないまま。


「今日の悪魔の睡眠による死者は…」


テレビをつけると目の周りが薄暗く隈どられているアナウンサーが、絹糸のようなか細い声でそう伝える。眠気のせいか声よりも息に近くなっていき、それは大変聞きづらい。そのため、私はテロップを目で追っかけていた。上下の瞼が仲良くなりそうなのを懸命に耐えながら。もうこんなに必死に生きなくてもいいのでは…と目を閉じようとしたその時、ピピピッと携帯のアラームが鳴った。一時間が経つ五分前を知らせるその音を合図に、私の向かいで眠っている彼を揺らして起こした。とろんと眠気の残った声で彼は「…おはよう」と微笑んだ。笑った時にできる小さなえくぼと、目尻のしわがなんとも愛おしくて私の口元もほころぶ。そうだった。この笑顔を見るために私は生きているのだ、彼と共に。

「じゃあ、次は私が、おやすみ」

「おやすみ」

彼は携帯のアラームをセットしながら私の頭を優しく撫でた。撫でられたそこの部分だけがじんわりと暖かくなった気がして心地よくなる。瞼が眠たげに眼球を覆い、私は今日も短い眠りにつく。


私たちが眠りにつくのは小さなダイニングテーブルに座りながら。布団だと深い眠りについて起きれなくなってしまうかも、と言う彼の提案からそうすることにしている。一時間以上の眠りにならないように互いに起こし合いながら、硬い机に顔を埋めて短い眠りにつくのだ。眠りづらいね、肩が凝るな、そう笑い合って。それでも、一緒に生きていける喜びを感じて。


彼と出会ったのは、"悪魔の睡眠"という言葉が多くの人の耳に入り出したころ。私の家族はみんな眠りについたまま目を覚さなかった。元々、仕事が忙しく睡眠時間をあまり取らずに重い瞼と戦っていた私だけがこの家に取り残された。友人も、仕事仲間も、数少ない私の知り合いたちはみんな覚めない夢の中へと沈んでいってしまった。私は仕事を辞めて砂を噛むような面白味のない日々を過ごしていた。自分で一時間以上眠らないようにアラームをかけて、眠りそうになったら外へ出かけた。その日も、いつもと同じようにたまたま見かけたカフェにふらっと立ち寄った。「イラッシャイマセ」とカタコトな声を聞いて、このお店の店員は覚めない夢の中へ沈んでしまったんだ、と納得することにも慣れてしまった。頼んだ珈琲を飲みながら、少数の人間と多くのロボットが歩く外をぼんやりと眺めていた。もう私も覚めない、深い、夢の中に沈んでしまおうか、そんなことを考えていた時だった。

「…あの、溢れてますよ」

いきなり視界に男の人が現れて、私は「わっ」と「きゃっ」の間くらいの変な声を口の中であげた。そして自分の手元を見ると珈琲がテーブルにだらだらと溢れていた。

「…ぼーっとしちゃって」

「そうなっちゃいますよね、こんな世の中ですもん」

彼は柔らかな声でそう言いながら、ポケットから出した葡萄のような紫色のハンカチで私の服に跳ねた珈琲を拭いてくれた。

「すみません、綺麗なハンカチなのに…」

私が謝ると彼は「気にしないでください」と、小さなえくぼを浮かべながら花を咲かすように笑った。その笑顔を見て、暮情が心の底から雲のようにふわふわと湧き起こった。その日、彼も一人だということを知ってから私の家に住むようになるまではあっという間だった。まるで花束が海の中へ落ちるまでのほんの数秒くらい。


彼は、私の生きる意味になった。


……ピピピッと聞き慣れた携帯のアラームがぼんやり聞こえて彼の大きな手で体を揺らされる。「おはよう」と幼い子供のような綺麗で純粋な瞳で私の顔を覗き込む彼に、私も「おはよう」と返した。私たちは好きとか、愛してるとか、付き合おうなんてことさえも交わし合っていない。でも、言葉に表せれない脆い宝物のような何かで通じ合っていると私は思っている。言葉がなくたって、私たちは大丈夫。短い時間の間で繰り返されるおはようと、おやすみ。それがきっと大切な愛の言葉。そう思っているのは、私だけじゃないはず。…そうでしょ?


今夜は冷たい風の音が何だか悲しげだ。外が暗くなってから、夕食の準備のために少し遠くのスーパーまで手を繋ぎながら一緒に歩いていくのが日常になっていた。そのスーパーに行くまでの間、見た夢の話をするのが恒例である。

「今日は君と海に行く夢を見たよ」

そう話し始める彼の笑顔が街頭に照らされて、それは夜空の星たちよりも眩しい。

「いいねぇ、海。行きたいね」

「かき氷なんかも食べたいよね」

短い眠りの中でも私たちは夢の中をさまよう。

「私は…あの日、私たちが出会った日の夢を見た」

「あれは、まさしく運命だったね」

時には悪夢を見て飛び起きる日も、夢なのか現実なのかわからなくなって朦朧としたまま起きる日もある。それでも彼の笑顔を見て「おはよう」と声を聞けば、ひどくほっとして生きててよかった、と心から思うのだ。

夢の話をしていると少し遠い道のりもとても早く感じる。私はこの時間が好きだ。というか彼と一緒にいる時間が、全部好きだ。スーパーに入るといつもこの時間帯にいる店員がおらず、そこに立っていたのはロボットだった。見慣れたこの光景。彼の手をギュッと強く握った。彼は何も言わなかった。レジを済ませてロボットの手から商品を受け取った時、ひんやりと冷たく硬い感触がした。その後、すぐにまた彼の手を握った。暖かくて柔らかい、彼の手を。


家に帰って夕食を済ませた後、また交互に眠ることにした。ダイニングテーブルで向かい合って座り、携帯のアラームを合わせた。いつも眠るのは彼が先。彼の寝顔を見てから眠ると短い間の睡眠でも何だかすっきりして、体中がほぐれるように安心する。

「アラーム合わせたよ、おやすみ」

「うん、おやすみ」

彼が眠っている間、カチ、カチ…と時計の秒針の音だけがやけにうるさく響く。彼がいない未来に私だけが進んでしまうみたいで、脈拍が速くなるのを感じる。そして思わずいつもテレビをつけてしまう。どうせまた同じようなニュースばかりなのに。音量を小さくしたテレビの音を聞ききながら彼の愛くるしい寝顔を眺める。…どんな夢を見ているんだろう。心なしかすごく幸せそうな顔をしているように見えた。彼が幸せだと感じるのは、私と一緒にいる時だけでいい。実際、彼が私と一緒にいる時に幸せだ、と言ったことはない。でもきっと思っている。それを私は知っている、つもりだ。言葉がなくたって。だんだんテレビの音は遠のいていき、鉛のような重い眠りがおそってきた。もしもこのまま起こさずに私も一緒に眠ってしまったら彼は怒るだろうか?私は彼の穏やかな笑顔を想像した。いやきっと、「君が一緒ならそれでいい」と優しく抱きしめてくれるだろう。視界がぼんやりとしてきて、柔らかく生暖かい泥の中にずぶずぶと入っていくように私は眠りについてしまった。彼の手に自分の手を重ねながら。その温もりを感じながら。深い眠りに、包まれた。








その後、アラームが鳴る前に彼が起き上がって私の携帯の電源を切った。そして私の手を雑に振りほどいた。


そんなことを私は知らない。


つけっぱなしのテレビでは最近、人間と見分けのつかないロボットが増えており、その中には嘘をついて人間を騙しているロボットもいる、というニュースが流れていた。


そのことも私は知らない。

これからも一生、知るはずはないのだ。



私は彼と一緒に幸せな日々を過ごしている。


覚めない夢の中で。

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覚めない夢の中で ユユユ @itigojam_

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