12 おかえり

 ネコは飛び起きた。耳元で大きな声を出されたからだ。彼は振り向き、そこに立っていたのが誰かわかると肩をすくめた。相手もまた同じ格好をしてから彼を覗き込んだ。耳にかけていた髪が一束、細く前に落ちた。

「おはよう。帰る時間だよ」

「マスター」


 フリッガは立ち上がりかけた彼を手で制し、ちょっと話そうか、と言いながら隣に腰を降ろした。

「前のマスターっつったっけ」

「そう。こんなふうに並んで話したことは、ほとんどなかったけど」

 うーは、腰掛けている石積みをぱんぱんと叩いた。

「そうなの?」

「うん。外には出ないようにしてたんだ。オレがいることは隠そうって話してたから」


 ケレトは警告音の鳴り響く中、いよいよ海面が見えてくると、ネコとの契約を切った。だからネコは、その船が墜落し、そして沈んでいくところを全て見ていた。見るしかできなかった。

 やがて波や音が鎮まると、いよいよ彼はこの世界になんのよすがもなくなってしまった。どこへ行こうと、また誰と結び直そうと完全に自由になったのだが、それでも彼は愛着のあるケレトのそばを離れなかった。海の上をうろついたり、ときには水中に入ってみたり。海底まで沈んでいった船内を探検したり。もちろん、コクピットのドア前まで行って、そこでしばらくじっとしていたこともある。何にも触れられないから、その扉だってすり抜けることはできたはずなのだが、それはどうしてもする気になれなかった。その先を確かめない限りは、まだそこにケレトがいるような気がした。生きているはずはないことも、わかっていたのだが。

 そうしてネコは、相当長い時間をシャヴィトの周りで過ごした。具体的にどのくらいかはよく覚えていないという。


 こんなふうにして彼が辺りをうろついていた長い間に、この星の住民はどこかから大きなクレーンを調達するとシャヴィトを少しずつ解体し始め、その建材や積荷に手をつけるようになった。

 ネコはまるで墓を荒らされているような気がして不愉快な気分にはなったものの、彼がその場を離れることにしたのは、発掘の手がいよいよ彼とケレトの家族に——あのウルティマ=ラティオにまで及んだからだ。

 もともとは二振り揃えて保管されていたそれは、長い間に船内で離れ離れになってしまい、発掘は別々になった。先に持ち去られたほうの銘が閃翠。ネコはその後を追い、海を離れた。


 その中にかつて自分が切り捨てた、過去の情報が収められていることなど、彼は全く知らない。ただそれに彼は説明し難い愛着を感じていたから、その行く先を確かめたかったのだ。何もできないとしても。

 そうして上陸した地で、彼はその国唯一のキャリアと出会った。周りの人間には「サプレマ」と呼ばれていた彼は、当時すでに土着の水竜と共にあったが、快くネコを迎え入れ、閃翠が今後どうなっていくかも教えてくれた。この国から出ることはまずないという。それでネコは、再びキャリアと結ぶことに決めた。この国は海が見える。このキャリアの近くにいれば発掘の状況も聞ける。ならば見守りにはちょうど良い、と思った。

 しばらくして閃翡もまた引き揚げられた。ネコはそれぞれの所有者のもとにちょくちょく様子を見に行っては、その無事を確認するついでに頭を撫でてもらって帰ってきた。海のほうにもたまに行く。まだケレトは水底にいる。それを、今座っているこの場所から何回も確かめた。

 やがて二振りは紆余曲折を経、ひとりの手の中に収まった。ネコが今契約をしているフリッガと一番近い関係を結んでいる男だ。

 だからネコは、彼の周りをやたらうろちょろした。ふたりが夫婦の契りを交わす前から、ずっと。


「ねえマスター」

「うん」

「ケレトの苗字はふたつあるんだ。みんなが呼んでた苗字じゃないほうを、あいつはずっと『それが自分の本当の名前だ』って言ってた。だからきっとそうなんだと思う」

「そっか」

 ネコはその場で立ち上がり、思い切り背伸びをした。それから深呼吸をする。海を見る。既に日は暮れている。波は静かだ。あの下にはもう誰もいない。

 もう、いないのだ。

 ネコは、座ったまま彼の顔を見ていたフリッガを見下ろすと、にかと笑った。

「帰ろ」


--


 翌日の早朝、フリッガとうーとは、遺体が引き揚げられたときの現場責任者と、引き揚げに立ち会った人夫とを連れて、ある場所に向かった。

 この国を貫く運河を辿って上流まで行く。この国での弔いはここから遺灰を流して行われる。今回流す灰は三人分あったが、いかんせん遺体そのものがかなり部分的にしか残っていなかったので、それは流れに呑まれてあっという間に見えなくなった。いつか海に届く。


 帰りは途中まで川を下った。同行者はそのまま海のほうまで行くと言うので途中で別れ、ふたりは川岸を歩いた。砂敷きの道を、かろうじて午前の日が照らしている。

 墓碑銘を刻むのはもう少し先になりそうだ、とフリッガが言った。技術者に頼まなければならないが、直前にも頼んだばかりだったので、もう何人分か溜まってからにする、と。うーは、そう、と答えたきり黙り込んだ。フリッガは彼の話を聞いてはくれたがそれだけで、ケレトたちの名前を証明できるものは準備できていない。

 並んで歩きながら、フリッガは俯いてしまったうーのつむじを見、「名前のことだけどね」と切り出した。

「名前不明、って扱いにはしないでよさそうだよ」

「いいの? でもどうして」

「ゼーレに連絡とって、古い貨物船の航行記録を調べてもらったんだよ。キャプテンの名前で探したら、墜落した貨物船がヒットして、クルーが三人、ケレトとシャハルとシャルム。本来見られる記録じゃないからちょっと無理あるけど、まあ、これで裏が取れたってことでいいよ。正確さは間違いないし」

 ただ記録通りの苗字で入れるしかないけど、と少し残念そうな顔をしたフリッガに彼は顔を上げた。そんなことはどうでもいいとでもいわんばかりのきらきらした顔を。

「船の名前も聞いた?」

「聞いたよ。シャヴィト、意味はわからないけど」

 うーは首から下げていたゴーグルを外し、これ、と彼女に手渡す。

「シャヴィトは昔の言葉で『彗星』なんだ。その当時でも特別大きな船でもてはやされていたから、ロゴ入りのものが色々作られたんだよね。だけどそれはクルーにしか配られてないレアもので、オレがケレトからもらったんだ。タグに名前が」

 急に熱弁を振るい出したうーに肩をすくめ、フリッガはそのゴーグルをひっくり返してタグを見つけ、目を細めた。

「読み取れないな……擦り切れてる」

「でもオレには分かるからいいんだ」


 うーは、ゴーグルを受け取り、いいんだ、と繰り返すと愛おしそうにレンズを撫でた。それから満足げな顔で首にかけると、額の上までずらす。レンズに光が反射した。

 空を見上げた。正午が近い、抜けるような青空。フリッガは、少し歩幅が大きくなった気がするうーの後頭を、それからずっと先にきらめいている海を見た。クレーンが小さく見える。足音と、さわさわとした葉擦れの音。

 不意にうーが立ち止まった。振り返る。

「マスター、オレ卵焼きが食べたいな」

 一緒に立ち止まったフリッガはうーの顔を見、ゆっくり瞬きをしてから再び歩き出した。

「いいよ。じゃあ、卵買って帰ろ」

「うん」


 どこか見えない所で、鳥が羽搏はばたく音がした。


 〈 了 〉

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月色相冠 / forget-me-not 藤井 環 @1_7_8

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