11 「忘れないで」

「思ったよりも早かった」。それがアスタルテが最期に思ったことだった。

 彼女は薄れゆく意識の中でベッドが血に染まるのを見ながら、自らの命が尽きる前に、ネコを自らとの契約から解き放った。



 ケレトはこの時間、いつものように自宅で、母のいる病室へ行く準備をしている。

 いそいそと鏡の前に立ち、跳ねた金髪を撫でつけた。また跳ねるので、また撫でる。隣の病室から時々、彼より少し背の高い少女が出てくるので——少女にもし出会うことがあるのならば、できればぼさぼさの子どもっぽい頭を見せたくはなかった。いつ言葉を交わすことになるかわからないのだ。大事なことである。

 そうして身だしなみを(彼なりに)整えてしまうと、ケレトは振り向きながら声を上げた。

「うー」

 行くよ、と続けながら彼は名を何度か呼んだが、ネコの返事はなかった。


 ケレトは首を傾げた。彼が自分を置いてどこかに行ってしまうことは、少なくともアスタルテが入院してからというものなかったはずだ。実際ネコはアスタルテから「ケレトから目を離すな」と命を受けていたので。

 ケレトは彼の姿を探し、家の中を見て回ったが見つけられなかった。仕方ないからしばらく待つことにし、今開けた奥の部屋の扉を閉めた。振り返ってさっきの鏡の前まで戻る。そこで、見慣れないものが目についた。

 床の上に包みがある。さっきは気がつかなかった。紙で巻かれて、十字に紐がかけられている。贈り物にしてはあまりに地味だ。クレイオの忘れ物かもしれない、そう思ってケレトは腰をかがめ、それを取ろうした。鏡に彼のつむじが映る。その瞬間だった。

 背後でくぐもった音がし、目の前の鏡が耳障りな音を立てて割れた。


 驚いて振り向く。真後ろに、知らない男が立っていた。ぐらりと頭が揺れ、覆い被さるように倒れてくる。ケレトは慌てて脇に避けた。硬いものが床に当たった音がし、血溜まりが広がった。後ろから撃たれたのだ。しかし誰に? どうしてここで?

 ケレトはその場にへたり込み、惚けた顔のまま周囲を見回した。背には割れた鏡。横には倒れた男。足元、すぐそばまで血溜まり。そして膝に——さっきの包みが当たっていた。手を伸ばす。包み紙の中は何か硬いものが緩衝材に包まれているようだったが、芯が何なのかは触っただけではよくわからない。

 とにかくアスタルテのところへ。包みから手を離しかけたとき、不意に頭上が暗くなり、ケレトは反射的に顔を上げた。上からクレイオが覗き込んでいた。

 ケレトが声を上げる前に、クレイオは膝を折ると両手で息子を抱きしめた。ケレトは背中に硬いものが当たるのを感じた。口を開こうとするともう一度強く抱きしめられたので、ケレトは思わず咳き込んだ。クレイオは慌てて腕を緩め、両手を息子の肩に置いた。

 花火で遊んだときの匂いがした。ケレトがそちらを向こうとするのをおしとどめるように、クレイオは拳銃を握っていない方の手を息子の頭に置くと、しっかりと息子と目を合わせて言った。

「今日はお母さんのところには行かないで」

「どうして。お母さんは? うーは?」

「ネコくんならそこに」

 クレイオは顎をしゃくってみせた。「そこ」というのはケレトの膝下のことである。ケレトは促されるままに、そこにある包みを解いた。アスタルテからクレイオに渡った、あの銘の付された第一試作品であった。ケレトはそれを見下ろしながら眉を顰め、それから顔を上げて父を見た。

「どういう意味」

 クレイオはそれには答えなかった。よく聞いて、という彼の言葉にケレトが頷くのを確認し、続ける。

「お父さんとお母さんはね、昨日、ネコくんと大事な話をしたんだ」

「うん」

「ネコくんは、そこで、今までお母さんとしていたように——」

 そこで重たい音がし、クレイオの言葉は途切れた。少年の頬に血が数滴飛び散った。父親は引き剥がされた。


 父の後ろに立っていた人間を、ケレトは膝をついたまま見上げた。それから床に放られた父を、そして隣に倒れている男を。数えるように、順番に見ていく。何が起きているのかわからなかったが、視線が正面に戻ってきたとき、目の前に立っている男が自分に銃口を向けているのは認識できた。

 さっき開いた包みを強く抱きしめた。逃げなければ、と思った。しかし足が立たない。膝がすべるようで。


 銃口から顔を上げる。男と目が合う。目出し帽だから表情はよくわからないが、視線を外すと撃たれると感じ、ケレトは歯を食いしばって男を睨み続けた。

 男がトリガーに指をかける。銃口が揺れた。ケレトは強く目を瞑った。銃声。


 少年が目を開けると、正面の男が仰向けに倒れていくところだった。天井に血飛沫が飛び散っている。男の足元に転がっていたクレイオが、持っていた銃ごと腕を血溜まりの中に投げ出した。大きなため息が聞こえた。ケレトは包みを小脇に挟むと父のそばに寄った。

 クレイオの服は赤く染まっている。この部屋には三人分の血が流れている。

「お父さん。どうしたらいい」

 青い顔をした少年の頬に、クレイオは手をあてた。

「ここからはひとりで行っておいで」

「どこに?」

 父は答えなかった。少年は理解した。母も襲われたのだ。そしてたぶん、死んだ。

 でも、どうして。昨日会いに行ったときは、もうすぐ退院できると言っていたのに。お父さんも朝は普通に仕事に出て行ったのに。うーだって、こんなに大変なときに出てこないなんて考えられないし——ケレトは喘ぐように口をぱくぱくさせたが、次の言葉が出てこない。クレイオは息子の顔に手を伸ばした。安心させるためだったそれはケレトの頬に血の痕をつけたが、ケレトは気がつかなかった。クレイオが言う。

「ネコくんはね、ケレトと一緒にいるには今までのままじゃだめだったんだ。だから、自分を切り分けた」

「切り分けるって何。そんなこと」

「聞いて。ネコくんは——いや、ケレトも、お父さんもお母さんもだけど……みんな、思い出を積み重ねて今の自分を作っている。そしてケレトは、そうして抱えるものが大きすぎるひととは、一緒にいることができない。だからネコくんはいろんな思い出を捨てた。外でケレトを待ってるはずだよ。前とはちょっと違うだろうけど、きっとわかる。早く迎えにいきなさい。そしたら、お前はひとりじゃない」


 そこまで絞り出して、クレイオは何も言わなくなった。ケレトは顔をぐしゃぐしゃにし、鼻をこすろうとして、玄関の方の音に気がついた。まだ扉の向こうだ。でも、もうそちらから出ることはできない。

 父の言ったことは、正直、よくわからない。でも外に行けばネコと合流できるはずだ。少年は意を決したように鼻を啜り上げるとズボンの背中側に包みを差し込み、亡骸を置いて立ち上がった。知り尽くした家の中を隠れながらベランダへ出、するすると身軽に配水管を伝って地面に降りた。


 路地に降りると、ぎょっとした顔の通行人と目が合った。少年の顔も服も血まみれなのだ、しかし少年はそれを意に介さず、もう一度鼻を擦ると降ろした拳を握りしめた。

——外で待っている。

 彼は真正面でこちらを見ている、一匹の黒猫に目を見開いた。


 枯れかけた街路樹がざわめく。強い風が吹き抜け、周囲が色を失った。

 歩いていた人も、飛んでいた鳥も、何もかもが止まって見える。

 眼前で猫から姿を変えた少年――翡翠色の髪を揺らした少年は、ケレトよりも幼いくらいに見えた。彼はくりくりとした金色の目をこちらに向け、言った。

「オレを迎えにきたの?」

 ケレトは力強く頷いた。アスタルテはうーとの関係を、契約と呼んでいた。だからこれからは、

「僕と契約しよう。僕の名前はケレト、お母さんはアスタルテ。お父さんはクレイオ。そしてきみの名前は、」


 鳥の羽搏はばたきが聞こえた。


--


 研究所外で少年を知る者がほとんどいなかったこと。

 少年が母の外見を継がず、キャリアであることを隠せたこと。

 それから、少年が風竜と契っていたこと。

 こうした要因の積み重ねで、少年はどうにか移民船に侵入し、その国を脱出した。


 行きついた先は、すでに戦禍を乗り越えて久しい国であった。港で船を下ろされた彼は、身分証明ができないことから一旦は捕えられたものの、理解ある夫婦に引き取られるという幸運に恵まれ、新しい姓を得た。

 そしておよそ二十年の後、ケレトは自らの夢を叶え、パイロットとして空に出た。キャリアであることは隠していたから、ネコは彼の中で力を貸すだけの存在だ。

 それでも彼らは強く結ばれていた。ケレトの飛ばす機体にはいつも順風が吹いた。ネコと彼とは、常に同じものを見、同じ喜びと悲しみとを共有した。残念なことにネコは、アスタルテとクレイオのことを何一つ覚えていなかったけれど――仕方のないことだった。

 ケレトはそれから数十年の後、ひとつの船と出会うことになる。

 それはあの日空港を眺めながら、まだ大きかったネコから聞いた、半島を覆わんばかりの巨大船であった。しばらく移民船として使われていたものの、取り回しに不便が多い大きさで、いよいよ老朽化も進んだために人間を運ぶのは止め、貨物船に降ろされたという。彼はキャプテンとして、シャヴィトの舵を取ることになった。


 クレイオが死んだ時の年齢を軽く二回り超えた彼の荷物の中には、いつも、ひっそりとあの包みがあった。切り離されたネコの欠片は、その二振りのウルティマ=ラティオにしまわれている。だからケレトにとってそれらは家族であった。もちろん、ネコ本人にとっても。

 


 平和の恩恵を誰もが享受するこの国で、ケレトはその「家族」を武器として振るうことは生涯なかった。

 貨物船としての数度目の航行。シャヴィトは老朽化したエンジンの不具合を解消できず、辺境の惑星に墜落した。最期まで墜落地点の誘導を諦めなかったクルーの努力が奏功し、現地での犠牲者はなかった。

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