10 ある愛のはなし

 少年の遺体は秘密裏に処理された。埋葬されたかどうかはわからない。彼には遺体を引き渡すべき縁者がいなかったし、そもそも当局はそんな連絡先など聞いてさえいなかったからだ。

 それはつまり、アスタルテが彼を生かしていたとしても、彼がそのままこの建物を出る予定はなかったということでもある。しかしアスタルテにとって、それはなんの救いでもなかった。

 彼女も、キャリアとしての能力で人間を蹂躙したことがないわけではない。ただそれはいずれのときも、自己防衛という動機に基づくもので、罪悪感だってなんとか飲みくだせるものだった。今回は違う。

 彼女の傲慢さと未熟さが、少年を殺した。


 負傷したアスタルテは、かつて彼女がケレトを生んだ医療施設に収容された。

 白く柔らかなシーツの上で天井を見上げる。比較的広く、そして明るい個室だ。ケレトを産んだときは個室ではなかったし、その前に入院したのはクレイオに会ったときで、施設の程度など比べ物にもならなかったが、いずれもクレイオは足繁く、彼女のところに見舞いに来ていた。

 しかし今回、窓際に置かれた彼女のベッドのそばに、クレイオはほとんど来なかった。来られなかったのだ。ああいった結果を招いてしまったとはいえ、データの採取という目的は十分に達成され、プロジェクトは次の段階に進んでいたので。

 その代わりというかのように、彼女の横にはいつもケレトがいた。


 もう彼は保育士の必要な年齢ではない。かといってもちろん、何もかも任せて安心というような歳でもなかったが。彼の眼差しが日に日にクレイオに似てくる気がして、アスタルテはその顔を目を細めて見た。

 今は家族のことしか考えたくない、と彼女は思った。外の世界はあまりにも残酷だ。そして自分は、あまりに残虐にできている。


 いつものようにベッドサイドで本を読んでいたケレトは、不意に日の陰った窓の外に目をやり、空を滑っていく飛行機を追った。高度もあるし窓もしっかりしていて、音はまったく聞こえない。その航跡を見つめたまま、ケレトはベッドの上のアスタルテに話しかけた。

「おかあさん」

「何?」

「僕、パイロットになろうと思う。空を飛ぶんだ」

「あら、いいじゃない。応援するわよ」


 そう言ったときのアスタルテの表情を、ケレトは見ていない。

 ここは明るく、静かだ。とても。


--


 ケレトが寝てしまってから家に戻ることがほとんどになったクレイオは、その晩も日付が変わるころに家に帰った。しんとした暗い部屋で、彼は囁き声でネコを呼んだ。


 ネコは呼ばれれば、その気があれば出てくる。それまでどこにいたのか、何をしていたのかをクレイオは聞かないから、ネコは彼のことを今でもそんなに嫌いではない。

 クレイオは出てきたネコの前で鞄の底を探ると、両手のひらには少し余るくらいの包みを取り出して、手渡した。


 成長し続けるケレトと違って、ネコはそのままだ。クレイオが最初に会ったときから同じ、「猫」というには少し大きな黒い獣の姿か、少年の姿。

 今はまだケレトよりも、ネコの方が大人びて見える。しかしケレトの——というか、子どもの成長は速い。顔を合わせる回数も以前よりぐっと少なくなった今、クレイオからするとケレトは見るたびずいぶん大人びている気さえする。そんな息子の成長ぶりからすれば、ネコのほうが頼りなく見えるようになるのも、そう遠くはないだろう。

 ネコは受け取ったものを見下ろした。クラフト紙でぐるぐると巻かれて紐をかけられたそれは、持った感触からは、何か緩衝材で巻かれた固いものであるらしい。彼は顔を上げた。それにクレイオは肩をすくめ、「きみに預かっていてほしいんだよ」と言った。

「これは何?」

「開けてごらん」

 ネコは最初こそ紐を解こうとしていたが、結局それを諦めて、紐を引きちぎり紙を破るように剥がした。透明な緩衝剤の層の向こうに、黒っぽい筒状のものが並んでふたつ見える。

 ネコは眉を寄せた。以前クレイオが「あまりに非人道的」と評し、アスタルテがデスクの奥に死蔵したままになっていた、あの試作品だ。


「それの名前を知ってる?」

 クレイオが尋ねると、ネコは怪訝な顔をして答えた。

「ウルティマ=ラティオ。最初のほうの試作品」

「そうなんだけど、そのふたつはね。特別に銘なんか授けられちゃっていて……閃翡と閃翠というんだよ。遊び心もいいけど、さすがに悪ふざけが過ぎると思う」

 クレイオは下ろしていた右手をゆっくりと上げて、ネコの手中のもの、それからネコの頭を指さした。


 ネコの髪は、今も初めて会ったときもずっと、子どものように柔らかく艶やかだ。人間では絶対に出ないような、光を透かすような翡翠の色をしている。ネコは眉を顰めたままだ。クレイオは、ごめんわからないよね、と苦笑いした。

「僕はすごく気持ち悪いと思うんだよ。連中がつけた銘は、それの動力としてきみを閉じ込めることを前提としている。そしたらそれが放つ光はきみの髪のような色になるだろうというので。随分盛り上がっていたみたいだ」

「冗談じゃないよ。そんなの俺にとって嬉しいこと何もないじゃん」

「そう。だからそんなとんでもないものの開発なんか進められたくなくて、僕はそいつを取り戻されないように家に持って帰ってきたわけ。そしてきみに預ける」

「どうして」

「それが一番安全だからさ」


 ネコには彼が言わんとしていることはよくわからなかった。

 しかし何か不穏な雲行きになっていることは、うっすら――しかし十分に、感じられた。


--


 その翌日、クレイオは面会時間ぎりぎりになってアスタルテの許を訪れた。彼は壁際からパイプ椅子を持ってくるとそれを広げ、腰を降ろした。「見下ろすのは嫌いだからね」と言って。

 外は暗いが、まだカーテンは引かれていない。昼間、ケレトがいるときには全くそんな雰囲気は感じないのに、夜になり人工的な灯りが照らすようになった途端、この部屋はクレイオがアスタルテを運び込んだあの裏ぶれた医療施設に似た雰囲気になる。アスタルテは思わず苦笑いした。

「あなたの言うこと全然変わらないわね」

「もちろん。僕はずっとこれで通すよ」

「でも今日は握手の説明をしに来たんじゃないでしょう?」

「そう。結婚の説明も二度はしたくないし」

 あんな恥ずかしいことと笑いながら言うクレイオの横で、アスタルテはベッドの上で腰に枕をあて、伸ばした膝の上で手を重ねた。彼女はしばらく無言で笑みを浮かべていたが、不意に目を細めて口を開いた。

「ケレトのことでしょう」

「お見通しだね」

「危険察知能力は高めなのよ。不良品だけどね」

 クレイオは苦笑いしながら肩をすくめ、それから大きなため息をついた。

「ケレトは殺されるよ」


 あのテストの直前のことだ。当局は大至急、バベル・フォーミュラの実証を指示してきた。そうして行われたテストで、最も重要な実験は成功裡に済んでいる。だからあとはキャリアが携わることは必須とまでは言えない。

 あのテストのとき、アスタルテが後ずさったとき。部屋のセンサーは、少年の周りではアスタルテをとりまいていた風が凪いでいたことを認識していた。アスタルテに装着されたセンサーも彼女の神経伝達に特徴的な異状があったことを感知している。

 少年が持っていたものは、その光を強めるにつれ、アスタルテが連れたジオエレメンツの影響を、少年の周りで打ち消していった。その効果が再現性のあるものであれば、あの武器は対キャリア戦を、ジオエレメンツを排除した単純な対人戦に持ち込む道具になりうる。


 あのテストは、そのことさえわかればよかったのだ。だからクレイオはあのとき、アスタルテが少し後ずさったあのときで、テストの終了を告げようとした。しかしそれは同席していた男に止められた。この研究に最終的な決定権を持つ、国防の責任者だ。

 彼は「破壊できなければ意味がない」と言い、続行を指示した。

 ガラスの向こうで惨事が起きたのは、その直後だった。



 国の存亡を決すると言っても過言ではないこのプロジェクトには、アスタルテのような役割を果たすキャリアは必須であった。一方でキャリアはこの国では強い敵意を向けられる対象でもある。

 国が、いかに目的のためといえども、キャリアを厚遇していると見られれば、それは国政の安定という意味では危うい。排除できるリスク因子をそのままにしておけるほど、この国の内情は成熟していない。

 このため当局は、キャリアが不要になればすぐに破壊してしまう方針であった。その破壊が徹底的そして迅速であれば、国民は国がキャリアを「道具として」扱ったと見、彼らの溜飲も下がる。

 経済力を高めるための研究が、政府を脅かしてはならない。そして実験は成功した。ならばもはや国には、アスタルテを生かしておく理由はない。もちろんその子どももだ。それは許されない存在である。情緒的な意味でも、危機管理的な意味でも。


 だから、そう遠くはないだろう。


 空気が重苦しい。時計の針がかちと動いた。

「ネコくんにあれを渡した」

 クレイオが呟くと、アスタルテはわずかに笑った。

「渡しただけでしょう。それならあとのことは、あなたの責任ではないわ」

「僕は……」

「やめて。いい? 可能性を広げても、選ぶのはあの子たちだから」


 ドアの外で看護師が、面会時間の終わりを告げた。

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