みひつのこい

灰崎千尋

ひみつのこい

 最初は確か、ラブホテルのアメニティだったと思う。


 和希かずきとセックスして、私が先にシャワーを浴びて、入れ替わりに和希がシャワーを使っている間。私は、やたら大きな鏡の前に座って、たくさん並んだスキンケア用品から、なんとなく良さそうに見えた化粧水のパウチをつまみ出した。一つだけ抜き取ったつもりだったけれど、それにつられた後ろのパウチも棚からこぼれて、ぱっくり口を開いた和希の鞄の中に落ちていった。


 拾わなきゃ、と思った。

 でも、結局私はそれに手を伸ばさなかった。


 私みたいな女がいるってことがこれでバレてしまっても、まぁいいか、と思って。

 それがはじまり。




 次はたぶん、和希の家のキッチン。


「腹減ったな、なんかつくれる?」と言われた朝、開けた冷蔵庫にはろくなものがなかった。とりあえずハーフパックのベーコンを焼いて、スクランブルエッグをつくって、粉末のカップスープを付けて、これでパンがあればマシだったはずだけれど、炊飯器で早炊きしたご飯を出すしかなかった。


「ご飯かぁ」

「無茶ぶりした和希が悪い」

「ごめんて。朝ごはんありがと」


 そう言ってキスをくれた。

 二人でその朝食を食べてから皿洗いをしていると、メグちゃんから和希に連絡が来た。


「やばい、予定変わったから今から来るって」


 私たちは慌てて色んな後片づけをする。消臭スプレーを吹きまわり、粘着クリーナーをコロコロし、食器は布巾で拭いて元の場所へ。そうして私は、転げるように和希の家を出た。

 駅に着いて息を整えているとき、あれ、と思った。そういえば泡立て器とトングの位置、逆だったかもしれない。メグちゃんが買って置いていったというやつ。

 スマホで和希の連絡先を表示までしたけれど、何も送らなかった。

 私の勘違いってこともあるし、こんなことで感づく相手なら、もっと決定的な痕跡を見つけてしまうだろう。

 私たちは、あまり計算高い遊び方をしているわけではなかったから。




 それから私は、なんとなくそういう、ちょっとした置き土産をしていくようになった。わざとわかるように残すわけではなくて、気付かれる可能性のあるものを、消したり知らせたりしないでおくだけ。


 例えば、メグちゃんの前ではプルームテックを吸っているけれど、私の前では遠慮なく吸うハイライトの吸い殻。

 例えば、いつもストックしてあるのとは別のメーカーの、コンビニで買ったコンドーム。

 例えば、たぶん和希の家の中で無くした片方のピアス。


 もしかしたら、和希が自分で気付いて消しているかもしれない。見つかっても上手く取り繕っているのかもしれない。でも、私からは教えてあげない。そういうものたち。

 今のところ和希からは何も言われていないから、泳がされているのか鈍いのか、わからないままだ。




 私と和希は、合コンで知り合った。

 正直言って、見た目がかなり好みだった。ごついセルフレームの眼鏡に負けない、切れ長の目が色っぽかった。筋張った手が大きくて、私の手と重ねたらぎゅっと握り込まれてしまった。

 話していても割と馬が合うな、と思ったし、「めっちゃお似合いって感じ!」と周りも囃し立てたので、その場の勢いで堂々とお持ち帰りされ、バリ風のラブホテルでセックスした。体の相性もすこぶる良かった。

 合コンでこんな相手と巡り合うなんてことがあるんだなぁ、と煙草を吸う和希を眺めていたら、目が合った。


「ねぇ」

「なに」

「セフレにならない?」


 私は目を点にして固まっていた、と思う。

 その間に和希が言うには、メグちゃんっていう本命の彼女がいるけれど、その子はエッチなことに興味が薄くて自分は欲求不満なんだと。今日の合コンもそういう相手を探しに来たらしい。私なら、面倒なことにならずに付き合えそうだと思ったんだそうだ。

 なかなかとんでもないことを言う男だと思った。でもそのときの私は寂しくて、とにかく誰か隣にいてほしかった。

 だから、了承してしまった。


 それが間違いだったと、今なら思う。




 私はセフレなので、デートみたいなことはほとんどしない。メグちゃんと会わない時間に会って、セックスして、おしまいだ。たまに私の家や和希の家でゆっくりすることもあるけれど、その程度。

 代わりに色んなセックスをした。メグちゃんは優しいキスをしながらの正常位しか嫌なんだそうだ。和希が一番好きなのは獣みたいな後背位なのに。SMっぽいこともしたし、下品なキスもするし、窓際の立ちバックもした。「リアルな潮吹き、見てみたいんだよね」と言われたやつは失敗したけれど。


 気がつくと、私は完全に溺れていた。

 体を重ねるほど寂しくなるのに、セックスは最高に気持良くて、和希が私にしか見せない顔をする度に、メグちゃんしか知らない顔が羨ましくなる。

 いつの間にか私は、和希に恋をしてしまっていたのだ。




 私は、中途半端に物分りの良い自分を呪った。

 セフレとして割り切るとか、セフレが苦しいから別れるとかいうことはできなかった。でも、本命から奪ってやる、なんてこともできない。私はセフレであって、浮気相手ですらないのを、よくわかっていたから。

 和希みたいな男は、一度こんな風に扱った女を、本命と別れたからって彼女に昇格させたりはしない。それに、私が和希に本気になってしまったことがわかったら、彼の方から離れていくだろう。

 だから、私のこの気持ちを知られるわけにはいかない。




 私の知っているメグちゃんは、黒目がちでつぶらな瞳、背が小さくて小動物みたいな、可愛い女の子。和希の会社の同僚で、今年で付き合って三年目。料理が得意、セックスはしたくないけどキスは好き、ロマンチスト。

 なんていうか、メグちゃんは主人公だった。「めでたし、めでたし」までたどり着くのにふさわしい女の子だ。

 対する私は、三白眼がコンプレックスで、和希と同じくらいの身長で、セフレなのに和希を好きになってしまった、どうしようもない女。




 私があの置き土産をしていくようになったのは、そんな風にして体も心も身動きが取れなくなっていた頃だった。

 たぶん、限界だったんだと思う。和希が非道い男で、私が駄目な女だということ以外に、この関係を終わらせる理由が欲しかったのかもしれない。


 だから和希に「結婚することになった」と言われたとき、喪失感と解放感はイーヴンだった。ただ恋だけがぽつんと取り残されていた。


「だから今日でおしまいね。今までありがとう」


 そう言った和希は驚くほど爽やかな笑顔だった。だから私も同じような笑顔で返すしかない。


「いえいえこちらこそ。おめでとうございます」

「ありがとうございます」


 お互い裸のままホテルのベッドに寝転んでする会話ではない。でもこれが、私達の関係そのものだった。


「結婚したらどうするの?」

「何が?」

「性欲」

「んー、オナホか風俗かなぁ。流石にセフレは訴訟リスクとかあるじゃん?」

「だよね」

「まぁ年齢上がると女性も性欲強くなるらしいし、俺の方が干上がっちゃうかも」


 嗚呼、和希はそういう顔で未来を語るのか、と私は彼の横顔を眺めた。会話の内容はひどいものだけど、その顔が眩しい。

 和希は吸っていたハイライトの火を灰皿でもみ消すと、おもむろにスマホを取り出した。


「じゃあ、お互いの連絡先、消そっか」

「証拠隠滅?」

「そんなとこ」


 私は和希の隣にぴったりくっついて、自分のスマホを和希のスマホに並べた。


「ねぇ、そういえばさ」

「ん?」

「メグちゃん、私のこと気づいたりしてた?」

「いいや、たぶん大丈夫だったと思うよ。ときどきは危なかったけど」

「そうなの?」

「なんだっけ、あーピアスだわ。うちに落としてったでしょ。妹のだ、って言っといてなんとかなったけど」

「……そっか」

「妹さんによろしく、って言われてさ、あれはビビったなぁ」


 それ、本当は気づいていたんじゃないだろうか。

 気づいた上で、私なんて歯牙にもかけないでいただけで。

 私は主人公どころか、脇役ですらなかった。


 私は冷えた指先でスマホの画面をなぞった。嫌な汗をかいた手には、なかなか反応しない。それでもどうにか、履歴と連絡先の両方を消した。


「相手がお前で良かったよ」と言う和希に、私はもう返せる言葉がなかった。


 おめでとう、メグちゃん。

 おめでとう、和希。

 めでたし、めでたし。

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