うみかぜ

石燕 鴎

うみかぜ

 夏の香りのなか、青年は目覚める。早朝ではあるが外ではジリジリとセミが鳴いている。緑色の蚊帳から青年はごそごそと這い出し、大きく伸びをした。今日は用事もないため、青年は海へ出て釣りをするつもりであった。簡素な釣り竿とバケツを持った青年は長屋の階段を降りると門のところに置いてある黒い自転車に乗った。自転車のペダルをぐい、と踏み込めば彼は小さな悲鳴を上げて動き出す。青年はセミたちの合唱のなか、坂道を下っていく。陸から吹く追い風のなか、長屋や古い家たちが流れるように過ぎ去っていく。自転車で坂を下りきると手を振る老人が見えた。青年は老人の前でいったん自転車を止める。老人は小さな女の子を手にひいていた。

「おう、近藤くん。今日は釣りかい」

「ええ。いっぱい釣れたら御裾分けしますね。ところでそちらの子は」

 幼女はアイスをほおばりながら、青年を黙って見つめている。老人は苦笑いをした。

「それが……おれにもわからんのだ。今朝方漁に出ようとしたら船着き場にいてな。親を探しているんだが、見つからないんだわ。おれたちが親を探してくるから、その間近藤くん面倒を見てくれないか」

「ええ。いいですよ。この子の親御さん連れてくるの待ちますよ」

 青年は自転車を降り、バケツと釣り竿を手に持った。空いている手で幼女の手を掴む。その手は小さくすべすべとしている。青年は何故だか不思議な気分になった。

幼女と二人、青年は海へと向かう。青年は幼女が退屈しないようにと、まず海岸を歩くことにした。草履にはまだ熱さが伝わってこない時間であった。幼女と青年は白い砂浜をさくさくと歩いていく。ここの海には流木や打ち上げられた魚などの漂着物が波打ち際にある。青年はふと足元にサクラガイが埋まっているのを見つけた。青年はバケツと釣り竿を砂浜においた。彼はしゃがみ込み、手で砂を軽く掻いた。幼女は言葉を発することなく、青年を倣い、何もない砂浜を手で掘り始めた。青年はほほえましく思いながら、幼女に小さな宝物を渡した。幼女は花開くような笑顔を見せる。

「ありがとう」

 幼女はたどたどしく口を開いた。青年は幼女の頭を軽くなでると、さらさらとした感触が指先に伝わってきた。青年はふと思った。はたして一体どこの子供なのだろうか。なぜかというと集落では見たことのない子供だからだ。青年はしゃがみこみ、幼女に視線を合わせる。彼女はとび色の瞳をぱちぱちとさせた。

「君はどこのうちの子だい」

「ここ。おかに上がったら、かえれなくなっちゃった」

 幼女は海を指差した。青年にはにわかには信じがたかった。しかし、彼女が嘘をついているようには思えなかった。

「どうやったら帰れるのかな」

「海風が吹いたらかえれる」

「海風か。じゃあ、風が吹くようにお兄さんとお祈りしに行こう」

「うん」

 神社は海辺のすぐ脇にある。幼女の手をひき、青年は砂浜再び歩き出す。夏の暑さがじきに顔を出す時間帯が近づいてきていた。青年は額の汗をぬぐうと幼女は汗もかいていないのにそれを真似るように自分も額をこすった。

 砂浜から防砂林を抜けると神社の石畳が見えてくる。青年と幼女は二三段ほんの少しだけ高い階段をのぼり、鳥居の前に着いた、鳥居には「磯崎神社」の扁額がかかっている。青年はポケットから小銭を出すと幼女の小さな手にそれを握らせた。青年は賽銭箱に小銭を五銭分投げ込む。幼女は不思議そうにそれを眺めていたが、青年に促されて、賽銭箱に小銭を入れた。

「ガラガラ、やりたい」

「いいよ」

 幼女が紐を引っ張ると、がらがらという鈴が鳴る大きな音がする。その音がすると、青年は手を二回たたき、お辞儀をする。幼女も小さくお辞儀をした。

「どうか、海風が吹きますように」

 青年が願い事を言ったその瞬間の出来事であった。陸から吹いていた風が止まったのだ。青年は気味が悪いといわんばかりに左右を見回すと幼女がぽつりと「朝凪」と嬉しそうに言う。

「いまのうち、海に戻りたい。お兄さん、海にある鳥居のところまで連れていって」

「わ、わかった」

 神社の参道は海に面しており、海の中にはぼろぼろの紅い鳥居がたっている。青年は幼女の手をひき、防砂林の中を歩く。幼女はそわそわとした様子である。何かにせかされるように、松の木の間を青年は通りすぎると、そこには磯崎神社の大鳥居があった。海は朝の光を反射してきらきらと輝いていた。幼女は繋いでいた手を無理やり離すと、黒い大きな磯岩に腰かけた。

「朝凪。もうすぐ、海風が吹く」

 幼女の言った通りであった。青年の顔にくっつくようなべたべたとしたしおかぜがまとわりついた。青年が一瞬目を閉じる。目を開けると、礒岩の上には幼女はいなかった。青年はきょろきょろとあたりを見回すと「おーい」という小さな声が聞こえた。青年が声の聞こえた方を見ると、幼女が海にぷかぷかと浮いていた。

「ありがとう。お兄さん。これでお母さんのところに帰れる。お母さんにお兄さんがこれからいいこといっぱいあるようにお願いしておくね」

 幼女は小さく手を青年に向けて振ると海の中へと潜っていった。

 その後、青年には確かに御目出度きことが多くあった。戦争のときも集落には爆弾は一切落ちず、青年の出兵直前に戦争が終結した。そして海風が吹くなか、彼は花嫁を見つけ、生涯を幸福に過ごした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

うみかぜ 石燕 鴎 @sekien_kamome

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ