エピローグ

 高校生として最後となる春を迎えた。

 桜の花びらは入学式までは何とか持っていたが、一昨日の雨風によって一気に散り始めてしまい、今では、所々道端に薄ピンク色の塊を形成している。


 それもそれで晩春の風物詩といえなくもないのかもしれないが、あいにくそのあたりの風流な趣味は持ち合わせていないから、これといった興味関心は、今のところ特にはない。


 しかし、去年のこの時期は、こうした散りゆく桜の花びらを、俺は病院のベッドの上から窓を隔てて見ていた。

 それだけに、春風と一緒に直接感じるというのも、どこか心地いような気が――しない。うん、全くしない。むしろ迷惑に感じている。

 というのも、今俺は、遅刻ギリギリの中、家から全力疾走でチャリを飛ばしている。


 なぜか――理由は至極簡単でシンプルで、「寝坊した」からだ。

 春休みになってからはだいぶ生活リズムがずれ込んでしまい、今日から学校だということを完全に忘れていた。

 妹の美咲が「忘れ物した~!」と叫びながら自室に飛び込んでいく音で目が覚めて、そこでようやく今日から新学期だということを知ったのである。美咲、サンキュー。


 ということで、朝食を流し込みながら制服に袖を通し、ダッシュでチャリにまたがり、そして現在に至る。

 全力でペダルを漕いでいるということは、しっかりと風を切っているのである。そして、桜の木の近くを通るたびに、散って来る桜の花びらが口の中に入って来る。

 もうマジでこれだけは本当に勘弁してほしい。桜味のアイスとかじゃないんだから、そういうのは別に求めていないからさ……。


 そんな状況でも、俺は「向かい風にも負けず、桜の花びらにも負けず」精神のもと、何とか学校に辿り着くことができた。

 荒れ狂う呼吸を整えながら、それでも俺は駆け足で昇降口へと向かう。ここで油断をしたらそれこそ遅刻してしまうからな。


 今日から新学期ということで、本来であれば校舎前にでかでかとした掲示板にクラス割が張り出され、そこに大勢の生徒が集まり、この一年の命運を分けるであろうクラス発表に一喜一憂している、そんな光景があるはずだった。


 しかし、時は始業十分前弱。

 俺が想像していたような光景が校舎前に広がっていることはなく、人の姿すらほとんどなかった。

 きっと、もうすでに自分のクラスを確認して、教室に向かい、そして新たなクラスコミュニティづくりに励んでいるのだろう。


 去年は入院、今年は遅刻ギリギリ。つまり、二年連続で肝心のスタートダッシュで滑って転んでしまったということになる。

 べ、別に大勢の人に囲まれるほど友達が欲しいとか、そんなんじゃないんだけどねっ!


 俺も自分が今年どのクラスなのかを確信するため、寂しげに佇んでいるクラス割の張り紙に近づいていく。

 しかし、あくまでも俺は遅刻ギリギリの身。俺以外の、例えば達也とか、佳奈さん、そして結衣がどのクラスで――なんて言うことをゆっくりと見ている余裕はない。

 クラス替えまでは何回も何回もこのときのことを想像していたのに……。時間というものの恐ろしさを身をもって感じている。


 この300人弱の名前が連なっている大きな張り紙の中から、「高岡伊織」という名前を瞬時に見つけ、割り当てられた教室へと猛ダッシュする。

 近づいてから自分の名前を見つけて教室へ向かい始めるまで、おそらく十秒もかかっていない。ほとんど足と止めることなくノンストップでこれをやり遂げることができたという最高の時短術に、それをやった自分でもちょっと驚いてしまうほどだった。


 「――ふぅ、間に合ったぁ……」


 教室の前に来たところで時計を確認すると、予鈴まで三分ほどの余裕があった。

 さすがに、汗ばんで荒い呼吸をしながら新しい教室に足を踏み入れられるほど、俺は強メンタルではない。むしろどっちかといえば豆腐メンタル。

 なるべく目立たないように平均的で均質的な存在でいること。これが絶対条件だ。


 もう一度深呼吸をしてから、ゆっくりと引き戸を引く。努めてゆっくりと。

 ここで勢いよく開けようものなら、よほどの陽キャかかまってちゃんかの二択になってしまうからな。


 「っ…………」


 ある程度は想像がついていた。いや、去年とほとんど同じ状況なんだから、まぁこうなるだろうとは思っていた。

 賑やかな話し声がほんの一瞬止む。そして、クラス中の視線のほとんどが俺に集まり始める。


 新学期恒例の「品定めの視線」ってやつだ。

 この一年で、自分のグループに合う奴かそうでないかを、この瞬間にある程度判別されてしまう、なんとも恐ろしいシステム。


 いくら去年と同じとはいえ、さすがにこれを受けても「みんな、やっほー」なんて平気な顔をすることはできない。

 その視線から注意をそらし、急いで自分の席に着く。

 さて、今年もボッチ生活が始まるのか……。

 そんなことを考えてため息をついていると、不意に俺の左側から声をかけられた。


 「――おはよう。伊織」


 「……………っ⁉」


 たしか、去年もこんな感じだったような。

 完全孤立ボッチの俺に声をかけてくれる人がいたことに、めちゃめちゃ驚いて。そう思いながら声のする方に振り向いて。

 人間の最低限のマナーである挨拶の言葉すら口からでなくなってしまうほどの衝撃を受けて、全身が硬直して――。


 でも、去年と違うことがある。

 それは、俺を呼ぶ声が名字ではなくて名前だったこと。そして、その声の主が誰であるのかを、俺自身が知っていること――。


 そこに立っていたのは――一人の少女。

 朝日の逆光にも負けず劣らず、艶やかに光るダークブラウンのミディアムロブ、青く澄んだ瞳、少し上気したようにほんのりと赤く染まった頬。小柄ではあるが、しかしその可憐なシルエットは、まるで今しがた咲いたばかりの花のような瑞々しさを感じさせる――まさに天使。


 でも、もう黙りこくることはない。

 今まで、何十回、何百回と聞いてきた声。

 不安なとき、辛いとき、悲しいとき、そんなときに聞こえてきて、何度も救われてきた声。

 そしてこれから先もずっと聞くことになるであろう声。


 だから、俺も――。

 もう何回口に出してきたのかわからないその台詞を、あの日きちんと言えなかった言葉を、その少女に向かって俺は言う。


 「――おはよう、結衣」


 俺と結衣の物語は、たった一年では終わらない。いや、終わらせない。

 これからも、この先も。

 結衣と一緒に紡いでいく時間の中で。

 俺は、このモノクロだった青春に、色を付けいてく――。

 

【完】

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ボッチの俺と天使の君 東山 はる @haru-higashiyama

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