ダージリン・ティーの君へ
アサリ
一話完結
一人の黒髪の女、楓・エルガーが丁度、自宅にてティータイムの準備を終えた、そんな時だ。
ふう、と自分以外の呼吸音が聞こえた。楓はようやく『彼』の存在に気付く。
「じゃあな」
楓がゆっくり後ろを振り返ると、一人の男が今まさにこちらにナイフを振り下ろしたところであった。的確に首元に向かう銀色の一閃だが、楓が咄嗟に出した左の手のひらを貫して止まる。
男は少しだけ驚いた様子で、ずるり、とナイフを引き抜いた。楓は全身から冷や汗が吹き出て、ぎゅうと眉間にしわを寄せる。激痛。部屋を染め上げていく鮮血を見てしまうと、更に痛みが増すようだ。
楓は一瞬で状況を整理する。
自分は今、目の前の男に殺されかけた。理由はわからない。知らない男だ。けれど、最近城下で噂になっている殺人鬼の噂は聞いたことがある。もしかしたらこの男がそうかもしれない。確信はない。この男はいつからここにいたか、それもわからない。長く、無心になってキッチンで大量に菓子を焼いていたから、気付かなかった。左手が痛む。かつて楓であった赤色が、床に広がっていく。目の前の男は落ち着いている。きっとこれは、勢い余って、の行動ではない。彼は慣れている。すなわち人間を殺すことに慣れきって、けれど今は一撃で仕留められなかったため、彼も彼でこちらを観察している。それだけだ。次の攻撃は止められないかもしれない。楓は自分の手のひらについた傷を見ている。
この技の鋭さなら、死ぬにしても大して痛みはないかもしれない。それならば、悪くない。楓は呼吸を整える。うっすら笑みすら浮かべて、両手を下ろして。腕は肩からだらりとぶら下げるだけ。
自宅で殺人に合いかけた、けれど悲鳴の一つもあげない楓は明らかに普通ではない。故に。
「……なんだァ? アンタ、この状況でなんっにも思わねえのか?」
それは質問だった。楓の肩から力が抜けて、一つにまとめた長い髪がゆらりと揺れる。男は今一度楓の姿を確認する。どこからどう見たってだたの町娘にしか見えないが、こうして真っ直ぐに目を合わせると、なるほど一筋縄ではいかなそうな強い目をしている。もしかしたら腕に覚えのあるタイプの女なのかもしれない。
「……」
いいや、今から戦おうという人間にしては、纏う雰囲気が穏やかすぎる。かと言って今から死ぬのだと諦めて自棄になっている様子でもない。女からは、青すぎる空を映し出す水たまりのような品位を感じる。
女は青白い肌を歪めて笑う。
「私は、こういう風に居なくなるのか、と考えていたんです」
女にしては少し低めの声だった。
うるさくない、うっとうしくない、素直に鼓膜を通って脳まで届く。声を聞いても、女に敵意はなさそうだった。女は「考えていた」と言った。なんとなく、その先の思考が気になって、問う。
「それで?」
「うん。納得の最後です」
即答だった。女は満足そうに微笑んだ。
言葉に嘘はないように聞こえるが、細く小さな手のひらからは、相変わらず血液が流れ出ている。その傷跡は間違いなく、男が女にもたらそうとした『死』に抗った結果であった。
「さっきは抵抗しただろうが」
一撃目は油断していた。一般人の家を襲う時、こんな風に攻撃を止められたことはないし、仕留めようとしてしくじったこともない。それなりの一閃であったはずだが、傷を受けた女、楓はやはり、潔く微笑むのみ。
「すいません、反射で……。けれど次は、きっと貴方の思い描いた通りに、私は死ぬ」
足元はすっかり赤に染まっている。
楓の表情は穏やかだが、その姿全体を視界に収めると、ただ痛々しい。
「……」
男はナイフを収めて楓との距離を詰める。ゆっくりと前進。男の靴が、楓の血を踏み越えた。行動の意図が読めずに、楓は細めていた目を丸く開いて、きょとんと見上げる。
「どうかしましたか」
「黙ってろ」
凶器を腰のあたりにしまって、楓と同じに丸腰となった殺人未遂の男はぎこちなく楓の左手を持ち上げた。鋭い八重歯で自らのコートの端を引き千切る。
「……」
楓は丸く見開いた目を少しずつ戻して無言である。男の行動を静かに見つめた。しばらくは凶悪そうに整った悪人面を眺めていたが、男が次第に居心地が悪そうに眉を寄せていくのに気付いて、そっと自らの左手に視線を落とした。
「……」
男は、引きちぎった布で楓の手のひらから吹き出す血を拭き取った。当然その程度で血は止まらない。それどころか、時折傷口に触れるせいで痛みが走る。そのほとんどを耐えているが、今一際強い痛みに襲われ体を震わせた。
男の手には、小さな縦長の瓶が握られている。透明な液体を無遠慮に左手にひっかけられる、痛みとは別に、肌がすこしひやりとする。消毒薬だ。中身をしっかり使いきり、空になった小瓶はポケットへ。次に、また別のポケットから今度は平たい瓶を取り出した。中には、白いクリーム状のものが入っている。
それを傷口に塗り込むと、これまた痛むが、ぴたりと血が止まった。薬か別の詰め物かを判断することはできないが、もう、床に赤色は広がらない。男はもう一度コートの端を引きちぎって、楓の左手に包帯代わりに巻きつけた。
血の匂いは残っているが、痛みはほんの少しだけ引いた。痛み止めの作用もあった可能性が浮上する。つまり、男は、楓を手当てした。
楓は、ゆっくり顔を上げる。
「……ありがとうございます、とても、良く効く血止薬を持っているんですね」
男と目が合うことはない。
この行動に意味を見つけたいと一番に思っているのはこの男なのだろう。鋭い切れ長の目はそっと伏せられて、長い睫毛の奥の紅葉のような赤い瞳はゆらゆらと揺れて迷っている。ナイフを振り下ろした時のギラギラとした光はこの足元の血の中に溶けてしまったのかもしれない。
血の臭いがひどい。けれど、その奥に別の匂いも存在する。焼きたてのクッキーの香り、チョコレートを焼いた深く甘い香ばしさ、淹れたてのオータムナル、ダージリン・ティーは深い森林の明け方、清涼な仄明るさを思わせる香り。楓は、近くにかけられていたタオルで床の血を拭き取りながら、道端で誰とも知れぬ相手に親切にしてもらった後のように、それが当然であるのです、と言う顔をして、胸さえ張って言ったのである。
「よかったら、お茶でもどうぞ。甘いものも、苦手でなければ食べてください。私が勝手に死ぬのはともかく、そういえば、せっかく作ったものがこのまま腐っていくのは嫌ですから」
手際よく、右手だけで床の血を拭き取って、汚れたタオルは袋に閉じ込める。
男の近くの椅子を引いて、適当に菓子を並べて、最後に、カップを二つテーブルに置いた。落ち葉のような深いオレンジ。ようやく男にも、血ではない、楓が作り出した香りが届く。
楓の顔色は相変わらずに良くないし、傷を癒すならば、医者へ行くべきである。生き残りたいのなら、逃げるべきである。殺人犯など追い出すべきである。呑気に茶など飲んでいる場合ではないのである。まして、ありがとう、などと笑うのはおかしい。楓はやはり、どこか普通ではない。
もしかしたら、この奇行の先に彼女が生き残る算段があるのかもしれない。時間を稼げば、人が来るだとか、例えばこの茶や菓子に、何か入っているとか。それならばこの行動も納得できる。
しかし、手当てをする前、彼女は確かに、男に命を捧げていた。
「……アンタ、名前は?」
用意された席に座れば、この奇怪な女が考えていることがわかるのかもしれない。男はようやく再び楓と目を合わせた。楓はこの状況が面白くて仕方がないと言うように、笑いを堪えて唇を引き結んでいた。必死に両目に力を入れて、今にも笑い出すのを耐えている。
それでも、名前を聞かれて、目が合ったその三秒後、彼女は楽しげに吹き出した。
「楓と言います。貴方は?」
かえで、このあたりの国にしては珍しい言葉の響きをしばらく噛み締め、しっかりと記憶した後に、男も、にい、と笑って見せた。何が、どうして、一つずつ理由を見つけることが億劫で、そのうちに考えるのをやめる。この時男は、理由もわからず楽しくなって、思い切り、口元を吊り上げた。
紅葉しきった木々の葉は土に還り行く。そろそろと冬の足音が聞こえて来る早朝。目を覚ました後の厳しい寒さを乗り越えて、すぐに着替えて、暖炉に火をつける。その後はとにかく体を動かして寒さを誤魔化すのみであった。いつもよりも起床が早い分、肌に受ける冷気も強い。
楓は朝起きると、二人分の朝食を用意することが日課となった。
街が賑わうより早く起きて、菓子やらパンやらを焼くこと自体は今までと変わりないけれど、左手のひらに穴が空いた日から、きちんと朝食をとるようになった。キッチンで焼きたてのクロワッサンとバターを用意していると、のそのそと無防備な姿であくびをしながら、一人の男が顔を出す。
「秋さん。おはようございます」
その男というのは無論、何日も前にこの家に不法侵入をした挙句、楓を殺そうと刃物を振るい、負わせた傷を自らが手当てし、何事もなかったかのように一緒に茶を飲んだ男である。出会った瞬間の殺意は見る影もない。大きめのシャツと大きめのズボンの黒い寝間着のままで、見た目はただの悪人面の青年である。
秋、というのは正確には彼の名前ではないのだけれど、名前については「そんなもんねーよ」とのことで、楓は考えた末、ティーカップに視線を落として閃いた。木々も色めく現在の季節の名前。カップの中で揺れる茶葉も秋に摘まれたものである。ならば「秋」でどうかと提案した。彼はなんでもいい、と興味がなさそうだったが、いつの間にかその名前が気に入ったようであった。
「……おはよ」
何日も一緒に過ごしてわかったことは、彼は思ったよりもよく笑う人であると言うことだ。にい、と鋭い八重歯まで見せて笑う姿を見ることは、日に日に増えていった。楓も、にこりと笑い返して朝食の準備を進めた。
りんごを切り分けたら、飲み物を用意して、それで終わりだ。
先に椅子に座った秋は、ぼんやりと楓の後ろ姿を見つめる。つい最近、左手の包帯が取れた。無論まだ傷跡は残っているが、楓は一切、傷をかばったり気にしたりする様子を見せなかった。
楓の家は城下街のはずれにあって、人通りも少なく、いつも静かで、ずっといると時間の感覚が鈍くなる。けれど、外界からのつながりを絶っているというわけではなく、むしろ逆で、楓が大量の菓子やパンを作るのは、城下の人間に売る為であった。決まった店舗を持っているというわけではなく、毎日、一人では動けないような老人の家へ訪問したり、小さな子供のいる主婦の家へ訪問したり、日持ちする菓子は商店街の一角にあるパン屋に販売を委託したり。大通りを歩けば数歩に一度は声をかけられ、顧客を何人も持っている。時折家に客がきて直接依頼を受けたりもする。街では有名な自由業の娘、それが、楓という人間であった。
数日間は楓について回ったり、楓を影から眺めたりしていた秋であったが、楓の行動パターンをすっかり覚えて、楓の代理で客の家へ商品を届けに行ったりしている。「行ってやろうか」と提案したのは秋であったが、二つ返事で任せる楓は、やはりおかしい。楓の客を秋が刺し殺すとは、思ってもいないようだ。
楓は「秋さんは、好きで殺してるわけじゃないんじゃないかと思って」と笑っていた。
「今日の予定は」
両手を上に上げて関節を伸ばしながら、楓の背中に声をかける。
「今日はちょっと、お城に」
「城? おいおい、城下で人気なだけかと思えば、そんなところにも客が居るってか?」
「あはは、実は、そうなんです。だからいつもよりも多めに作らなくちゃいけなくて」
「ああ、だからいつもより早く起きてたのか。手伝ってやろうか?」
「ありがとうございます。なら、そうですね。もうすぐ焼き上がりますから、箱に詰めるのと、荷台に乗せるのを手伝って下さい」
食べやすいサイズに切り分けられたりんごの乗った皿が目の前に置かれる。楓の顔を見上げれば、いつも通りに微笑んではいる。ただ、いつもよりも少し声のトーンが低い。
「それだけでいいのかい?」
秋の言葉に、楓は驚いて目を丸くする。
「え、お城、来たいですか?」
「いや、そういうことじゃあ、」
楓にしては珍しく、相手の意図を読み切れないでいる。秋はそこで否定の言葉を切って、もう少しだけ探りを入れてみることにする。
「俺が行ったら、まずいのか」
「……行きたいのなら、止めませんよ。でも、個人的に、とても、会わせたくない騎士が居るんです。その騎士に会わないようにこの仕事はできなくて……、しかもおそらく、あの人と秋さんは絶対に合わないと思うんです。もしかしたらひどく不快な思いをさせるかもしれません。とても個人的な理由で本当に申し訳ないんですけれど、私は、あまり、その、オススメは、しません。本当に、行きたい、なら、止めません、けど……」
これもまた珍しいことだった。大抵の質問には笑顔で答える楓であるが、目の前にちょこんと座った彼女の表情は困り果てていて、すっかり眉尻が下がってしまっている。楓は本当のことを言っていて、なんならその言葉は秋を気遣ってもいるようだ。間違っても、このタイミングで秋を騎士団に突き出そうと思っている、という風ではない。秋も今更、そんなことは疑っていない。それがしたいのなら、今まで何度だって機会はあったのだ。
関係は極めて良好。
故に、秋はその「会わせたくない騎士」というのが気にかかる。騎士というからには男であろう。楓は嘘を言っていないが、全てを話したわけでもない。
お互いに手を合わせて「いただきます」と言って食事をはじめる。
秋も楓もしばらく黙々と食べていたが、秋はじっと楓を見つめていた。楓は意識して、秋と視線を合わせないようにしている。秋がデザートのりんごをかじりだしたところで、楓はとうとう視線を受けきれなくなり、耳まで赤くなった後、机に額を押し付けた。
「……これで、わかっていただけませんか」
「そうだなァ。カエデが俺のことをか、な、り、気に入っているってことは、わかってやれるんだがなァ?」
「それだけわかってもらえれば私としては充分ですよ……」
「いいや。忘れてもらっちゃあ困るのは、俺もすっかりこの生活が気に入りであるってところだろうよ。だから、俺の知らない男のことを隠されるのはどうにもなァ」
依然、楓と秋の目は合わない。
「隠して、ない……」
「隠してるだろうが」
「でもこれ結構面倒な話で……、さっき確認していただいたことはこれから先絶対に揺れないのでそれで勘弁して欲しいんですが……」
「さっき確認したことってのは?」
「……」
楓はわかりやすく肩を震わせた。
彼女はどうにも後ろめたいことを隠しているようだが、そんなことは大した問題ではないだろう。こうして追いつめていくと、楓は次第に覚悟を決めて。
思えば、あの瞳はあまりにも印象的だった。なるほどこうして死にゆくのかと覚悟した楓の瞳は強く静かに輝いていた。少しの間沈黙した後、すう、とあの時の目に変貌する。少し前まで気持ちを暴かれて小さくなっていたくせに、一度決意を固めると今まで見たことがないくらいに強い光をこちらに向ける。
秋もにやにやとからかうような笑みを引っ込めて、眩しい女を、眩しげに目を細めて見つめた。
「私、貴方のことが」
続く言葉はなんであったか。
カーン、カーンと良く響く、玄関のベルが鳴らされた。二人の思考はしばらく停止。ややあって秋は舌打ちをして、水を差された機嫌の悪さを隠しもしないで立ち上がった。
楓は玄関に向かう秋の背をしばらく見つめていたが、はっとして立ち上がる。やばい。この日この時間、わざわざ家まで来るような客に、自分は心当たりがある。慌てて背を追うが、今まさに秋が楓に変わって玄関の扉を開いたところだ。間に合わない。ベルの後は、声が響く、男の声だ。男性にしては少し高い、軽薄そうな声。まるで色のきついペンキがぶちまけられたよう。
「おはよう、カエデ! 元気してた? 君のミリイ・バーセルが来……ん?」
「……」
ミリイと名乗った男はさらりと肩のあたりまで伸ばした亜麻色の髪を揺らしながら首をかしげる。満面の笑みで現れたのだが、目の前にいるのが楓ではないことを確認すると、城下の女性に人気の少し下がった甘い目尻にじわじわと水分が溜まっていく。ミリイは今にも泣き出しそうな顔で、声を震わせてがたがたと視線を彷徨わせた。
「え……? あれ、俺、来る家間違えた? 間違えてないよね? 楓いるじゃん。へ、も、もしかして、これ、う、う、うわ、き……」
「おい、カエデ。もしかしてこれが」
「そうなんです、これが……」
「ちょっと! どうして俺のカエデを気安く呼び捨てなわけ?」
「あ?」
「なにその悪人面怖すぎるんだけど! カエデ! 説明は!」
「説明は特にありません。貴方とは肩書きだけでなんでもない」
「冷たい! なにこれ!」
「そのまま十分待って下さい。すぐ詰めて荷台に乗せるから」
「え、ち、違う違う違う! 俺このままゆっくりカエデとお茶でも飲んだ後に、君を手伝って城まで一緒にいくところまでシュミレート済みで……」
「私にはそういう予定はありませんでしたので、今は黙ってそこで待ってて下さい」
「冷たすぎる! かつてない冷たさなんだけど! 俺と君は婚約者でしょ!」
楓は、膝から崩れ落ちる。
ぶちまけられたペンキは、実は液体窒素であった。空気が瞬く間に凍りついて、これには思わず、秋もちらりと楓に視線を落とす。
「……」
しばらく秋とミリイはがっくりとうなだれている楓を見ていた。そのうち楓は大きく呼吸をして全身に酸素を巡らせた。どちらにも説明が必要だ。体の中の空気をすっかり入れ替えてから立ち上がる。
「ミリイくん」
「嫌だよ」
「……今日、仕事が終わる頃に話をしに行くから」
「嫌だって言ってるでしょ? 俺、帰らないからね」
二人のやりとりを、秋はただ壁に背を預けて見届けていた。
二人揃って、泣き出しそうな顔で問答を続けている。楓が、この騎士と秋を会わせたくないと言ったその理由も見え出した。例えどういう形であれ婚約者が別の男と同棲していたのなら、まあそれは浮気であるし、ミリイは楓に好意があるらしい。見過ごすことはできないだろう。また、そういう存在を今まで欠片も臭わせずにいた楓もさぞこの場には居辛いだろう。とにかく一つずつ話をしていきたいところだ。楓の、ミリイに対する態度から酷な話になるのは目に見えている。ひとまず落ち着いてもらわなければ、楓はミリイの前に立つと、ばちりと視線を合わせた後に、深く頭を下げて言った。
「ごめんなさい。私が悪かったから、ここは」
「っ、そんなこと、できると思う?」
引くことはできない。しかし、楓も、ここで引くことはできなかった。ミリイは、彼女にこんな風に頭を下げられたことは一度もなかった。それどころか、どれだけ記憶を遡ってもこんなにも必死な姿は見たことがない。いつでも人を遠ざける涼やかな笑顔で淡々となんでもこなしていた彼女が、理屈抜きに情熱だけで場を収めようとするなんて。
赤い瞳の悪人面の、氷のような視線もミリイの肌に刺さっている。
もう粘れないな、と、息を吐く。今日の夜、楓は話をしに来ると言った。それまでおとなしく待つことにしよう。断腸の思いで。
「ああもう! わかった! わかったから……」
ミリイ・バーセルは、楓・エルガーのこんな姿を見続けることができなかった。
鎧ががちゃがちゃと音を立てる。音にも重さにもすっかり慣れた。いつもと違うのは、金属が擦れる無機質な音の中に、微かに甘い香りが残っていること。ミリイ・バーセルは楓から菓子やらパンやらを受け取ると、そのまま一人で城へと帰還した。
長い廊下の先。この城で何番目かに大きな扉を数回ノック。扉越しでも聞こえるように声を上げる。
「エルガー騎士団長、ミリイ・バーセルです」
「ああ。入ってくれ」
返答を確認してからドアに手を伸ばす。大きさの割に重くない扉を引いて中へ入った。騎士団長の執務室であるが、彼、ジャン・エルガーはこの部屋で寝泊まりしており、ほぼ彼の私室となってしまっている。
「失礼します。恒例の菓子、全員に配り終えました」
ミリイはぴしりと背筋を伸ばして、大量の書類の乗った机の前に立つ。
「ずいぶん早かったな、楓のところでゆっくりしてこなかったのか?」
年と経験とを重ねた、深みのある低い声が的確にミリイの胸を抉っていく。
「いえ、それが」
「なんだ。仕事でも立て込んでいたのか」
それならばどれだけよかったか。ジャンはまだ書類に視線を落としたままだ。
「そういうわけでも、なく」
「ん? ならば、喧嘩でもしてきたのか」
「喧嘩に、なれば、よかったのですが」
ここでようやく、ジャンはミリイの顔を見上げる。ジャン曰く、楓は母親似であるらしいが、なんでもかんでもしれっと受け入れる時の潔い笑顔は楓とよく似ている。ただ、身体的に似ているところはあまりない。ジャンは騎士団長らしく大きく鍛えられたがっしりとした体をしているし、見えている肌にはいくつも傷跡がある。
厳格そうに見えるが、この団長は自分で思っているより親バカであり、また騎士団にとっても父のような存在であった。大木のような穏やかな視線がミリイに向かう。
「まさか、浮気でもされたか」
「……」
婚約者ではない男を家に上げて、仲良くしていた。事実だけ並べたら、確かに浮気である。けれど。
「ハハハハハ! そうか。楓は元気だったか」
ジャンは豪快に笑い声を響かせた。傷口に強い突風が吹き込む。
「俺の傷心に一切触れてくださらないんですね」
「もとよりお前のゴリ押しで成った形だけの婚約だろう。楓はお前に、そうだな、はやく私のことは諦めたほうがいい、くらいのことは言っていたんじゃないか?」
「……それどころか、楓は、自分にもっと大事なものができたら既存の婚約者なんて簡単に切り捨てると言い切ってました!」
「なんとそうか! そういうところも母親にそっくりだな。自分の直感を信じて一切の迷いなし! 我が娘ながら大層な言い分だ!」
「完全に楽しんでますね!?」
傷口の上で転げ回られている気分であった。
もしかしたらこの騎士団長は、楓のような女性を手に入れた側の人間である為、必死で彼女を求める自分の気持ちはわからないのかもしれない。
「ふふ、すまない。だが、楓はお前を嫌っているわけではない。なにせ、学校ではお前くらいしか友人と呼べる人間はいなかったのだから」
「俺は昔から……、友人になりたくて近づいてたわけじゃないんですけどねえ……」
確かに学校では友人であった。その時のほうが、婚約を取り付けた今より距離は近かった。楓がミリイに求めたものは、ミリイが楓に求めたものとは全くちがう形のものだった。それだけの話である。
「知っているとも。だが、私は楓の父親だからな。とりあえずは娘を肯定するさ」
楓を否定する気は、ミリイにもない。
ただ、簡単に認めることはできない。それでも、見たことのない楓を見た。ミリイにとっていつでも楓は格好よくて憧れであったけれど、久しぶりに見た楓はどこかふわふわとしていた。
「……楓、見たことのない顔をしていました。あんな風に、たった一人に必死になる彼女を見たのは、はじめてです」
「そうか。いいじゃないか」
「俺はよくないですけど」
騎士団に所属して、必死になってジャンに取り入ろうと頑張った日々を思い出す。手柄を立てたりポイントを稼ぐ為に掃除をしたりととにかくいろいろした。婚約者にしてもらえた日は震えるくらいに嬉しかったものだ。楓は、ひどく複雑な表情で口を開けば「やめといたほうがいい」の一点張りであった。会う度に「まだ続けるのか」と言われても、楓・エルガーの婚約者であるという肩書きはミリイにとって尊いものだった。
「で、相手はどんな男だった」
「さあ。見たことのない悪人面の男でした。氷の悪漢って感じ」
隣に、さも当然のように立っていた。余裕たっぷり、嫌味なくらい悪く整った顔を思い出す。
「……見たことがない男か」
「ええ」
顎に指を当ててじっと思案している。やはり、こういう時の顔は楓と似ている。そして、この人は散々娘や嫁のことを勘が鋭い、直感力が強すぎる、などと言うが、ミリイからしてみればこの人の閃きや発想も常人のそれではない。
「もしやと思うが。瞳の色は、赤、では?」
「え、まさか、騎士団長殿はカエデの浮気をご存知で……」
「そうじゃない。いや、そうか。だが、ミリイくん。もしかしたらその男は――」
伏せられていた強い瞳が、ぎらりと揺れる。思わず唾を飲み込んだ。
ジャンが小さな声で語った。その話は、知っていた。知っていたが、そんなことは思いつきもしなかった。
赤い瞳の殺人鬼。
あらゆる国を転々として、一般人を殺しては自らの生への糧としている最悪の男。それが、今、この国にいるらしいという噂は耳にしていた。それでも、まさか、楓と一緒にいたあの男がそうであるかもしれない、なんて。
「……なんですって?」
氷の悪漢とはよく言ったものだ。
ミリイは、つり上がって笑顔を作ろうとする口元を必死で抑えた。笑っている場合ではない、喜んでいる場合でもない。しかし、希望せずにはいられない。
まだ、カエデを諦めないでいられる……!
ミリイ・バーセルは、よく泣く男であったと記憶している。
いや、最初は男であると思っておらず、楓は彼を女であると思っていた。それがまだ十にも満たない頃の話。「男だったの」と口を滑らせた楓に、ミリイは大層傷ついた様子で大泣きしながら「カエデのばか!」と連呼していた。
それでも、十代も半ばを過ぎるとそこそこ男も上がり、女子人気もなかなかであった。もともと良い家の出身と言うこともあり、生まれ持った優雅さが他の男とは違うし、あの甘さがたまらない、らしい。楓には、残念ながら理解ができない。相変わらずに女に見えるし、もう少し、あの安っぽいアクセサリーみたいな話し方あたりからどうにかならないものだろうかと首をひねっている。
ミリイは幼い頃からの縁で、楓とよくよく一緒にいた。
ミリイは友人であった。
そんな彼から、学校卒業まであと一年というところで、告白された。
正直あまり覚えていない。一回目は冗談か何かの練習だと思って「うん。良い感じだと思いますよ」などと言ってしまった。これにもまた彼は大層傷ついたらしく「カエデのばか! 超絶ばか!」と泣きそうにしていた。
もしかしたら本気だったのかもしれないと気づいて謝ると「返事は?」と言われたので「いや、私は友達でいたい」と切り返すとまた泣かれた。次の日ミリイは目を腫らして懲りずに楓の前に現れる。
「カエデの欲しいものは全部あげるから、俺と一緒になって」
それはもやはプロポーズであった。
そんなに、好かれるようなことをしていただろうか。ちなみに、このプロポーズには「なぜ」と答えてしまい、これまたひどく怒られた。が、ひとしきり怒ったあとに、「わかった」と一言だけ残してミリイは去っていった。そして次の日、今度は目の下にクマを作ってかなり分厚い茶封筒を差し出してきた。
「読んで」
「なんですか、これ」
「ラブレター」
「ら……?」
一旦読んでいた本を閉じて、恐る恐る中身を取り出す。白い紙に、ぎっつりと文字が敷き詰められている。カエデへ、と始まって、延々と楓・エルガーのどのあたりが好きであるか、自分と結婚した場合どんな良いことがあるか、などが書かれていた。どうにか読みきり顔を上げると、ミリイは机に突っ伏して気絶するように眠っていた。
ゆすっても名前を呼んでもまったく起きなかった為、抱えて家まで送ってやると、次の日ミリイは学校を休んだ。理由は聞いていないが、珍しく家に帰ってきていた父に話をするとひたすら豪快に笑って、ついには床で転げ回っていた。なにやらなつかしい、などと言っていた父には同じ経験があるのかもしれない。
ミリイ・バーセルとはそんな日々を送った。そこそこ楽しい日々であり、しかし、彼と同じ好意を返せないことにはほんの少し歯がゆさを感じていた。自分としては彼とは友人で居たかったのだけれど、彼が自分に「好きだ」と告げた以上、それは望んではいけないことのような気がした。
学校を卒業すると、ミリイは騎士団に入団。楓は今の仕事を開始するにあたり、各国を廻り菓子作りやパン作りなどを勉強した。数年後国に帰ると、いつの間にかミリイと婚約していた。
婚約者になったのだと胸を張るミリイを眺めながら、とても寂しかったのを覚えている。すでに親友とも言える仲であったが、そう思っていたのは自分だけだった。しかも、自分には結婚する気も恋をする気もない。不用意に近寄るべきですらない。何度も何度も「やめておけ」と、それよりもっとひどいことも言っているのに、一向に諦めてくれる気配がない。
さすがに二十歳も近づくとミリイもそうそう楓の前で涙を流すことはなくなったが、ミリイが時折苦しそうに微笑むのが耐えられなかった。そんな顔をするくらいならば、いつかみたいに怒ればいいのに。
そんなわけで、ミリイ・バーセルは友人である。
秋は概ね納得し、静かに楓の話を聞いていた。楓ができるミリイの説明はこの程度のものである。あと残されていることと言えば、騎士としては優秀で部下からも上司からも頼られているらしい、とか、直接見ていない噂程度の話くらいだ。
暗い夜道を、少し大きめのコートを着込んで、ランタンを片手に進む。秋には一通り話をした。次はミリイに会いに行く。息を吐くと、目の前で吐息がうねって闇に飲まれていくのがわかる。かつて吐息であった白をぼんやりと見つめて、静かな夜をゆっくりと歩く。
城を中心に城下町が広がっている。騎士のほとんどは城の近くに住居を持っていた。国の設備として、騎士団の寮というものも存在する。しかしミリイは「汗臭いし無理」と笑顔で、比較的速やかに自らの居住を確保していた。今では、使用人までいる立派な屋敷に住んでいる。
家の前で鐘を鳴らす。からあん、からあん、と乾いた音は、楓の来訪を高らかに告げた。
扉から出てきたのは使用人ではなく、ミリイ本人であった。楓は軽く持っているランタンを振った。からからと音がする。
「こんばんは」
「待ってたよ、カエデ。寒かったろ? 上がってくれ」
楓は、一つ頷くと、勝手に門を押し開け迷わずに進む。勝手知ったる家ではある。案内されずともミリイの部屋はわかっている。ただ、少しばかり億劫であった。ミリイはいつも通りの全体的に軽めな笑顔を作ってはいるが、心の底から笑っているわけではない。伊達に幼馴染をしてない。空気がぴりぴりとしている。
「今、お茶でも入れるから。なにがいい?」
「お構いなく」
「まあまあ。君はダージリンが好きだったよね。とっておきのを淹れてあげるね」
客間ではなく、ミリイの寝室に通された。小さなテーブルと、椅子が二つ。それからキングサイズのベッドがある。チャラチャラとした見た目の割に、家も部屋も簡素であった。おそらく、用意をして待っていたのだろう。すぐに戻ってきたミリイは、上品な装飾のティーカップを二つ持っていた。
正面にカップが置かれる「ありがとうございます」と楓は言うが、ティーカップには手をつけずに、そのまま、まだ椅子に座ってもいないミリイに声をかける。
「あの人が、大切なんです」
その言葉は予測していた。きっと彼女であれば、遊びなど一切なく、ただ真に伝えなければならないことだけをまず言葉にするだろうと。ミリイは曖昧に笑って、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「ほんとうに、間に世間話挟むとか、そういう気遣いは一切ないんだから……。うん。だろうね、わかるよ。婚約だって形だけだった。君はいつも忠告してくれていた。今、君の言っていた通りになった。それだけの話だ」
楓は答えなかった。ミリイは続ける。
「それに、こうやって二人で話をするのもいつ振り? 結構前じゃない……? ねえ、君たちはいつ出会ったの?」
「……。それ、聞きたいですか? 私は言いたいことだけ言って、貴方からの恨みごとを一通り聞いたら帰るつもりだったんですけど……」
楓はじっとミリイの笑顔を見上げている。ミリイが作っている表情は笑顔であるが、どう観察してもそれだけだ。どの感情から来ている笑顔なのかわからない。本心は、笑っていない。
「やだなあ。さっきも言ったろ。君の気持ちは君だけのものだ。恨んでなんかいない。大分悔しくはあるけどね。だからまあ、久しぶりだし、少し話を聞くくらいいいだろ?」
「特に、面白い話はありませんよ。あの人と出会ったのは、前に城に来た日の、次の日だったと思います」
ぐ、とミリイは楓に詰め寄る。楓は詰め寄られた分だけ後ろに下がる。あまりにも居心地の悪い空気にかちゃり、と出されたティーカップを持ち上げる。
「どうやって仲良くなったの?」
「たまたま、私の作るものを気に入ってくれたんです。それで話をするようになって、意気投合しました。よくある話ですよ」
仕方なしに嘘と本当を交えて話をする。底の読めない笑顔は気持ち悪くさえある。ティーカップを口元まで持ってきたところで、ミリイの笑みが一層深くなる。
「そうなんだ。いつから一緒に住んでるの?」
「その日からです。宿に探していらしたのでよかったらどうかと私が提案したんですよ」
「ずっと、一緒なの?」
答えづらい質問が続く。耐えかねて、少し考える時間が欲しくてティーカップを傾ける。どうにか落ち着かなければ。カップの中身が口の中へ入るより先に、紅茶の香りがふわりと漂う。楓は、ぴたりと動きを止めた。その停止はあまりに不自然であったが、結局そのままミリイに出された紅茶に口をつけることはなく、カップをソーサーの上に戻した。
「……カエデ? どうかした?」
一度楓は目を閉じて、唇を強く噛んだ。やがてそうっと開かれた瞳は、カップの中身をしばし見つめる。
「これは、飲めない」
呟いた声は、親しい友人に永遠の別れを告げるようであった。寂しさだけを湛えている。怒りなど微塵もなく、ただ、あなたと別れるのが寂しいのだと、楓はその寂しさを隠しもせずに、今にも泣き出しそうな顔でミリイを見上げた。
「……随分、ずさんなやり方を選んできましたね、ミリイくん。この紅茶、ちょっと変なニオイしますよ。何か盛ってあるんじゃないですか?」
「!」
対してミリイは、相変わらず本当の感情を隠したまま、笑顔を作る。
「ほんっとに、やりずらい相手だよ、君は。ニオイなんて、俺にはわからなかったけどなあ。君の好きなものを出したのが間違いだったとか? それとも、もしかして最初から疑ってた? いや、お得意の直感かな?」
入っている薬は睡眠薬か麻痺毒か。体の自由を奪うものであることに間違いはないだろう。友人をここまで追い込んだ。友人の期待に添えることはできなかった。深く傷つけた。それでも、楓に迷いはない。言葉を、飛矢のように解き放つ。
「私の知ってるミリイ・バーセルは、こんなに聞き分けがよくはない」
空気が逆流する、
一瞬、息ができなくなった。
ミリイは、胸を押さえて体を縮めて大きく息を吸う。それからばっと両手を広げた。勢いよく、吸いすぎた酸素を吐き出す。今度こそ引くことはできない。勢いよく笑い声をあげた。
「ははははははっ! もう本当に最悪だ!」
楓は立ち上がって距離を取る。窓の方へと下がっていく。じりじりと下がると、窓のガラスに手が届いた。ミリイも立ち上がり、一歩、楓の方へ進む。
「私を動けなくして、それからどうするんです?」
「もちろん、殺人鬼を捕らえに行く。今頃俺の部下が君の家の居候の本性を暴いている頃さ」
ミリイはもう一歩、楓に近づく。
「あはは! 何も気付いていないと思ったかい? あの男がこの国の人間でないことはもう調べたし、もし彼が件の殺人鬼ではなかったとしても、不法入国だ。聴取は必要だろう。南のリテリア国ほどじゃあないが、我が国も罪人には割合に寛大だ。事情次第では国外追放くらいで済むんじゃないかな。まあ、巷を騒がす殺人鬼であれば、即刻殺してしまっても構いやしないと思うけど、ね」
楓は窓に手を引っ掛けて、すぐにでも外に飛び出せるように準備した。
「それを私が、許すとでも?」
「どこへ行くつもり?」
「決まっている。家に帰るんです。秋さんとここを離れます」
「させないよ。俺は君を逃したりしない。今だけは、絶対に」
ミリイが踏み込むのとほぼ同時に、楓は転がるように窓から外へ飛び出した。追いかけて外へ出てきたミリイを確認して、庭に生えていた木に駆け上り、そのまま、塀を飛び越えた。
ミリイも同じように塀を飛び越えて、楓に手を伸ばす。
楓は無防備に伸びてきた手首を掴んで勢いがついている方向へ投げとばす。ミリイの勢いを利用した動きであったが、町娘が咄嗟に行うにはあまりに洗練されていた。だが、ここまでの行動は読まれていたらしい。ミリイは体勢を崩されながらも楓から視線をそらさずに、しっかり両足を地面につけて、もう一度楓へと踏み込んだ。しかし、その踏み込んだ瞬間、楓もまた勢いよく前に出て、右手のひらをミリイの胸のあたりへ突き出した。雷のような掌底打ち。
ミリイはよろめき、楓は息を整えて距離を取る。
「ここまでにしましょうよ。ミリイくんは、私に勝ったこと、一度もないじゃないですか」
たった一撃で呼吸を乱された。体に酸素が行き渡りづらくなっている。たまらず数度咳き込むが、想定内だ。すぐに立って、すら、と剣から鞘を取り払う。
「今はもう、あの頃とは違う。騎士学校で首席と二位だったあの時から、何年たったと思ってるの? 俺だって成長してるよ」
楓は、夜闇に青白く光る刀身を見つめて、息を吐く。
「そうでしょうね……」
引いてくれそうにはない。楓もまた、胸のあたりに手を添えて、服の下に忍ばせていた短剣を引き抜いた。ミリイの持つ剣の鞘、柄にあしらわれた王家のレリーフは、楓の短剣にも刻まれている。
お互いに武器を構えて、先に踏み込んだのは楓であった。こんな風に刃を交えるのは、騎士学校の卒業式の時以来であった。それから楓はミリイの成長の程を知らないし、ミリイもまた楓がどのようにこの武を守ってきたのかを知らない。一人でふらふらと旅をしていたのだ。身を守るため、程度に行使したのかもと想像はできても、実際のところは知り得ない。
楓は、とにかく相手に接近して、手数で戦うタイプの戦士であった。騎士学校の同期はミリイも含めて楓との正面戦闘をしろと言われれば一様に顔を歪ませたものである。間合いに入られれば、ちょっとやそっとでは追い出せない。突っ込んでくる楓には、剣を構えながら距離を取る。
だが、姿勢を低くして這うように走る楓はあまりに早い、突風に吹かれた木の葉のごとく自由さで、下に剣を向ければ、既に上に飛んでいる。頭上を薙ぎ払う切っ先は、楓をかすめることもない。少し動きを止められればいい。しかし、その少しが、難しい。
楓はミリイが振るった剣をまともに受けることはせず、あくまで自分に刃が当たらないように短剣で受け流し、ミリイのすぐ側に着地した。剣を振るより肘を振った方が早いような超近距離。これは、楓の距離だ。まずい、と本能のままに剣を持っていない方の手を振り回すが、楓は更に体を沈めて避けてしまう。腕を振り切った、その瞬間。ほぼ真下から楓の短刀が向かってくる。両腕は戻せない。ならば足をと思うが、思った頃には楓に胸のあたりを掴まれていた。
実践なら、おそらく、破れかぶれに振った腕は折られていたに違いない。此の期に及んで手を抜かれていることに気付く。ひたり、と短刀は顎に突きつけられる。楓は騎士学校にいた頃と何も変わらない目をしていた。こういう時、楓はいつも寂しそうな無表情だ。
「ほんとうにずるいな。どうしてそんなに強いんだよ」
楓・エルガーは一人だった。初めて出会った時からそうだ。ミリイはそんな彼女に寄り添いたいと願っていたが、終ぞ彼女はミリイを選ぶことはなく。
「……私、行きますね」
そっと、刃はミリイから離れていく。次向かって行ったなら、きっと寸止めでは済まないだろう。殺されないまでも、腕か足を傷つけることに躊躇いを見せる彼女を想像することができなかった。あまりにも、優先順位がはっきりとしている。
背を向けて走り出す楓に、それでも、立ち止まって欲しいと言葉を投げる。
「足とか、折っていった方がいいんじゃない?」
楓はピタリと足を止めて振り返る。夜風がただ通り過ぎた。
「必要なら」
ひどく淡白な言葉に聞こえた。ミリイにはわからない。楓が何を思ってそれだけの言葉をこちらへ投げ返したのか。表情からは計り知れないが、相応の迷いがあっただろうか。それとも、ただ本当に思ったことを言っただけだろうか。どうでもいいと思っているかもしれない。
なんにせよ、あまりにもさらりと吐かれたその言葉に、身体中がカッと熱くなる。何度やっても敵わない。もう諦めたって良いと思うのに、彼女に言葉を投げることを止めることができなかった。
「何故、あいつなんだ!」
もう何年も、諦めようと思っては、諦めきれないできた。それはミリイの言い分。楓は、ミリイに諦めさせることを諦めなかった。何度だってもうやめろと言っていた。
この結末を読んでいたわけではないにしても、楓は努めて、彼に対して誠実であろうとしていた。彼女が口にするのは真実のみ。ミリイにもそれはわかっている。
「一目惚れですよ。あの人に殺されるなら、本望だと思ったんです」
楓はミリイの知らない、秋との出会いを思い返して、夢でも見るように目を細めた。
ミリイの叫びは、冷たい夜をただ震わせる。
「馬鹿か! あまりにも報われない、あいつは罪人だ! どんな理由があっても人間を殺して食物にしたら化け物だ! 俺は君を化け物にくれてやる気はない!」
こっぴどく騙されていたのなら、まだ、目を覚ますこと期待して待てる。
なにか弱みを握られて脅されているのなら、まだ、助け出すこともできる。
そんな純粋な心を見せられては、突破口が見つからない。
「やめてください。怒りますよ」
「あんなやつのどこがいいんだ! 平気な顔で人を殺すような人間の、一体どこが!」
隣に居たかっただけだ。
「ミリイくん」
「大してカエデのことを知らないくせに! まっとうな人生を生きていないくせに! 国にとって、世界にとってなんの役にもたたないくせに! 人のためになんて生きられないに決まっている! 君にあいつはふさわしくない!」
約束が欲しかっただけだ。
「あいつは!」
唯一になりたかっただけだ。
「取るに足らない、くだらない人間だ!」
ぷつ、
ギリギリまで張り詰めていた一本の糸が切れてしまった。
お互いに、気付いた時には手遅れである。
「さよなら。ミリイくん」
本当の、別れの言葉だった。
今度の声には、何の感情も乗っていない。忠告通りだ。彼女は、まさに、今、ミリイを切り捨てた。
楓の中に確かに存在した、ミリイ・バーセルはたった今いなくなった。今はもう何者でもなくなった。取るに足らないただの邪魔者。恨まれもしない。嫌われもしない。当然好かれもしない。彼女は強すぎる。そんなところを好きになったけれど、彼女の強さに、殺される。
楓は短刀を握り直して真っ直ぐにミリイへと迫る。先ほどとは比べものにならないくらいに速い。いいや、速度などなかったとしても、空気が重すぎる。重力が五倍くらいになったのではと錯覚する。指先を動かすだけでも肩が震える。これは恐怖である。
ミリイの中で感情が溢れる。思考が駆ける。
――はじめてだった。こんなに、本気の殺意を向けられたのは。こんなに怒って感情的になっている彼女を見たのは。彼女はいつも、なんだかんだ言いながら俺に本気で怒ったことはなかったのに。彼女は誠意を尽くしてくれていた。彼女は友人でいてくれた。俺がどれだけ理不尽に怒っても、彼女はずっと、俺の親友であろうとしてくれた。それを望んでいてくれた。彼女の言葉はいつも本当だった。キツイ言葉も、半端な気持ちを受け入れないのも優しさだったのに、俺はずっとわがままを言っていた。甘えていただけだった。本当のことを見ずにいたのは俺の方だった。いつか好きになってもらえると、続けていれば、最後には俺のところに来るしかないのだと。運命の相手などいないのだと。それは自分に違いないのだと。彼女の優しさに付け込んでいた。先に裏切ったのは、間違いなく俺の方だ。彼女が今なにより大切にしているものを軽んじた。自棄になってなにもかも否定した。俺がどれだけ弱くても、カエデは隣にいてくれたのに。彼女の怒りも当然だ。死んで当然。殺されて当然。なんて恐ろしい。もう向き合う心が殺されている。叩きつけられる激情に圧倒される。ごめん。謝っても許されないだろう。いいや、きっとこの一刀で全て終わる。そうしたら、謝ることもできない。二度と笑顔も見られない。話もできないだろう。そして彼女はどこかへ行ってしまうのだ。万が一生きていても、もう二度と。もう二度と。二度と――。
しかし、その一振りがミリイの肌に届くことはない。
止められた。銀色の刃を右手のひらで受け止めているのは、赤い瞳の。
「――え?」
ぱたりぱたりと地面に滴る赤。いつかの出会いとは逆の光景。
「楓」
赤い瞳の男は、楓から短剣を取り上げて固まる楓を抱き寄せた。
「お前がそんなことをする必要はねえよ」
楓の正面で短剣を受け止めて、ミリイに背を向ける男は、悪そうにつり上がった赤色の瞳を細めて、楓の肩を軽く叩いた。
楓は顔を上げて、自分の一撃を自分と同じように止めた人を確認する。確かに、秋であった。留守番を頼んだはずであるし、詳しい場所は伝えてこなかった。ここのことは知らないはずだし、ミリイは騎士団をけしかけたと言っていた。逃げていて偶然、にしては息も上がっていないし、服も汚れていない。怪我は、楓が負わせた右手のひらのものしかなさそうだった。
「あ、あの、秋さん。手が」
「んー? ああ、いやあ。いい短剣だ。ほら、返してやるよ」
ミリイも楓も、状況を理解しきれないまま。
秋は右手のひらに深く刺さった短剣を抜き去った。抜いたせいで、血が吹き出る。楓はその行動に慌てて短剣を受け取り、元あった場所へ仕舞い込むと、すぐにポケットからハンカチを取り出した。傷口を押さえるが、布が真っ赤に染まるのみだ。
痛々しい光景に楓は「なんてことを」なんて慌てているが、秋は楽しそうににやりと笑って、楓の左手をとった。
「揃いの傷になったなァ?」
ぺたり、と手のひらを合わせて上機嫌な秋。楓はひとまず状況の確認等の難しい話は後回しにすることに決める。
「い、言ってる場合ですか!」
手に穴のあいている怪我人よりも、殺されかけた人間よりも青い顔をして、楓は必死に傷口を押さえていた。残念ながら消毒薬など持って歩いていないし、よく効く薬もここにはない。急いで帰るか、医者へ行かなければ。
「どうしてこんなことを」
ミリイはこのあたりでようやく、秋の背中越しに楓の表情を確認した。
泣きそうな顔をしている。楓の行動すべてが、先ほどの楓の言葉を裏付ける。秋は、ミリイが削ぎ落とした楓のすべての感情を一瞬で取り戻してしまった。
そして、わかってしまう、
「……なんてことはねえだろ。お前だって、逆の立場なら同じことをしただろうさ」
「で、でも、わざわざ、刺すこと……」
今、秋の右手に守られたのはミリイではなくて楓だった。件の殺人鬼、犯罪者もまた、楓を大切にしている。見せつけられた現実は、その事実だけを指し示していた。
「話は終わったんだろう? もう行こうぜ。親父殿にも一日だけ猶予をもらってる。貴重な一夜だ。無駄にはできねえ」
「父さん……? 一体どういう……」
「楓」
あまりにも気安く名前を呼んでいる。
「帰ろうぜ」
差し出される手のひら。秋の左手に、楓の右手がそうっと重なる。
ミリイは、秋の言葉から推測して、秋がここまで来られた理由、自分が差し向けた騎士たちがどうしているかをある程度把握した。
もし、万が一、ここから、楓の気持ちがこちらへ向くのだとしたら。方法はたった一つしかない。
やるなら、今しかない。
これが、たった一つの突破口。
「っ、あ?」
秋の腹部に、右手のひらにあるのと同じ傷が今、作られた。
貫いたのは、ミリイの剣である。
この男にはもう、世界から、いなくなってもらうしかない。
ミリイは剣から手を離して、数歩下がる。楓の気持ちはこちらへ向くだろう。一生忘れられることはないだろう。ああこれで楓を諦めなくて済む。良いことばかりだ。だから手足の震えは後悔から来ているものではないし、まして両目から溢れる水は悲しくて寂しくて流れ出るものでは、断じてないのである。
楓が、ゆらりと揺れた秋の体を支える。どろり、と口元から血が滴っている。
「あ、きさん、秋さん……! いま、病院、に……!」
目の前で秋を支える楓はひどく遠くにいるように見えた。自分と同じように涙を流している。秋の表情は、ミリイには見えないまま。
「く、ははは。なるほどなァ」
秋は、ミリイを見るために振り返るようなことはせず。
ただ、楓の頬を傷のない方の手で撫でつけていた。
「秋さん、ごめんなさい、私、私がっ……!」
流石に腹部に穴が開けば得意の悪そうな笑顔も作りづらいようだ。しかしその分、ひどく邪気のない笑顔で笑って見せた。触れている左手を少しずらして、楓の口元から目元にかけてを押さえつけた。
「楓」
自分はこうやっていなくなる。あの時妙に冷静だった楓の気持ちが少しだけわかるような。楓を想うとあまりに酷であるような。こうなってしまえばあまり時間は残されていない。伝えなければならない言葉はいくつもあるが、いくつかはずっと共有していたものだ。だから、たった一つでいい。
秋は楓から視線をずらす、彼女の顔の横を抜けて、程なくその向こうに一つの影を見つける。頼む、とその視線に全てを込めた。視線の先のなにかが苦しげに頷く姿を確認して、視線を戻す。もう一秒だって無駄にしたくはない。今度は楓から目を離すことはなかった。
「――ありがとう」
秋がそう言い終わるのと、楓の脳が揺らされたのは同時であった。小さな声をあげたと思うが、それが自分の耳に届くよりも早く、世界が黒く染まって、何も見えなくなってしまった。
待って、楓は心の中で叫ぶ。
私の言葉がまだだ、倒れるわけにはいかない。
よく見えない、けれど正面にいるはずだ。
「 」
果たしてなにか言葉にすることができただろうか。二度目の衝撃の後、今度は思考も奪われた。
暗い最果てに、頭から落ちていく。
楓が家を出た後、数分も経たないうちに来客があった。夜の来客は珍しくない。妻の機嫌をとるためになにか甘味を売って欲しい、だとか。どうしても甘い物が欲しい、だとか。ちょっと話を聞いて欲しいなど、その理由は大小様々であり、俺も何度か立ち会ったり、問題解決のために夜遅くから出かけたこともあった。
楓は民衆に頼りにされていたが、決して街中に住もうとはせず、店を構える気もないらしかった。予定がない時は静かに、旬の果物でも仕入れてケーキを作って、気に入りの紅茶を淹れてゆっくりとしていた。なかなか優雅な暮らしであった。ひたすらに暖かく、なんの脅威もない。
お互い口にはしなかったが、毎日を祈るような気持ちで迎えていた。
「君か、楓の浮気相手というのは」
玄関のドアを開けると、見知らぬ男はそう言って豪快に笑った。年季の入った鎧を着ている。それだけで騎士であることがわかる。秋よりもひと回り大きい体はよく鍛えられていて、わずかに出ている肌にはいくつもの傷跡が残っている。大木を思わせるどっしりとした佇まい、意図せずとも眼光には圧があった。
「ただの本命だろうが」
朝方やってきた婚約者を名乗る騎士も浮気がどうのと言っていたが、その程度のことで揺れるような関係ではない。秋もまた、挨拶より先に、そう言って胸を張った。風格のある騎士は目を丸くして数度瞬きをする。
秋の言葉は、下手に名前や素性を話すよりも『秋』という人物像を全面に出しており、来訪した騎士は秋という男を大体把握し、面白くてたまらないと声をあげた。
「はははは! そうか! ははははははは! そうかそうか! それはいいな! なるほど楓が気に入るはずだ!」
勢い余って噎せながらも笑い続ける男が落ち着くのを少し待つ。
「で、なんだ? 俺に用があるんじゃねえのかい」
騎士の大男は、失敬、と言って咳払いをした。
一瞬で空気が引き締まる。秋にとってこの感覚ははじめてのものではない。忘れもしない楓に切りかかったあの時、ぼうっと無防備に菓子を作っていた楓は、襲われているという事実に直面した刹那、纏うぼんやりとした空気を振り払った。楓はその後、あっさりとその警戒を解いたけれど、実際、楓と真正面から刃を交えていたら、こちらも無傷とはいかなかっただろう。
「君は、もしかしたら、だが」
扉から、冷たい風が家へ吹き込む。
「この国で殺人罪に問われることに、覚えがあるのでは?」
「そうだな。ここに忍び込むまでに七人。ここの家主は八人目になるところだったなァ」
思ったよりも穏やかに、この瞬間がやってきた。秋は本心を体に押し込めて以前のようににやりと笑う。意識したことはなかったが、今回ばかりは邪悪であろうと意識した。より一層、悪そうな笑顔が出来上がる。
「で、あるならば、私は君を捕えなければならないのだが、どうするね?」
秋は、ハッ、と鼻を鳴らす。
「どうするもこうするも。あんたどうやらカエデと親しいみたいじゃねえか。そんなやつを殺すわけにもいかねえし。かといってカエデになんの言葉もなくいなくなることもできねえんだ。捕まえに来たってんなら、そうだな、とりあえずは逃げて、あいつにきっちり礼の一つでも言った後に、おとなしく捕まるさ」
騎士の男にとって、その言葉は全くの予想外だった。
「――――」
「なんだよその顔」
騎士の男は全身で驚きを表現した後、ふう、と肩の力を抜いた。
「すまない。私は君を見くびっていた。非礼を詫びる。同時に、娘を、楓を愛してくれていること、感謝する」
秋は、その言葉にも大して驚きはせず、まじまじと騎士の男を見上げていた。
「ああ、父親か。なんか似たニオイはするなと思ったが。納得だぜ」
「いやいや、恐れ入る……、ミリイの兵をここまで連れてこなかったのは正解だったようだ。さておき。私は、ジャン・エルガーと言う。君の名前を聞いても構わないだろうか」
なんてことはない、ただの自己紹介だった。
「アキだ」
その時の秋は、折角作った悪人のような笑顔を放り投げて、ひどく自慢気に笑っていた。気に入りのおもちゃを見せつけられたような気分のジャンであるが、その宝物が誰から与えられたものか、すぐに理解する。この国では聞きなれない音の名前だ。
「アキ、秋くんか。失礼、その名前は、もしや娘に?」
「なんだ? なにか意味があるのか?」
「いいや。秋に楓か。とてもいいなと思ってね」
ちょっと失礼、と秋の横を通り抜けて家に上がり込むジャンに、秋に対する警戒心は消えていた。ジャンは適当な棚を開けて、メモとペンで何やら文字を書き始める。テーブルで書かれる文字を、秋はひょっこりと覗き込んだ。ジャンの手元が暗くなる。
見たことのない文字であった。
「見てくれ、カエデの名は本来、この文字を使う。これで楓と読む。そして君の名はこうだ」
秋、楓と似ているけれど、同じではないらしい。秋はメモを睨みつけたまま首を傾げた。
「なんだそりゃ。文字か?」
「文字だ。ふふ。いつか調べてみるといい。このメモは君にあげよう」
どーも、とだけ言ってメモを受け取った。数回折りたたんでズボンのポケットにぐっと突っ込む。すっかり和んでいるが、ジャンは特に気にした様子もなく、腰につけていた剣をテーブルに置いた。静かな瞳で秋を見据えた。赤い鋭い瞳はジャンの視線を受け止めている。
「もう一つだけ、聞いてみたいことがある」
へらりと気の抜けたように笑う姿は、ただの父親の姿であった。
「楓の、どこを好きになってくれたんだい?」
剣を置いて、鎧はそのままだ。秋も、悪人面は元からとしても、ただの青年のように天井を仰いだ。
「どこを、ねぇ……」
どこを、だろうか。
秋がはじめて見た楓はただの町娘で、しばらくせわしなく動く背中を眺めていたが、やはりただの町娘だった。普通ではないと思ったのは、ナイフを止められた時だったか、声を聞いた時だったか、青白い顔で笑っていた時だったか。おそらく全てなのだろうけれど、言葉にしたらたちまち安くなってしまう気がした。一つ言えるのは、ただなんとなく生きているだけの殺人鬼の男が、あの時自分に殺されるならばそれはそれだと受け入れた女の手を取った時、
「俺たちは一度死んで、だから繋がった」
人間を殺すような、息を吹き返すような。そんな出会いだった。
「一目惚れだった。俺ははじめて、生きていてよかったと思ったよ」
どこを、という質問にうまく答える自信がない。他人に答える必要性も感じない。突き詰めれば理由を探すこともできそうではあったが、絞ってしまうと、やはり、それだけになってしまう。
ジャンは、優しさだけを湛えた瞳で笑って見せた。
「きっと、楓もそうだったのだろうな」
ジャンは剣を持って腰につけた。秋はといえば長くなりそうならば茶でも淹れるべきかと悩んでいたが、ジャンはその動作の後、すぐにあるべき立場へ立ち返った。秋もそれに倣う。話など聞いてもらえる立場ではない。すぐに切り捨てられてもおかしくなかった。ならばもう充分だった。
秋は半歩、ジャンから距離をとって身構える。
「一晩、猶予を与えよう。だから、私と一緒に、彼女らを止めにいかないか」
しかし、ジャンは此の期に及んですぐに取り押える気はないらしかった。くるりと秋に背を向けて玄関から外へ出る。
「止める?」
秋はその背中を一定の距離を保ったまま追いかけて、ジャンが止まれば秋も立ち止まった。
「ああ。彼らは幼馴染で紛れもなく親友なのだが、我が娘はああ見えて感情的になるとなにをするかわからない。本当に、母さんに、そっくりだ。滅多にないことだがね。だから、娘のことを頼めるかい。私は私の一番の部下を助けに行かなければならない。事が収まったら、娘を連れて帰りたまえ。君のことは、明日早朝、迎えに行く」
ジャンは振り返らずに言った。
「わかった」
かつて殺人鬼だった男は、満足そうに苦し気な笑みを浮かべていた。
楓・エルガーは独房にて目を覚ます。
硬い石の床、暗い石の壁、冷たい鉄格子の窓と扉。微かに鉄に臭い。窓からは白い日差しが差し込んでいる。まるまる一晩眠っていた。
「秋さんは?」
楓の言葉に、独房のすぐ傍で蹲っていたミリイ・バーセルはびくりと震えて、数秒考えた後、膝を抱えたまま力の籠らない声で言った。
「いない」
「……そうですか」
話は、それだけでは終わらない。
鉄格子が大きく揺れる騒音がした。再び肩を震わせて今度はバッと顔をあげた。楓の二撃目が鉄格子に叩き込まれるところだった。一撃二撃程度ではビクともしないが、ミリイが呆気に取られている間にも着々と、楓は全く同じ箇所にひたすら全力の蹴りを入れる。
「ちょ、ちょっと! なにしてんの!」
元々、力がある訳ではない。体が丈夫なわけでもない。技術と精神力で戦うタイプの彼女が、こんな風に肉弾戦に頼るなど、そんな無茶で何をしようと言うのか。思わず、ミリイは鉄格子に近寄った。
その隙を、楓はまったく逃さない。
ミリイが届く位置に来たとわかれば即座に鉄格子の間から腕を伸ばして、ミリイの胸ぐらを掴む。そしてそのまま思い切り引いて、鉄格子に叩きつけた。
「がっ……!」
相変わらずスイッチのオンオフが予測不能である。ミリイが警戒を始めた頃には既に、腰のあたりにぶら下げていた独房の鍵が奪われてしまっていた。鍵を奪えたのなら用はないのだと、今度は鉄格子の向かいの壁へと突き飛ばす。鎧を纏っている胸に、迷いなく拳が打ち込まれた。
「な、なんで……」
「なんでも何も。私が暴れ出した時にそこ、腰のあたりを掴んでましたから」
さらりと答える楓は手際よく鍵を開けて独房から脱出している。容赦がない。遠慮がない。躊躇いもない。ミリイは完全に虚を突かれ、壁で呑気に咳き込んでいた。咳き込んでいる場合ではない。楓の手はミリイが腰につける剣に伸びて、すらりと抜き取り、切っ先をミリイの顔の前でピタリと止める。
「さて、それで、いない、というのは? 死んではないんですね?」
「……」
「貴方が答えてくれないのなら、私は父さんのところへ行って問いただすだけなんですが」
「行けば、いいだろ。俺が話す事を信じられるの?」
「私はいつも、貴方の言う事は嘘と本当が半々くらいと思って聞いてますから」
「今いる? そのカミングアウト」
「実際、間違ってないはずなんですよ。さっきの、いない、も全部は話してないけど嘘ではないはずです」
「君のそういうところ本当に嫌いだなあ!」
「それは良かった」
楓は淡々としているが、どこか活き活きとしている。騎士学校時代から、彼女の我欲はどこにあるのかといつも考えていたが、一番ができた彼女はこんなにもわかりやすい。ミリイには元々戦う気力は残っていない。
大きく、大きくため息を吐いて、胸のあたりにしまっていた新聞を取り出した。楓は剣を下ろしてしゃがみこむ。
「ここみて、この小さな記事」
本当に小さな記事だ。なんならコラムよりも短い。楓はミリイに剣を投げ返してそっと文字を追う。
「南の国、リテリアの罪人兵が、たった一日で国境付近を平定……、赤い目で、右手に大きな刺し傷のある男……」
「リテリアの夕顔隊は知ってるだろ? 終身刑を宣告されるような極悪人でもどうにか兵士として使おうっていう制度。エルガー団長はこうするって決めてたみたいだよ」
楓は、じっと新聞を見たまま動かない。
「どうしたの?」
新聞をひっくり返して日付を確認する。楓は首を傾げた。どうにも記憶と合致しない。
ミリイはしきりに日付を確認する楓に、「もしかして、寝てたのは一晩だと思ってる?」と問う。楓はミリイを見上げて頷いた。
「一週間寝てたよ」
「ええ……、そんなに気絶させられてたんですか……」
「一撃目を耐えられたのに驚いてついうっかり強く打ちすぎたって。謝ってたよ、団長」
「……なるほど、通りで体は軋むし動きも鈍い、なぜか唇が鉄みたいな味の訳ですね。ってことは、これは昨日の新聞ですか」
「そうだよ」
楓はもう一度その小さな記事に目を通す。
「そっか」
先ほどの冷酷さは一体どこへ行ったのか、楓はただ素直に笑っていた。
「生きててくれているのなら、それ以上のものはどこにもありませんね」
楓の左手には、ミリイには見覚えのない傷跡がある。大切そうに左手の傷跡をなぞる彼女を見ていれば、それがあの犯罪者関連のものであるとわかってしまう。
楓はすぐに新聞を折りたたみ、自分の服のポケットに入れて立ちあがった。
「じゃあ、私も行動します。一週間も遅れてしまいましたけどね」
すぐに歩き出す背に、声をかける。
「――カエデ」
楓は振り返らず、足も止めずに返事だけをする。ミリイは慌ててその背を追った。
「カエデは俺を、」
言うべき言葉は、たくさんあるような、ひとつもないような。楓を追いかけながら考えていると、不意に、楓はある角を左に曲がった。
「え、あれ? 家に帰るならそこを右だけど」
「ああ。父のところへ」
「そっか、そうだね、団長心配して、」
楓は平然と言い放つ。
「騎士団に入ります」
「は?」
「国にとってなるべく重要人物になっておいた方が、いざという時、良いんじゃないかと」
「はあ!?」
対してミリイは、感情のままに熱くなって、楓に掴みかかりそうな勢いであった。
「秋さんの情報も、きっと入って来やすいんじゃないかと」
「バカか!? もう、君は、本当にバカか!!」
「あとミリイくんのことはそこそこ恨むからよろしく」
「このやろう! いつ死ぬかもわからない、帰ってくるかもわからないやつを待つのか! どっかの誰かみたいに浮気してたらどうする!」
「待つ、なんてできるわけないですよ。だから騎士になるんです。それにあれはただ本命ができただけで……、いや、まあ、そうですね、もしそうなったら、私はどこかの誰かと違っておとなしく身を引いたのち元の生活に戻ります」
「そんなこと言ったって、婚約は解消しないからな!」
「そういえば気絶させられる前、私何か言えてましたか?」
「話をすり替えるな!」
「気絶させられる前なんですけど」
「本当に君は……!」
わかりやすく顔をしかめる。あの時、楓、いや、秋は。
「…………何も言ってなかったよ」
「言葉はなにも、と。それで?」
「知らない。忘れた」
「ふうん、そうですか……」
あの時、楓の意識を奪ったのは団長の一撃であった。
団長が意識を断ち切るつもりで振り下ろした腕。そのまま沈むと誰もが思って、しかし楓は、秋の腕を掴んで、朦朧としたまま顔を上げた。何か言葉を発するはずだったのだろうが、秋はそれを許さなかった。
たった数秒の出来事だ。
秋もまた楓の両腕を掴んで「これ以上はもらいすぎだ」と身を屈めた。秋は、優しさだけで目を細めて、幸せであると口元を綻ばせて――。
必死に開こうとする唇に、血に濡れた唇を押し当てた。
だから、楓は何も言えていない。たった数秒、その唇が触れ合っただけ。その光景はあまりに美しく。忘れることなどできそうもない。
上手い言葉が見つからないからでは決してなく、これ以上秋に対する好感度が上がらないように、ミリイはじっと黙っていた。
油断しないようにしなければ言ってしまいそうだった。
言ったところでどうにもならない。もしかしたら、団長がさらっと説明してしまうかも。
「カエデ」
今度は、立ち止まって振り返る。
思い出したら、また涙がこみ上がってくる。否定して怖がって拘束して。こんなことでは、振り向いてもらえないのも当然だった。いつか、この二人と同じ土俵に立てないだろうか。あんなに美しいものを、今度は、自分も。
「その血の味、忘れないで」
唇に残っているその鉄のにおいも、あの笑顔は、見えていなかったかも知れないけれど。
楓はきょとんとミリイを見上げていたが、自分の服をよくよく見ると、左腕あたりに覚えのない血が付着しているのを発見した。自分は何も言っていない。唇に残る、鉄ではなくて、血の。
そうか。なにも、言わせてもらえなかったのか。
楓は耐えるように目を閉じて、感じる切なさを押し殺して、ありがとうと頷いた。
ダージリン・ティーの君へ アサリ @asari_o_w
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