第32話 夢が覚めたら
泣き声が聞こえる。
草原の中、女の子は土に臥している。
眠るようなその姿で、彼女は泣き叫ぶ。
四年前から呼べなくなった母の名を。
四年前から呼べなくなった父の名を。
四年前から、やっと帰ってきた家の前で。
彼女は、家の中に入ろうとした。
けれど、ぼくは絶対に入らせなかった。
魔法使いに、彼女のすべては壊されていた。
彼女のお気に入りだった絨毯も。
子供のころ使っていた縫いぐるみも。
母が大事にしていた鏡も。
父が喜んでいた服だって。
何もかも、どうしようもないほどに壊されている。
外見の問題ではない。
その中に大事にしまっておいたはずの思い出の残滓が、四人の血で汚されたために破壊されたのだ。
そのうちのふたりは、他人の血だ。
沈んだ顔で出てきたぼくに、ハインリヒさんは優しく言った。
「お前は、泣かないのか。」
ぼくは、すぐに返した。
ふたりの亡骸を見て、ぼくはあることを決めていた。
「泣きません。今泣いたら、トリシャが泣けなくなる。それよりも、トリシャが泣いているうちに、やりたいことがあるんだ。」
ハインリヒさんは、ぼくの瞳で、ぼくがこれから何をするのかを理解した。
それが、彼女にとってどれだけひどい事なのかも、分かっていた。
どうして。
私は叫んだ。
四年ぶりに帰ってきた私の家に、あの子は入れはしなかった。
それならまだ分かる。
けれど、私の家に、あの子は白銀の竜に頼んで火を点けた。
私の家は、材料の木が古く、燃えやすくなっていたのだろう。
止めて、というよりも早く、火は家の端に燃え移り、あれよあれよという間にすべてを包んで行く。
気が動転した。
あの子に掴みかかって、馬乗りになって、殴ったりした。
あの子はそのまま、殴られた。抵抗はなかった。
でも、しばらくしていると、あることに気付いた。
「ああ。してやられた。」
気付けば私は、そう呟いて、燃え盛る炎を眺めている。
簡単な事だ。
あの子に、ハインリヒの言った言葉の実践を上手い事させられたのだ。
私はあの子が、憎く思った。
その間は、両親の居なくなった苦しさも。
魔法使いへの憎悪も。
嘘のように消えうせていた。
いや、もしかしたら、それも私のこぶしは乗せていたのだろう。
あの子は抵抗しなかった。
すべて分かっていたのだろう。
あの時、私が立ち上がったあのときが、一時的な空元気だってことぐらい。
いや、無理を押して立ち上がったから、かえって傷が広がったのかもしれない。
あんたのせいで。
何回繰り返したかわからないその言葉は、単なるあてつけでしかなかった。
幽閉された四年間。その苦しみ。
発現した塩の目。その絶望。
私たちの一族の長い、長い無念。
一人の女の子でどれだけ発散できたかは分からない。
一人の男の子が、どれだけ受けてくれたのかも、分からない。
終わってみれば、いつのまにか、あの子の代わりにハインリヒが殴られていた。
疲れきった私の肩と、腕。
こんなに動いたのは、生まれて初めてだった。
でも、多分、今日の分のいらいらは、解消できたような、そんな気がした。
明日もやる。そう言うと、あの子は絶望の表情を浮かべた。
私は、とても疲れた。
草むらの上に寝ると、星が綺麗に見える。
塔の上より遠いけれど、私にはやっぱりこれが似合っている。
そう、心から感じた。
横を見ると、あの子は気絶したように見える。
でも、寝息は聞こえるから、多分大丈夫だろう。
ハインリヒのいびきはうるさい。
眠りそうになったところで、起こしてくるのは勘弁してほしい。
私は少し場所を変えるために立ち上がり、草むらを歩き始める。
夜風が、流れている。
草むらに対して、横なぎに。
私は、あの夢を思い出した。
やっぱり、あれが母との最後の出会いだったんだ。
そう思うとまた、涙が出そうになる。
でも、あのとき枷が外れたように感じたけれど。
それが、この塩の目が開く合図だったのかもしれない。
でも、あのとき、枷が外れていなければ。
母には、きっと会えなかった。
そこだけは、この塩の目に感謝しなくてはいけない。
鍛冶屋のボンザという老人は、私の目を満月のようだと言った。
炎に焼かれたその頭に、もはや白髪は残っていない。
恥ずかしそうに頭をさするその顔は、妙にうれしそうだった。
姫様。ことあるごとにそう呼ばれた。恥ずかしかった。
けれど、魔女よりずっと良いと思った。
不意に、強い風が吹いて、振り返ると、目の前に白銀の竜が居た。
珍しく草むらに足を下ろし、その赤い石榴の眼は星の光を集めて、輝く。
「綺麗ね。」
私がそう言うと、白銀の竜は何だか悲しそうに鼻息を出す。
聞けば、前にそんなことを言う怪物を殺した事があるのだという。
「ものを綺麗だと思うのは、人間にしか出来ない事だ。俺はそいつを殺しちまった。認めることが、耐えられなかったんだ。異形の中でも、人の心をまだ持っている奴が居ることに。俺たち竜種は、自然の則から外れた奴らを殺さなきゃならない。それが仕事だからだ。」
「仕事って、どういうことかしら。お役御免になったりするの。」
そういうと白銀の竜は勢いよく鼻から煙を吐いた。
面白かったらしい。
「そうだな。お役御免か。そんなことになったら、いや、なる前に皆死んでいく。異常狩りは俺たちの本能なんだ。本能が鈍ったら、体が鈍るか、魂が使い物にならなくなる。」
「魂。そんなもので動いているの、あなたたち。」
「ああ。何たって、天空の守護者。映し世の番人とだって言われるからな。肉と骨とじゃ馬力が違うぜ。」
そこまで聞いて、ハインリヒのことを思い出した。
あの人も、見た目からしてみれば、自然から外れている。
そう問うと、白銀の竜はその目を開いたり、閉じたりした。
悩んでいるのか。驚いたのか。
しばらく経ってから、ようやく口を開いた。
「やっぱり、あいつは俺らと同じだ。姿は違う。けれど、仕組みは同じだ。」
魂で、動いている。
その言葉に、草むらに寝転んだ私は支配された。
しかし、そのことに考えようとするには、何もかもが足らなかった。
夢を見た。
塔の上に、私は居た。
鐘を鳴らすために、私は朝早くにこの塔の上に上る。
普段苦でも何でもなかったそれは、いざやるとなると体力を要した。
やっと頂上に上ると、見覚えのある影が、日に照らされている。
お母さん。
私は呼んだ。
母は振り返らずに、昇る朝日を見ている。
母は口を開いた。
「朝日はすべての始まりよ。どんな絶望も、苦しみも、朝日の力には勝てないの。素敵でしょう。」
私は、本当にそうだと思った。
鐘を鳴らす。
いつものように。
でも、そこはもう、私の嫌いな世界は、広がってはいない。
それは、昨日の夕陽と共に死んでしまったから。
鐘よ。
響け。
朝日よ。
私の愛する世界を、全く照らして。
ああ、今日がやってくる。
強く生きなさい。トリシャ。
次第に消えるその影を。
私はいつまでも、見つめている。
朝日のまぶしさに目をゆっくりと馴染ませる。
草むらで寝たのは久しぶりで、吸い込む空気は暖かい。
体のあちこちがまだ痛む。
昨日しこたま殴られたせいだ。自業自得だけど、あそこまで徹底的だとは思いもしなかった。
でも、後悔はしていない。
草原に歩くのは、毎日のようにしていた。
ヤペテさんの仕事を手伝っていたからだ。
あの羊たちは、主が朝方いなくなったまま、どうなったのだろう。
昼と夜をどう過ごしたのだろう。
見に戻る気はしなかった。
戻ってしまったら、多分皆に迷惑になる。
それに、トリシャに笑われそうな、そんな気がする。
ぼくは、どうにもあの子のことを気にする。
ぼくと似ていた。
けれど、ぼくよりずっと芯の強い女の子。
その強さに対するあこがれも、きっと彼女を思う心の中にはあるのだろう。
草原の果ては、小高い丘になっている。
塔の上よりは、はるかに低い。
そこに、トリシャは座っている。
黄金の麦穂のような髪が、風に揺れる。
白い服は昨日の騒動で、所々煤けている。
しかし彼女は、そんなことなど気にはしていない。
凛と光る白い頬は、太陽に向いている。
足音に気付いたのか。
トリシャはぼくの方を向いた。
黄金の瞳は、澄みきった宝石を思わせる。
確か、トパーズ。そんな名前だったはずだ。
地の底で、ゆっくりと固まり、形になるそれは、彼女の瞳の強さを上手く表しているように思える。
「おはよう。」
ぼくは言った。
「おはよう。」
トリシャはすこしぎこちなく返した。
なんでもない挨拶。
けれど、それは仲間の証だ。
トリシャは、横に座るように体をずらす。
丘の上で、ぼくは腰掛ける。
目の前に広がるのは、一面の草原。
そしてその先にも、深い森が広がっている。
二年前、同じような深い森から、ぼくとハインリヒさんはこの村にやってきた。
たった二年の短い間。それでも、ぼくは多くの人と出会い、支えられて生きてきた。
そして、大切なものをたくさんもらった。名前はまだ知らないものばかりだけれど。
きっと、これから、少しずつ名づけてゆこう。
ふと、トリシャがぼくの顔を覗き込んでいた。
その黄金の瞳は何か、知らない興味に輝いている。
ぼくの視線に気付き、トリシャはいたずらっぽく笑う。
「あなた、名前はなんと言うの。ヤヌアっていうのは、嘘の名前なんでしょう。」
ぼくは首を振って応える。
「いいや、ぼくの名はヤヌアだ。ハヌアのくれたただ一つのもの、それでぼくは十分だよ。」
それを聞くと、だと思った、とトリシャは向き直り、丘の向こうに視線を戻す。
「あの森の先には、いったい何があるのかしら。」
そう夢見るように言った。
塔の中で、村の中で、ずっと縛られたままだった彼女は、その夢に、どんな景色を描いているのだろう。
それは、もしかしたらこの世界には存在しない幻かもしれない。
けれど、ぼくらには、それを確かめに行ける。
ぼくは、一人立ち上がる。
そして、トリシャのほうに向き直り、右手を差し出した。
あの日、塔から出てきた彼女に、ぼくはただ呆然としていた。
何と声を掛ければいいか、分からなかったからだ。
でも、今は違う。
言いたかった言葉が、今やっと見つかったのだ。
「せっかく外に出たんだ。確かめに行こうよ。一緒に。」
トリシャはその金色の瞳をさらに大きく見開く。
「もちろんよ。ヤヌア。」
そして、僕の右手を両手で勢いよく取ると、笑って見せた。
どこかから、風が巻き起こる。
それは、ごう、という音を立て、丘の上のぼくらに吹き付ける。
「ここにいたか。」
ハインリヒさんが、声を掛ける。
姿は見えない。降り立った白銀の竜の巨体に隠れているのだ。
見ると、白銀の竜の背には、胴に巻かれた茶色い革で大きな絨毯が留められている。
「朗報だ。あの鍛冶屋の男。新しい村長になるらしい。こちらは心配ない。さっさと行っちまえ、とぶっきらぼうに言ったぞ。」
ハインリヒさんの声はその上から発せられた。
白銀の竜は不満そうに息を放つ。
「まったく、何で俺がこんな馬の真似事みたいな事をしなきゃならないんだ。」
そう口をこぼすが、それと同時に、傍らのトリシャはわあ、と感嘆の声を漏らした。
「すごい。私たち、空を飛べるのね。」
そして片手を放すと、いきなり、丘を駆け下り始める。
ぼくはつながれたもう一つの手に引っ張られる。
トリシャの手を引く力は強い。
命にあふれた、希望に満ちた、祝福された、そんな暖かい力を感じる。
本当はぼくが、手を引いて行きたかった。
けれど、振りほどけないくらいに、その手は固く握られている。
かなわないな、と諦めるしかない。
四年間塔の中で知らずに溜め込んだ、夢の引力だ。
二年足らずのぼくじゃ、太刀打ちのしようがない。
それでも、ぼくは嬉しかった。
塔の中に居たのは、幽霊でも。
ましてや魔女なんかじゃない。
ぼくが、そう信じたとおりかは、知らない。
でも、今ぼくの手を引く彼女は、やっぱり、ただの女の子だ。
いや、ぼくは塔の上に居るものが幽霊でも、魔女でも、かまわなかったのかもしれない。
友達になれたなら、きっと、それだけで十分だったんだ。
白銀の竜は、ぼくらが全員乗ったことを、律儀に確認した。
それから、絨毯から突き出た牙のような鱗に捕まるよう、ぼくらに命令する。
鱗には釘が打たれ、そこから革のベルトが伸びている。
それを腰に巻いて、滑って落ちないようにするのだという。
「あのボンザって言う爺さんに言われてな。ここまでしてやったんだ。乗り心地が悪いなんて言ったら振り落とすから覚悟しろよ。」
トリシャがありがとう、と言うと当然だな、と返す。
そうして、両の翼を、轟音を立てて羽ばたかせ、白銀の竜は浮上する。
巻き上がる青草の匂い。
その中に、ぼくは確かに甘い匂いを嗅ぎ取る。
花の匂い、はじまりの春の匂いだ。
いつしか、丘の上からも、塔の上からも、高く上昇する。
あの深い森の先の景色がぼくらの目に映る。
森の果てには草原が続き、その先にくぼんだような土地が見える。
その先には、なんだか茶色い建物の群れがある。
窮屈そうだな、と思ったが、ハインリヒさんがそれを見て、街だ、と呟いた。
トリシャは、それに反応しないはずはなかった。
トリシャはその言葉に眼を輝かせ、眼下に広がる世界にどこだろうと、その金色の目を投げかける。
その方向があまりにも見当違いだったために、ハインリヒさんは苦笑して、あそこだ、と指差した。
トリシャは、その街という場所に強い関心を覚えた。
振り返ると、満面の笑みを浮かべる。
「ありがとう。ハインリヒおじさま。」
おじさま。そう呼ばれたハインリヒさんは、面食らったように驚き、そして、そのまま石のように固まる。
ショックだったのだろうか。
でも、トリシャは気付くことなく、おじさま、おじさま、と呼びかけ続ける。
そのさまが、なんだかとても面白い。
あの街でいいんだな。
そう白銀の竜は、トリシャに問う。
トリシャは、街を確かにその指で差して、言った。
「ええ。行きましょう。知らない世界。新しいところへ!」
白銀の竜は天空を渡る。
頬に当たる風は、気持ちいいものばかりではなく、痛いものだとも知る。
それでも。
ぼくらは、旅をする。
だって、まだまだ知らないことばかりなんだから。
それを知りたいと思うのは、きっと当然のことだ。
銀の髭、黄金の眼 遠影此方 @shapeless01
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