つないで、

 さくり、さくり、さくり。

 やわらかく湿った落ち葉をゆっくりと踏みしめながら、一歩、また一歩と足を進めていく。

 包み込まれるようにおだやかな土と光のにおい、かすかな葉ずれの音、鳥や虫たちのささやくような声。

 五感のひとつひとつを研ぎ澄ませるような気持ちになりながら、雨風にさらされ、ところどころが色褪せて欠けた名も知らぬ人たちの墓標をぼうっと眺め、浅く息を吐く。

 ここにくると、なぜこんなにも心が落ち着くのだろう。まだみずみずしさを残した花々の生けられた墓標をぼんやりと眺め、石碑に刻まれた別れの言葉にじっと目をこらす。

 享年は、ちょうどいまの僕とおなじ――数十年前に時を止めてしまったのだというその人のことを、僕はすこしも知らない。


 忘れ得ぬ君の魂よ、安らかに眠れ。

 いつかもう一度出会いましょう、君のこよなく愛した薄曇りの昼下がりがきっといい。


 天に還った魂には、どれだけ言葉を尽くしたって、残された人々の託した想いが届くことはない。それでも。

 痛ましいほどに切実な美しさの込められた愛の言葉は、ただの通りすがりにすぎないはずのこの身にもしん、とやわらかな棘のように心をにぶく突き刺し、捕らえて離さないでくれる。

 ありがとう、あなたに贈られた愛の在処を教えてくれて。

 心の中でだけそっとちいさく手を振るようにしながら、ゆっくりと歩みを進めていく。



「それでね、先生はマチアスはちゃんと謝ったんだからゆるしてあげなさいっていうの。ゆるすかゆるさないかは先生じゃなくてわたしが決めることでしょう? そんなのへんだと思わない? でもそうやってちゃんと言ったらいじわるって言われちゃうのよ。理不尽っていうんでしょ、こういうの」

 すっかり耳になじむようになっていた鈴の鳴るような高らかな澄んだ声――どうやら伝えている内容は、裏腹に厳しいもののようだけれど――が、やわらかに耳朶をなぞるように響く。

 ああ、きょうはどうやら抜き打ちでのご訪問の日だったらしい。

 偶然通りかかってしまったのだから仕方ないとは言え、立ち聞きだけをして黙って帰るのはあまりに忍びない。できるだけじゃまをしないように。ただの偶然で、ふたりの仲を引き裂こうだなんて悪意はこれっぽっちもないことがきちんと伝わるように。

 石碑と生い茂る木々の隙間からそうっと遠慮がちに様子を伺うようにすれば、すぐさま視界に飛び込んでくるのはベレー帽の下でリズミカルに揺れる、きれいなおさげに結われたつややかな焦げ茶の髪だ。

「リディアは素直でいい子ねだって。そんなのちっともうれしくない! 素直っていうのは自分の思ったことをちゃんと言えることでしょう? 思ってもないのに『こっちもごめんね』って言ってあげただけなんだから、リディアのうそつきって言われたほうがよっぽどいいのに」

 ――どうやらお姫様はお怒りのご様子らしい。さて、『王子様』はこのちいさな身にふりかかったトラブルをどう救ってあげるのだろうか。

 思わず興味深い気持ちに駆られながら、遠慮がちにそうっと声をかける。

「やあ、こんにちは」

「ああ!」

 導かれるように振り向いた顔は、朱を差したようにほんのりと赤い。無理もない、どうやらすこしばかり興奮したようすのようだし。

「お話中みたいだったのにごめんね、君の声が聞こえたものだから、挨拶をしなきゃと思って」

「ご丁寧にありがとうございます」

 すこしだけすましたようすで、にっこりとおだやかな笑顔がむけられる。

「ねえ、きょうは――」

 ぐるり、と周囲を見渡したところで、つい先ほどまでの話相手が周囲のどこにもいないことに気づき、思わずそっと疑問の言葉を投げかける。

 あまり不躾にならないように――僕の瞳では捉えられないだけで、大切な『誰か』がいるのかもしれないし。慎重に続く言葉を探していれば、こちらのようすに気づいたのか、ぱっと明るい笑顔が返される。

「ディディはきょうはおでかけしてるの。神父様はご用事がある日だから、まだ帰ってないみたい」

「わざわざありがとう」

「まだ紹介してなかったものね、おどろかせてごめんなさい」

 ぴょん、と軽やかにおさげの髪をゆらしながら少女は答える。

「きょうはね、パパとお話しにきてたの」

 答えながら、ちいさな指先は石造りの石碑を指し示して見せる。


 ローガン・コーネルがここに眠る。

 肉体が滅びたその後も、誇り高き魂は人々の記憶に残り続ける。

 彼の遺した愛は色褪せずそのままに。


 静かな情熱を潜ませた鎮魂の言葉は、故人がどれだけ深く想いを寄せられた相手であるのかをありありと教えてくれる。

「ママともいっしょによく来るけど、ふたりきりでお話したいことだってあるでしょう。そういう時はひとりで来るようにしてるの」

 パパ、ウィンストンさんよ。

 いつかそうしてくれたのとおなじように、すこし得意げなようすでしゃんと胸を張って告げられる言葉に促されるままに、見えない帽子をかかげてみせるジェスチャーをとりながら精一杯の笑顔で答える。

「初めまして、アレン・ウィンストンと申します。この町にはすこし前から住まわせてもらっています」

「ウィンストンさんは小説家の先生なの。わたしが読むのはまだちょっと早いみたいだけど、パパならもしかしたら読んだことがあるのかもね」

 どこか照れくさいような心地に駆られながら、胸元にそっと手をあてる。

「あのね、リディア」

 彼がいつもそうしていたのをまねするように、ぎこちなく背をかがませながら僕は告げる。

「僕のことならアレンでいいよ、君さえよければだけれど」

「そっか、じゃあそうするね」

 きっぱりと明るく告げられる言葉には、迷いはかけらも見えない。そんな些細なことに、こんなにも心をあたためてもらっていることにいまさらのように気づく。

「ねえリディア、いつもはディディに会いに来てるよね。ふだんは彼とどんなことを話してるのかを聞いても構わない?」

「うーん……」

 ほんのすこしだけ首をかしげての思案のしぐさののち、にっこりと得意げに笑いながら彼女は答える。

「学校のことが多いの。きょうはこんなことがあったの、先生がこんなことを教えてくれたの、こんな子がクラスにいるのって。ディディはね、学校にいったことがないんだって。だからすごいね、おもしろいねっていつもきょうみ津々で聞いてくれるの。じゃあディディはどうやって勉強したのって聞いたら、おうちに先生が来てくれたんだって」

「へえ、」

 やわらかに相槌をうつこちらを前に、身を乗り出すようにしながら彼女は答える。

「ディディは身体があんまりじょうぶじゃないからそのせいね、きっと。仕方ないけど、ちょっとだけかわいそう」

 あ、これはディディにはないしょね。ちいさな指先を口元に当てながらささやかれる言葉に、思わずちくりと胸の奥がにぶく痛むのをこらえきれない。

「ねえ、アレンは学校が好きだった?」

「うーん」

 腕を組みながらすこしばかりのうなり声をあげたのち、僕は答える。

「楽しい時とつらいなぁと思う時が両方あったよ。でも、行かせてもらえたことはすごく感謝してる、大好きな先生や友だちに出会えたしね」

「そっかぁ~」

 きらきらと興味深げに輝くまなざしに、心を射られるような心地を味わう。

「君は?」

 遠慮がちに尋ねれば、やわらかに弾んだ声が返される。

「ときどきすっごくやになる。ママは無理していかなくってもいいよっていうけど、でもそしたらみんなに勉強でおいていかれちゃうでしょう。勉強だけがんばればいいわけじゃないし、『みんなとなかよく』なんて無理な話でしょ? でもディディは喜んで聞いてくれるから、それならいっぱい楽しく過ごせるようにしたいなって思っちゃう」

「とってもやさしいんだね、君は」

 うっとりと瞼を細めた優しい笑顔を見つめたまま、差しのばせない掌をぎゅっときつく握りしめる。


 教育を受けることは子どもが享受すべき最低限の必要不可欠な権利で、その手段のひとつとして広く用いられているのが学校という制度だ。

 それでも、ありとあらゆる事情から、そこからこぼれ落ちてしまう子どもたちはたくさんいる。その子たちにとっての正解が決して『ひとつ』ではないのだということだって。

 彼女はきっと知らない――知る由もないのだ。彼が自らの意思で『それ』を選んだのではないことを。

 はじめから、選択肢そのものが取り上げられいたのだから。


「ディディはとってもお話がじょうずだし、それにすっごく物知りなの。だからディディが先生だったら学校に行くのもきっと楽しいだろうなって。そしたらディディだって学校に通えるからすっごくいいと思わない? でもそうなったらディディがみんなの先生になっちゃうでしょう。それじゃちょっと寂しい気がしちゃう」

 複雑な胸のうちを打ち明けてくれる表情には、隠しきれない淡い色がやわらかににじむ。

「先生になったらデートもできなくなるしね」

「そうなの」

 きっぱりと明るく笑いながら、花のように明るくのびやかな女の子は答える。

「あのね、パパ。やきもちが焼きたくなってもちょっとだけ我慢してね。わたしもちょっとずつ大人になるの。いつまでもパパと最後に会った時みたいなねんねのちびちゃんじゃないの」

 ささやくように告げられるその言葉尻には、ほんのすこしだけやわらかな寂寥が広がっている。

「娘さんはほんとうにすてきなレディに育っておられますよ、ですからどうかご安心ください」

 ぎこちなく頭を下げるようにしながら言葉をかければ、物言わぬ墓石のかわりにとばかりに、ちいさなレディからは得意げなほほえみが静かに送られる。




 いつもそうするように、行きつけとなったカフェの定位置に腰をおろし、ラックから拝借してきた新聞の各紙にひととおり目を通し終わったそのタイミングを見計らうかのように、やわらかくたおやかな声がそっとこちらを縫い止める。

「こんにちは。ウィンストンさんですよね? すこしだけお時間をいただいてもよろしいでしょうか」

 コーヒーリキュールをかけたバニラアイスみたいな、あまやかさと落ち着きを携えた、おだやかに心のうちに広がる声――ほんのりと赤みがかかった艶やかな焦げ茶の髪に、澄んだ鳶色の瞳――落ち着いたそのたたずまいのはしばしには、よくよく見知った面影がよぎる。

「娘がお世話になっていて、ありがとうございます。以前すこしだけご挨拶させていただきましたよね。あらためてよろしいでしょうか、お時間はとらせませんので」

「ああ、」

 立ち上がろうとするこちらを制するようにおだやかにほほえみながら、彼女は答える。

「セディ・コーネルです。おじゃましてしまってごめんなさい。でも、こんな機会でもないとそうチャンスはないでしょう?」

 ぱちりと目配せを送りながらささやいてくれるその姿は、どこかしらあのおしゃまな女の子にも通じているかのようにみえる。


「ここからふた駅先に仕事場があるんです。きょうは朝いちばんで済ませたい用事があったもんで、午前中は休みをもらっていて。すこしだけ休憩をと思ったら、ちょうど間がよかったみたい」

 花びらが舞い踊るように軽やかに告げられる言葉に、包み込まれるようなおだやかな心地がひたひたと押し寄せる。

「ウィンストンさんは、いつもこちらに?」

「ええ、毎日ではありませんが、しばしばここには」

 どこかしら気恥ずかしいような心地に駆られていれば、ぱちり、とやわらかなまばたきが遠慮がちにそっと手渡される。

「人々の空気を肌で感じるのも大切なお仕事のひとつですから」

「――あぁ、」

 照れくささを隠せないまま、ちいさく息を吐く。不思議だ、この心地よいリズムはどこで身につけたものなんだろう。

「……聞かせてもらいました、ディディから。すごく仲のよいご家族で、教会のミサにもいつも連れ立ってきてくれるんだって」

「おっかないお母さんのせいで怖い思いをしたって?」

「いえ、そんなこと――」

 ぎこちなく首を横に振って答えれば、しずかな笑顔がそっと受け止めてくれる。

「聞いてたんです、教会にあたらしく居候の人が来たらしいって。バザーの日にあまり見かけなかった男の人をみた気がしたから、きっとあの人がそうだろうなって。最初はすごくびっくりしました、娘を迎えにいったら、親しげに話している若い男の子がいて、それが彼だったんだから。ほら、彼って独特な雰囲気があるでしょう? 悪い人には見えなかったけれど、だからってやすやすと信用してもいいわけじゃないでしょう。家に帰ってから、彼女にはすごく怒られた――そりゃそうよね、あの子ったらすっかり興奮して『王子様に会ったの』なんて言うんだから。あなたがついてたのにどういうこと? って」

 くすくす、とかみ殺すような笑い声とともに告げられる、口ぶりとは裏腹の手厳しいとしか言えない『顛末』に思わず苦笑いを漏らす。

 いまにも目に浮かぶようだ、血相を変えて怒って見せる姿も、そんなふたりを前に、頬をふくらませていじけて見せる彼女だって。

「……無理もない話だ」

 ぽつり、とひとりごとめいた言葉を落とせば、やわらかな笑みは、ただそれをあるがままに受け止める。

「子どもが集まる場所に来る大人だなんて、そりゃあこっちだって警戒するでしょう? この田舎町にとうてい似つかわしくないようなあんなハンサムなんだから余計にね。隅に置けないわね、なんて気安く言えるほどおおらかに育ったわけじゃないもの」

 ゆるやかに息を吐き、耳にかかった髪をかきあげながら、おだやかに言葉は続く。

「神父様からあらためて紹介をうけて――彼が娘のボーイフレンドにふさわしい、信頼できる相手だってことはじきにわかった。こっちだって胸が痛んだわよ、そりゃあ。それなのに、すこしも責めたりなんてしなかった。気にしないでください、ご心配されるのは最もですからって。でもほんとうによかった――親や先生以外にも信頼のおける大人がいてくれることは、子どもにとって何よりも大切なことでしょう」

 ――子どもはいつ何時も『社会』によって守られるべきものだ。決して無闇に傷を負わされ、弄ばれることになってはいけない。彼女の抱いた懸念はごくごくあたりまえの、あるべきものだ。

「すばらしいことです。だからこそ彼女はあんな風に育つことが出来たんですから」

 答える代わりのように、誇らしげなほほえみがしずかに浮かぶ。

「知っていると思うけれど――」

 慎重に言葉を選ぶように、ふかく息を吸い、彼女は答える。

「あの子は父親を亡くしているの、まだ四歳のころにね。ある意味ですごく残酷なタイミングだったと思う、言葉も話せるようになって、楽しい思い出だってたくさんこれから残せるだろうって時期だったのに――あの子の憶えている父親の姿の大半は青白い顔をして、管が沢山繋がれた状態で病院のベッドに臥せっている姿なんだから。そのせいもあるのかしらね、親切にしてくれる年上の男の人に会うと、やけになつくようになって。家には女しかいないから、それもあるのかもしれない。寂しい思いや不自由は出来るだけさせないようにって思っても、それにも限界があるでしょう」

「ええ、」

「足りないものがあるだなんて思わないでほしい。でも、子どもの世界だなんてものが家の中でだけ完結するわけないものね。だから出来るだけあの子の邪魔はしたくない。危ないことからは遠ざけてあげたいだけ――でもよかったわ、ほんとうに。またあたらしいボーイフレンドを紹介してもらう羽目になるだなんて、思いもしなかったけれどね」

「……恐縮です」

 ぎこちなく肩をすくめて見せながら答えれば、穏やかな笑顔がそっと向けられる。促されるような心地に駆られながら、遠慮がちに僕は尋ねる。

「よろしければ聞かせてもらってもよいでしょうか。あなたの、ご家族のことを」

 ぱちりと、蝶の羽ばたきのような繊細なまばたきが落とされる。時間にしてみれば、ほんのわずか――ゆるやかな迷いを溶かしていくかのようにこくんとちいさくかぶりを振り、ささやき声が静かに落とされる。

「ええ、いいわ。もちろん」

 瞼を伏せるようにしながら、なめらかに言葉は続く。

「私たちの出会いはハイスクールのころまで遡らないといけないの。一年生のグループワークでチームになったのがきっかけで、そこからクラス替えの後もずっと仲がよかった。いつも他愛もない話ばっかりしててね――悩みごとなんかは話したおぼえがすこしもなかった、ロマンチックな雰囲気になったことだってね。そのころの彼女はひとつ年下のボーイフレンドに夢中だったし、私は新しく赴任した化学の先生に片思いをしてた。彼女が有名な大学の助教授に見初められて遠い街に旅立った時にはさんざん泣いてわめいて、慰めてもらったのだってようく憶えてる」

 宝物のたっぷりと入った袋の口を紐解くように――とつとつと語られていく言葉の端々には、まだ幼い少女の影がちらりと顔を覗かせてくれる。

「そのころの私たちはたしかに仲はよかったけれど、親友とも言えなくって――彼女だってきっとそう思ってるはずよ、なにせ、ふたりきりで遊んだことなんてほとんどなかったの。卒業後はすっかり疎遠になっていたけれど、結婚式には来てもらったわ。彼女は花嫁姿の私を奪い去っていくだなんてまねはもちろんしなかった。『すてきな人に出会えてよかったわね、おめでとう』って心から祝ってくれた。娘が生まれたことを伝えた時もそう。そのころにはお互いに遠く離れた街で仕事に就いていて、報告のはがきにはメールで一言『かわいいね』って返事が来て、それっきり。白状だとも思わなかった。あるでしょう? そういうことって」

「ええ――、」

 きっとどこかで無事でいるはずの、自らの人生を通り過ぎていったうちのひとり。途切れた糸を手繰ることもなく、そのまま掻き消えていくはずの。

「それからしばらく経ったころ、夫に病気が見つかった。驚いたし、ショックもうけたわ。でも、どこかで楽観視していたと思う。お医者様にだって言われてたのよ、『初期段階の症例ですから、手術で患部を取り除けばじきによくなります』って。それでも、そこからあっという間に転移が広がって――命を落とすまでには、長い時間はかからなかった」

 ごくりと息をのみ、ほんのひと時だけ、言葉が詰まる。無理もないことだ、『過ぎ去った時間』として語るには、まだそこにはありありと痛みが残るはずなのだから。

「セディさん」

「……ごめんなさい、すまないわね」

 しっくりと馴染んだ銀の指輪をそっとさするようにしながら、続く言葉がおだやかに紡がれていく。

「あの人が亡くなった後、ひとつひとつのことを片づけていく義務が私には生じた。いろいろなものを整理して、住む環境や仕事も変わらざるを得なかった。そんな時、まわりの人がたくさん手を貸してくれたの――大丈夫? なにか出来ることがあれば言って、って。その中には随分連絡をとらずにいた人だってたくさん居た。皮肉だなと思ったわよ、人がいなくなったのと引き替えに途切れたつもりの縁が結び直されるだなんて。でも、それだってあながち悪いことじゃないはずだわ。そうやってもらったたくさんの連絡の中に、当時、彼女といっしょによく話したクラスメートの女の子がいた。ふたりとも、いまはほど遠くない街で暮らしてるから、娘をつれていてもいいからすこし気晴らしに話でもしない? って。幸いなことに娘は知人に見てもらうことになって、その間に、カフェで会うことになったの。私も彼女も、初めて会った時からはもう倍近く歳を取っていた――」

 眇めるようにどこか遠くを見つめるまなざしに、かすかにいまはもうここにはいない少女の気配がよぎる。

「すこしも変わってなんかないわね――よくいうでしょ、そんなこと。口ではそう言ったと思うけれど、本心ではちっとも思わなかったわそんなこと。私たちはみんな歳を重ねたぶんだけ様々な問題に直面して、その分だけ変わらざるを得なかった。あの頃の女の子の面影を宿したまま、彼女たちはそれぞれの人生に向き合うことで、思いもよらない変化と成長を遂げていた。楽しいおしゃべり相手はあのころとは違う形の頼れる相談相手になってくれて、私はその好意に遠慮なく縋った。大人になるっておもしろいわよね。子どものころに出会ったよく知っているつもりだった相手と、またこんな風に出会いなおすだなんてことがあるんだから。私たちは次第にふたりで会う機会が増えて、その度にたくさんの話をして、心を通わせた。そこに娘が加わったのだってごく自然な流れだったわ。私たちの関係があの頃と大きく変わったとはいまでも思っていないの――心をゆるしあえる友達で、仲間で――あのころなら考えられなかったけれど、もしかすれば私たちはうまくやっていけるのかもしれない。あの人の時とはまた違う形で、家族を作れるのかもしれない。不安はたくさんあった、でも、それ以上にわくわくして――ある日、おそるおそる娘に聞いてみたの。『ねえ、アビーと結婚してもいい? そしたらあなたのママはふたりになるんだけれどって』」

「――それでなんて、彼女は」

 誇らしげに胸を張るようにしながら、穏やかな言葉が落とされる。

「クリスマスと誕生日とイースターと宿題がない夏休みが一気に来たくらいに最高! って」

「……彼女らしいや、すごく」

「ね?」

 目配せともにそっと告げられる言葉に、あたたかな吐息をそっと吐き出す。

「いやがられるのだって覚悟した。いくら懐いていたからってそれとこれは別でしょう? って。でも娘は、ほんとうに心から喜んでくれて――恵まれてたんだと思う。いろいろなこと、すべてに。なによりも、家族になりたい相手を選んでいい、だなんて制度にね。ねえ知ってる? 異性同士でないと婚姻関係を結んではいけない、だなんて国がいまだに世界中のあちこちにあるのよ。子どもを産み育てるための制度を悪用させるわけにはいかないからですって。信じられない、ほんとうに」

「――ええ、」

 答えながら、にがい薬を含まされたような居心地の悪さをしずかに味わう。

「……子どもを持つことを選ばない人だっていくらでもいるのに」

 それぞれの暮らす土地に、そこに根ざした価値観があり、制度がある。彼らが国土とそこで暮らす人々の繁栄を目指して定めた掟を無闇に批判してしまうのはある意味ではひどく身勝手で残酷なことなのかもしれない。それでも。

「欠けたものを埋めるつもりはなかった、でも――共に生きていたいと思える人にまた出会うことが出来た。その相手は私とおなじ性別に生まれた人だった――ただ、それだけだった」

「ええ、」

 それはとても幸福な運命の巡り合わせだったと、そう言えるのだろう。


 ゆらり、としずかに頭を振り、思慮深げなまなざしをそっと傾けながら、彼女はささやく。

「ごめんなさい、長話につき合っていただいて。誰かに聞いてもらいたかったのね、きっと」

「いえそんな、お願いしたのは僕のほうです」

「よかった、それなら」

 うっすらと艶やかなローズレッドに染まった唇がきれいな弧を描く。下唇がやや厚めできゅっと口角のあがったその形が愛くるしい笑顔を振りまいてくれる幼い少女のそれによく似ていることに、いまさらのように僕は気づく。

「時々考えるの。もし自分が、こことは価値観も制度もまるで違う国に生まれ育っていたらどうなっていたんだろうかって。選ぶことすらゆるされないことがたくさんあって――もしかすれば、ただ流されていたかもしれない。都合のいいほうを選んだほうが傷つかないで済むから。そんなこと、考えたってどうしようもないのにね?」

「いえ、わかります」

 ゆるくかぶりを振り、音も立てずにしずかに揺れる心のうちをじっと見つめる。

 泡のようにゆらりと、かすかな翳りを帯びたいくつもの感情が立ち昇る。それは幾度となく向きあい続けてきた、僕にとってのなによりもの確かな光だった。

「自らの愛に殉じて生きることは明快なことのように思えるけれど、決して容易いことではありません」

「あなたって、」

 色は宿されていない――それでも、きれいに手入れされたことがつたわるかすかに艶めいた爪をするり、となぞりあげるようにしながらやわらかに彼女は答える。

「ロマンチストなのね、すごく。小説家の先生っていうのはみんなそうなのかしら」

「夢見がちなんです、こんな歳にまでなってもずっと」

 照れくささからすこしだけうつむきながら答えれば、やわらかくほころんだ笑顔がそっとこちらを包み込んでくれる。

「きょうはありがとうございます。お時間をいただけてすごくうれしかった。きょうのことは自由に話してくださって構いません。彼にだってね。ああ、作品にする時はよければ事前に教えてもらえるかしら?」

 まったくもって『らしい』としか言いようのない口ぶりに、心ごと包み込まれるようなゆるやかな心地よさを味わう。

「いえ――、」

 すこしだけ言葉を詰まらせ、もどかしく手繰るようにしながら僕は答える。

「考えておきます、すこしだけ。ありがとうございます、ほんとうに」

「丁寧にありがとうございます。また会うことがあれば、その時まで。こんな小さな町なんだから避けるほうが難しいわね、きっと」

 ゆっくりと首を傾げるやわらかなその仕草に、なぜだかふわりと胸のうちをあたためられていくのにただ身をまかせる。

「娘と仲良くしてくださってほんとうにありがとう、あなたのご多幸を祈ります。お元気で、どうか」

 祈りを捧げるようになめらかに告げられる言葉を前に、さっと手を振ることで僕は応える。




「ただいま」

 いつものように一段、また一段と階段を昇りつめ、仮住まいとして暮らすアパートの部屋のくすんだ銀のドアノブに手をかけ、重い鉄扉を押し開く。

 備え付けの家具と半ば強制的に紹介された同居人――観葉植物の鉢植えのほかに、言葉を交わす相手はいない。

 それでもなぜか、おきまりのその言葉を口にすれば、からっぽの胸のうちにはいつでも、ゆるやかな安堵の色が流し込まれる。


 挨拶を交わし合える誰かがいままでにひとりもいなかった、わけではない。

 何気ない言葉を交わして、安らぎも痛みも不安も迷いも――感情の澱に沈んだそのひとつひとつを時に分け合って、手を差し伸べあって。

 その関係にある種の到達点を求めなかったのは、決して『いまよりも幼く、未熟だったから』だけではなかった。

 縁がなかった、といえば赦されるのだろうか。

『いま』があればいいとそう思うことは出来ても、そこから先に訪れるかもしれない『未来』を望みたいと思う気持ちも、それを選ぶだけの覚悟も持ち合わせることが出来ないまま、こうしていまもひとりでいる。

 もしかすれば貴重な時間をふいにしたと後悔を負わせた人もその中にはいたのかもしれない。それでもいまの自分には、彼らにかけられる言葉だなんてものは、ひとつも見つけられるわけがなかった。

 人生はいつだって、正しい答えなどはじめから提示されるはずもない選択の連続だ。



(変わりたいわけじゃない――彼はただきっと、いまここでこうして生きていることがなによりもの幸福だから。そこに介入しようとすることなんてきっと出来ない。僕はその貴重な人生の時間をほんのすこしだけ分け与えてもらっている、ただそれだけだから)


 からっぽの胸の内が、なぜかきりきりと痛む。

 もし自分もまた、彼を求めることが出来ていたのなら――彼の前を通り過ぎていった幾人ものひとたちとおなじように、それでも、決して彼を傷つけないだけの『正しい』やりかたで。

 ――考えたって仕方がないのに、そんな残酷なこと。深く息を吸い、物言わぬ同居人とただじっと見つめ合う。


 こんな風に誰かを大切だと思ったのはきっと、初めてだ。もしそれが同情や憐憫に引き寄せられて生まれた感情なのだとしたら――自分はなんて浅ましい人間なのだろう。


「ねえ」

 いつしかいびつに震えていた指先を、青々と生い茂るすこし先のとがった緑の葉へとのばしながら僕はささやく。

「傷つけずに心に触れるすべって、どこにあるんだろう」

 カーテンの隙間からは、淡い橙の色を帯びた西日がゆっくりと差し込む。




 ×月×日 

 行きつけのコーヒーショップでリディアの母親に出会う。話は自然と、彼女たちの家族とのありかたに触れる。

 途切れたと思っていたはずの糸はひょんなことから結び直されることになり、そこからいままでとはまるで違う、新しい関係が始まることがある。

 どこかおとぎ話めいていて、それでも、確かに僕たちの暮らしに根付いた現実の、幸福な暮らしがそこでは紡がれているのだろう。

 共に生きていきたいと思える相手と関係性を結ぶことが出来る。それは実のところ、どんな場所で生きていたって「あたりまえ」ではないのだということをあらためて考える。


 すこしも傷つけずに誰かに触れることなんて出来ない。

 触れることをゆるしあえる関係になることはすなわち、たがいに踏み込む権利を与えあうことなのかもしれない。

 僕はまだ、ふさわしい答えを見つけ出せずにいる。

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黒い犬 高梨來 @raixxx_3am

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