くらいはなし(短編)

久環紫久

第1話 ないがある

 なにもないがあると言われた。哲学というより屁理屈にしか思えなかった。あるといえば確かにあるのだろうが、ないがあってもそれはないのだ。

 明日はないのだ。明日はないことがあるのだ。普通なら、普遍なら、不文律的に明日はあるのだろうけれども、今回に限れば明日はない。

 自分に明日はやってこない。陽が沈みまた登ることはなく、日が深まってまたぐこともなく、目を閉じたらもう開けることはない。開かないまぶたもあれば、登らない陽も、またがない日もある。

 屁理屈には屁理屈で返す。しかしたしかにないはあった。複雑だ。

 思えば自分はないない尽くしでないものねだりをしていた。隣の芝は青く、輝いて見えた。何もかもが素晴らしく、自分では手の届かないものばかりだったのだ。それで躍起になって辛苦を味わった。

 羨ましかったし、妬ましかった。憧れたし、憎みもした。

 死を前にして悟ったかのように気が穏やかになった。

 勝手に夢見て、勝手に苦しんで、勝手に耐えきれず、今から死のうと言うのだ。情けないにも程がある。脳タリンこの上なしだ。馬鹿馬鹿しい。

 そこまで考えて、薬瓶から手を離した。薬瓶と言っても百均で購入したただの瓶だ。それにコツコツと(否、ぷちぷちかぱちぱちと)多量の睡眠薬を集め続けたのである。


 机においた薬瓶を見つめる。死にたかったからと用意した錠剤を眺める。よくもこんなに集めたものだ。これだけの量を買うお金があったら何かおいしいものでも食べられたのではないか? 一度も食べたことのない高級品のひとつやふたつ、きっと舌鼓を打てたろう。ぷちぷちと錠剤を集めている時間をもっと有意義なことに使えたのではないか? 過ぎたことを想像しても詮無いことだけれども、そう思ったらなお馬鹿馬鹿しさに拍車がかかった。

 なにやってんだ俺。ダサすぎるぞ俺。恥ずかしすぎて死んでしまいてえ、と思って立ち上がった。綿々と続いていた自殺への念がふつりと途切れてしまったようで、生きることに欲が出た。

 浴槽の栓を抜いてなみなみと貯まった水を全部抜く。もったいねえな、と思うがほかの使い道もわからないのでそのまま流す(あとから洗濯に使うといいと知った)。

 もったいないついでに睡眠薬を一つ飲み込んで横になる。

 横になったがまだ眠れない。

 重たくなってきたまぶた越しに見た天井に、起きたら何しようと問うてみる。答えはない。あるわけがない。

 そりゃそうだ、と少し笑って。

 起きたらとりあえず、

 なにか。

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くらいはなし(短編) 久環紫久 @sozaisanzx

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