指先の記憶

たなかそら男

指先の記憶



 私はきっと今でも、子どものままだ。

 大人になって気づいたことは、人生の中に希望なんてものはもともとどこにもないという事。希望が無ければ、夢も光もない。人生という長い道は“なにもない”のだ。子供時代に、女なら「パティシエになりたい」だとか「キャビンアテンダントになりたい」だとか夢を語るものだろう。人というのは、そうやって自ら夢を語る事で、人生に障害物を設置している。その障害物を越えて、やっと夢を手にするのだ。そして、行き着く先は、決まって“死”であり、そこから先はない。人は、夢を叶えるために生きている。私はそう思う。

 では、子供時代になんの夢も抱かずに生きてきた私の人生には、一体、何が在るのだろうか。飛び越える障害物もない。私の人生は、平坦な道が死まで一直線で続いているみたいなものだ。だから、きっとこんな“子供みたいな大人”が出来上がってしまったのだ。

 

 夜の街はいつも肌を削るような風が吹いている。

 これは、私が大人になって初めて知った現実である。

 ネオンが煌めく街には、人生を折り返した中年が酔っ払い、時間を忘れたように華やかな厚化粧をした女たちがその中年を誘う。そんなものは、もやは日常茶飯事で、日々の疲れを取っ払う最も手っ取り早い方法がそれだということは、私にだって分かっている。けれど、なんだか無性に見ていられないような不安な気持ちになる。おそらく余計なお世話だろう。商店街を歩いていると、若い茶髪の大学生くらいのキャッチャーが飲み屋を誘ってくる。それを軽く追い払うことも、社会に出て五年経った私にはもう慣れたことだった。

「お姉さん?良い店知ってるんだけど、どう?」

 そして、今日も、いつもと同じくらいの年齢の男が私を誘う。

「結構です」

 私はそいつの方を見ることもなく、いつものように追い払った。

「冗談だよ、亜美」

 そして、その声がどこか聞き覚えのある声だということに気づくのに、そんなに長い時間は要しなかった。

「……篤人くん……?」

 私より二十センチくらい高い身長、細くて筋が通った鼻と、私より少し色が薄い唇。きりっとした眉毛に、男子にしては長いまつげと、くっきりな二重が合わさって、目元は芸能人並みに整っている。ジーパンとTシャツを軽く着こなして、あの頃みたいにくしゃっと笑ったそのえくぼは、今でも大学生時代の日々を私の中で彷彿とさせた。

「久しぶり」

 篤人は、そうやって笑う。

 低くて、耳を燻るような声は、私は少し嫌いだ。

「えぇ、五年ぶりね」

 レディースのスーツを未だに着こなせていない私と違い、彼は、どれだけラフな格好でも高身長なおかげでそれなりに格好良く着こなせている。着衣の上からでも分かるその背筋は、それなりに運動をしていた学生時代を物語っていた。

「なんだか、変わったな」

「あなたは変わってないわね」

 酔っ払いの喧騒が商店街にはまだ響いていた。

「もうすっかりオフィスレディーじゃないか」

 彼はまるで変わってしまった私を寂しく思うような顔をした。大学生時代の私は、きっと今よりもっと子供だったのだろう。

「あなたは何をやってるの」

「俺は昔から変わんないよ」

 彼がそう言ったのを聞くと、私は戸惑うことなく彼の手を見た。彼の細くて骨が浮き出た長い指には微かに絵の具が残ったままだった(“絵の具”という言い方をしたら怒られるけれど)。どうやら洗っても簡単には落ちないらしく、よく見るとジーパンにも絵の具が飛び散っていた。“アトリエ”から上着だけ着替えて帰ろうとしていたのだろう。

 私と篤人は、同じ芸大に通っていた。私は文芸学科、篤人は美術学科で、高校生時代から何度も絵で賞を取っていた篤人のことは他県である私の耳にも届いていて、美術雑誌に何度か載ったことがあるというのも私はこの目で見たことがある。当時から小説を書くことだけが取り柄だった私は親の国公立大に進学しなさいという意見を押し切って、自分の趣味を仕事化できる最も有効的な人生ルートである(当時はそう思っていた)芸大に進学した。そこで、篤人と出会ったのだ。私と篤人が進学した芸大は全国的に見ても規模が大きいところで、文芸学科や美術学科はもちろん、建築学科や放送学科、キャラクターデザイン学科や音楽学科、演奏学科、写真学科など、あまりにも多過ぎる学科が広大な敷地に存在した。その中でも、篤人の存在は大きく「日本の未来に名を遺す」と三件先の知りもしない学科から噂が流れてくるほどだった。

 そんな中、一年生の夏、噂の本人である篤人は大学の中央食堂で私に声をかけてきた。私は課題に追われていて、ノートパソコンを広げてキーボードを叩いていた。

「綺麗な文字だね」

 私はそう話しかけてきた男子が「噂の一年生篤人」だとは思いもせず、「明朝体よ」と身もふたもない言葉を放って彼を追い払った。

「小説を書いてるのかい?」

「見ればわかるでしょう」

「文芸学科?」

「えぇ」

 それでも彼は私に執拗に話しかけてきて、私は仕方なく課題を進めながら、向かい側の席に座る彼にそっけない返答をし続けた。私が彼の正体が「噂の一年生」だという事を知るのはその三日後の事である。

「なんで話しかけてきたの」

 私は課題が終わるとそう訊いた。昼からの作業はすっかり夕方になるまで続き、食堂の一面ガラス張りの壁からは夕日が差し込んでいた。

「なんとなくさ」

 彼はいつのまにか購入していた紙パックの野菜ジュースを飲みながら言う。綺麗だったんだよ、とぽとりと言葉を零すと彼は席を立ち、夕日が差し込む食堂を後にした。私は不思議なやつだったなと思い、ぼきぼきと肩を鳴らしてから、席を立った。

 それが私たちの出会いである。

 三日後、彼の正体が噂の天才一年生だと言うことを知った私は、知り合いの文芸学科の友達に彼のことを聞いた。流石に、噂なので誇張はされているだろうと思っていたのだが、後日、もう一度食堂にやってきた彼に問いただしてみると、一切の誤りがない情報だった。幼稚園の頃から絵を描いていること、賞を取り始めたのは小学二年生からだということ、本当は海外留学でもっと本場の絵の勉強をするという話もあったということ。

 そして、本当は、絵を描くことがそんなに好きじゃないこと。


 それから冬になり、私と篤人の関係は続いていた。その頃には私たちの仲はお互いのディープな情報も話せる程であり、暖房が効いて温い冬の食堂でいつものようの彼は課題を進めている私に声をかけてきた。

「そんなに文芸学科って課題が多いのか?」

「二年前に出来たばっかりだからね。結果を残さないといけないの」

「だから力が入ってるってわけか」

 篤人は小説を書く私の指をずっと眺めていて、自分の油絵で汚れた指と見比べていた。

「私は小説の才能がないから」

「そんな悲しい事、言うなよ」

「……なによ」

「こんなに綺麗な文章を書くのに、小説を書く才能がないわけない」

 彼は時たま、そんな事を言う。

 天才だからこそ、見える世界があある。当時の私はそう思っていた。

「俺が絵を描くのにペンを使うなら、亜美は小説を書くために指を使うんだな」

「なにそれ」

 彼は、私がそう言った事に笑った。その低くて耳を撫ぜるような声が、私の隣で踊る。その頃になると、もう私は課題がない日でも定期的に食堂に来るようになっていた。篤人がいつ美術学科の課題をしているか判らないけれど、毎日彼の指先の色は違うので、おそらく作業はしているのだろう。今日は上手くいかなかった、だとか、今日は外部の教授が来た、だとか。たわいのない会話を食堂のいつもの長テーブルでしていた。それが日常であり、日課だったような気もする。彼の指先は常日頃汚れていくのに、毎日将来のことに右往左往されながらキーボードを弾いている私の指は、相変わらず“綺麗”だった。

 そして五年経った今日も、彼の指先は色で溢れていた。爪の色も昔よりも汚くて、それは彼の努力の証を示している。

「寄ってく?」

 篤人が微笑む。

「……」

 喧騒の商店街。

 私はこくりと頷いた。

 

 彼と歩くネオンの街は、なぜか安心した。低俗な看板や、中年を誘う女も、今では何の障害にもならなかった。彼が隣にいるだけで、その空間だけ隔絶されているかのような、そんな気がした。そういえば、食堂で駄弁っていたあの頃も、そんな感じだった。彼と喋っていると周りのものがまるでここにないかのような、そんな感覚に陥る。きっと彼は、常に“そう”なんだろう。

 彼は同年代の芸術家を目指す者たちを圧倒的な差をつけて突き離して孤独にしているように私には見えたが、それはきっと彼も一緒で、一人で突っ走る彼自身も孤独な事に変わりはないのだ。

 そして、そんな孤独と闘う彼を一番近くで見ていたのは、おそらく他でもない、——私自身なんだろう。

 大学生時代、彼はよく眠そうな顔をしていた。徹夜で作業をしていたからなのだろうけれど、その瞼は疲弊を吊り下げていて、霞んだまなこには熱心にパソコンに文字を流す間抜けな私の姿がずっと映っている。彼の肌は、日光に当たらないせいか大理石みたいに真っ白で、黒か青か紺色の絵の具が肌に付着して、私にはそれが“殴られた跡”に見えて仕方がなかった。

 今もそうだ。

 彼の手首に残る紅い絵の具の跡が、腫れたように見えてむず痒い。気色が悪い気がして、罪悪感が浮かぶ。

「ここだよ」

 篤人は木造建築の一軒家の前で立ち止まった。見るからに古そうな建物で、むき出しの配管からこれ見よがしに水が垂れている。

「叔父がここをアトリエとして使っていいって言ってくれてさ。あ、前にも言ったよね」

「えぇ」

 篤人がアトリエで画家を目指すというのは大学を卒業する少し前くらいに彼から直接耳にしていたし、結構ボロいっていうのも聞かされていたけれど、ここまで壊滅的だとは思っていなかった。

「少し前まではほかのアトリエ生も居たらしいけど……今じゃ僕一人だ」

 彼はそう言って、今にも壊れそうな横開きの戸を開ける。耳を抉るような不快音を奏でたその戸の向こうは、外観とは裏腹に目を疑うような絶景が広がっていた。教室一つ分にも満たさない空間に数えきれないほどのキャンバスが散乱としている。完成品もあれば、途中で描くのをやめた駄作もあるのだろうけれど、私にはどれもが傑作に見えた。普段から白と黒の文字列と睨めっこしている私の眼を貫く数え切れないほどの色彩。声が絵画に飲まれた。

 ごくん、と、飲み込まれたのだ。

 篤人は絵画に関してはオールラウンダーで、どんなタイプの絵も描けるのだという。海中生物のデッサンは今にも紙を突き破って、この空間を泳ぎまわりそうだし、海中を描いた絵画は私の視線を完全に釘付けにした。音は水中の鈍い反響をして微かに波の音がする。身体全体を包み込んだ、ひんやりと冷たい海水は私の存在を淡い泡のように翻弄した。目の前で泳ぎ回る熱帯魚は群をなして、楽しそうに笑っている。——ここはオーストリアのグレートバリアリーフだ。私は今、グレートバリアリーフでダイビングをしている。むき出しの岩肌に飾られた虹色のサンゴ礁がそれを物語っている。儚く青い海中に、私は居る。

 

「——そこで座ってて」

 

 彼の声で我に帰る。

 そこは山ほどの絵画がある、篤人のアトリエだった。

「オーストラリアに行ったの?」

「うん、去年の夏にね」

 私は篤人が指定した木の丸椅子に座る。

「ここに住んでるの?」

「いや、ここに住んではないよ。忘れ物しちゃってね」

「そう……」

 私は、まだ、部屋の真ん中に置かれた海中の絵画を見ていた。それがオーストラリアのグレートバリアリーフを描いた絵だとはどこにも記されていなかったが、それだけ彼の絵はグレートバリアリーフを即座に連想させるほどの表現力だった。篤人は、山積みになったキャンバスから何かを探している。

「あった、家の鍵」

「なんでそんなの無くすのよ」

 篤人は笑いながら「昼寝した時に落ちちゃったんだよ」と言う。きっと、この絵を描いていた時の話なのだろう。

「この絵は賞とったの?」

「うん、とったよ。美術展に飾られる」

「駅前の……?」

「うん」

 初めは近所の公民館、次に高校の廊下、大学の廊下、そして——美術館。

 彼の絵は、私が審査する必要もないほど確かな進化を遂げていた。小説コンテストで最終審査を通過したという知らせを聞いただけでぬか喜びをする私とは大違いだった。大学生時代にあれだけ口にしていた「美術館に展示」という夢を叶えたのを、そうやって彼は淡々と気づかないくらい平然と口にした。私は一体あとどれだけ努力すればそんな事が出来るのだろう。そう思いつつも、自分がもう筆を置いた事を思い出す。

 私は夢を諦めたのだ。

 大学を卒業してしばらくは、まだ小説を書き続けていた。小説家になりたかった。亜美ちゃんって印税で生活してるの?その一言が聞ければそれで良かった。けれど、現実というのはやはり残酷で、私にだけ特筆して当たりが強い。結局、どのコンテストに応募しても入賞することはなく、どの出版会社からも目をつけられず、亜美という名前のアマチュア小説家が居たという話だけが大学に残り、プロになったという報告が大学の文芸学科に知らされることは、五年経った今でも叶わなかった。なぜなら、もう諦めたから。諦めるしか、なかったから。

「それじゃあ、行こっか」

 篤人が右手の中指に鍵のチェーンを絡ませて、くるくると回しながら私にそう言う。

「うん」

 彼は夢を叶えた。

 私は夢を諦めた。

「小説書いてる?」

「今は書いてない」

 アトリエを出ると、篤人は私にそう訊いてきた。

「そっか今は書いてないのか」

 彼は少し残念そうに言った。

 “今は”だなんて。まるで、「少し休んだらまた書き始める」みたいな、含みのある言い方をしてしまった事を後悔する。“今も、これからも”、おそらく私はもう小説を書くことはない。書こうとは、思えない。

 

 彼と一緒に歩きながら、大学生時代の食堂を思い出す。バスケサークルがたらふく食べていったであろうカレーの匂い、女学生がダイエットだなんて言って盛り合わせたサラダ定食にかけたシーザーサラダの匂い、外食持ち込み禁止の札が読めない馬鹿な学生が持ち込んだポテトとハンバーガーの匂い、そして目の前に座る篤人の“痣だらけの手”から漂う油絵の具のツンとくる匂い。全てが日常で、そこはかとなく平凡で、何の変哲も無いほど退屈だった。それが、今覚えば私の小中高大を通して、青春と呼べるものの最高点だったかもしれない。

 

「ここ…?」

 私は一棟のマンションの前で立ち止まった篤人にそう言った。

「うん」

 篤人はマンションのエントランスへ繋がる二重扉のオートロックをカードをかざして開けると、そのまま迷わずエレベーターのボタンを押す。私は後ろをついて行くことにした。エレベーターの中は恐ろしく広い。エントランスでも思ったのだが、おそらくこのマンションはこの街でトップクラスで家賃が高い。そしてはしゃぎたくなるほど広い。もし私に子供がいれば、きっと今頃エントランスをトコトコと走り回っていた自分の子供を叱っていたことだろう(もしも、の話だけれど)。

「随分広いところに住んでるのね」

「色んなコンテストの賞金でお金が入るんだ。使わないわけにもいかないだろう?」

 貯金したらいいのに、という言葉に「取った賞は一つではない」という隠されそうになった事実に気づく。美術館に展示されるのが今回が始めてなだけであって絵画コンテストなどで賞を取るのは今回が初というわけでもないのだ。

「絵、見てく?」

「見てもいいなら見せてよ」

 私はエレベーターの中で篤人にそう言った。篤人は何だか嬉しそうに反応する。

「篤人は凄いわね」

 エレベーターを降りて、篤人を先頭に部屋へ向かう。私は篤人の背中だけを見ていた。

「そう?亜美だって小説があるじゃないか」

「あんなの、……そうでもないわよ」

「そうでもないことないさ。すっごく綺麗な文章書くじゃないか」

「それが、“そうでもない”のよ」

 自分に小説を書く才能がないことなんて、小説を書き始めて一ヶ月ぐらいで気がついた。稚拙な文章、起承転結がないストーリー、欠伸が出るような遅い展開、重たく載せられた多すぎる設定に、読者がついていけない謎会話——才能なんてない。あるのは学生時代から積み重ねられた妄想癖だけで、それが面白いだなんて事は例え地球がひっくり返ったとしてもありえないのだろう。けれど、篤人は私と比べて——いや、私と比べなくても圧倒的なくらいの才能に溢れていた。それは、例え地球がひっくり返っても変わらないくらい——漠然と才能の差がぱっくりと開いている。絵を見せるだけで、何も言わずとも(題名を聞かずとも)それが何処で何を描いた何の絵のか明確に理解させる。人をその絵に引き込む。

「そっか、……」

「そうよ」

 篤人は自分の部屋—705号室—の鍵を開け、私を招き入れた。やはり、私の思っていた通り、このマンションは俗にいう高級マンションというものらしい。いくらなんでも広すぎるリビングに薄型の最新液晶テレビがどんと部屋の中で構えている。いかにも高そうなソファーには場違いなクッション(おそらく、大学生時代に使っていたもの)が散乱していて、お金はたくさんあっても上手く使えない篤人らしい部屋だった。

「座ってていいよ」

 篤人がそう言う。私は素直にソファーに腰をかけた。ふかふかしていて、このまま沈んでいってしまうのではないかと思ってしまうほどの質感だった。家具に詳しくない私でも、今座っているソファーがこの先中々お目にかかれないほどの高級ソファーだと言うことはなんとなく分かった。

「そういえば、どうして私を家に招いたの?」

 少し落ち着いてから、キッチンでゴソゴソとコーヒーメーカーを用意している篤人にそう訊いた。

「なんでもないよ。ただ、昔みたいに、ゆっくり話がしたくってね」

「そう…」

 篤人がようやくコーヒーメーカーを戸棚から取り出した。どこの家にでもある一般的な家電。凄まじく高いコーヒー豆を使っているわけでもなく、コンビニで売っているコーヒー豆を使っているらしい。おそらく、このソファーはオプションでもとからこの家に置いてあったものなんだろう。

「充実してそうね」

 私はそう言う。

 そして、少しこころがちくっと痛んだのを感じた。篤人が私の言葉を聞いて傷ついているかもしれないと思ったからだろうか、それとも、そんな妬みみたいなことを口にした自分に対する嫌悪だろうか、まぁ、おそらくはその両方なのだろうけれど。

「そうだね」

 彼から意外な肯定の返事が帰ってきて私は少し戸惑った。

「俺は、あとどれだけ頑張ればいいんだろ」

 らしくないよ。

 その一言が喉でつっかえた。

「亜美はどうやって、夢を諦めたんだよ」

「……失礼ね、諦めたくて諦めたわけないじゃない」

「じゃあ、なにが理由だったのさ」

 才能。

 それは、努力で磨いて出来上がるものではない。努力で磨いて出来上がるのは、実力であり、才能というのは生まれたその瞬間から、もう既に、出来上がっているものなのだ。それが、彼にはどうしても理解できないらしい。

 次に私が浮かべた感情は哀れみに近いものだった。怒りでも嫉妬でもない、ただ篤人に対する哀れみだけが、珈琲をカップに注ぐ彼に向いていた。

 どうやら、彼は走りすぎたらしい。足が壊れたのだ。だから、もう走れない。

「……アトリエに残ってる絵、燃やそうと思う」

「後悔はないの?」

 私は間髪を入れずに質問をしていた。

「ない」

「そう……」

「後悔するのも、もう……疲れた」

 これだけ大きい部屋なのに、漂うのはたった一種類の珈琲の香りだった。学生時代、コーヒーショップの店長が言っていた。珈琲は、注いでいる人間の気持ちを一緒に注がせるらしい。だから、珈琲には、注いだ人間の気持ちを写すのだという。

「はい、できたよ」

 篤人はソファーに座っている私にそっと珈琲を渡した。熱いから気をつけてね、と、まるで子供に注意するみたいな口調だった。私は、「えぇ、ありがとう」と言って、珈琲の香りを嗅いだ。

 寂しい匂いがする。

「今日はね、燃やすのを手伝ってもらうお願いをしようと思ってさ」

「……分かったわ」

 “らしくない”のは、私も同じらしい。いつもなら、簡単に突き放すように断っていた。大学生時代とはまるで違う返答をしてしまったのだ。

「ありがとう」

 彼は、向かい側のソファーに座って、香りを鼻に通すことなくふーと珈琲の表面を冷まして、珈琲を苦そうに飲んだ。

「明日は仕事?」

「いいえ、休みよ」

「じゃあ、明日燃やすのを手伝ってくれ」

「えぇ、分かったわ」

 本当は休みなんかじゃない。明日は理不尽な休日出勤で会社に行かなくてはいけない。別に好んで入社したわけでもない会社へ、上司の怒号を浴びせられに、私は明日、会社に行く。

 だから、本当は休むことなんてできないけれど、なぜだか今は、嘘をついておいた方がいいような、そんな気がした。

 

 そして、また夜が更ける。

 学生時代、あれだけ短いと思っていた夜。今では、こんなにも長く感じる。

「お酒、飲む?」

「えぇ、飲めるわよ」

 篤人は私の返事を聞いて、にやりと笑い、キッチンの戸棚から見るからに高そうなワインを取り出した。

「出展祝いだってさ」

 篤人は、ワインに貼ってあった付箋を見て、そう言った。

「高そうね」

「そうだね、高そうだ」

 まるでおうむ返しな返事だったが、カフェインを摂取して目が覚めていた私たちはとくに気になることはなかった。

 それから、私たちは、ワインを飲みはじめた。今思えば、彼とお酒を飲み交わしたことなんて一度もなかった。私と彼が会っていた時間は、食堂に居た時間のみ。たった、それだけだった。恋人というわけでもなく、友達というわけでもない。食堂でパソコンのキーボードを叩いている女子に絡む、油絵臭い男子。その実、話していた内容もたわいもないようなものばかりで、彼のことを詳しく知れたかどうかは怪しいものである。彼が一方的に私に質問してくるものだから、私は仕方なく手を休めて彼に答える。それが当時の会話の流れで、私の方から彼について質問したことなんて、本当に数えるほどしかないのだ。

「酔いやすいタイプ?」

「へ?……いいや、私は結構強いほうよ」

 そもそも、酔ってしまうほどお酒を飲んだことがないのが正しいのだけれど。彼は、高そうなワインをグラスに注ぐと一気に飲み干していく。やめなよ、と言おうと思ったが、それを言うのはやめておいた。

 それから、彼は少しずつアルコールが回っていき、初めのほうは楽しそうに今度展示される絵画の話をしていたが、のちにそれは美術館のスタッフの愚痴へと変わり、そして舌が回らなくなっていった。うとり、うとり、と彼の頭がふらふらと揺れる。こんなやつの姿は、よく深夜の商店街で目にしていたが、いざ知り合いがその状態になると、なんとも笑いが込み上げてくる。そして、彼はやがてフカフカのソファーで眠りについてしまった。

 相当、疲れていたらしい。

「……」

 私は、若干アルコールが回った重たい自分の体をのしりと持ち上げ、ソファーを立った。そして、彼のズボンのポケットからアトリエの鍵を盗み取り、リビングをあとにする。廊下を歩いて玄関へ向かった玄関の脇には、ライターやマッチなどがいくつも置いてあって、お酒を飲む前に明日の準備をしていたのが伺えた。私はマッチを一箱だけ取り、オートロックのこの705号室を後にした。

「……」

 外は静かだった、

 いつもより遅い時間の帰宅になるだろうと、そう思った。

 

 彼と来た道を私は一人で歩いて帰った。

 フクロウの鳴く音が遠くで聴こえる。誰もいない忽然とした夜道を、突き刺す夜の風を縫って、私は彼のアトリエへと向かった。

 アトリエに着くと、彼から盗った鍵で、あの悲鳴をあげる扉を歯を食いしばりながら開けた。電気を点けると、中には依然として、今度美術館に飾られる天才的な絵画が在った。この圧倒的な絵画だらけの空間ですら一際、桁違いな質感を放っている絵画。きっともう、こんな絵画に出会うことはないのだろう。だから、よく目に焼き付けておきたかった。

 これが、私の見る最後の彼の絵になるだろう。

 

 マッチに火をつけ、失敗したらしいデッサンの山に投げ込む。もくもくと、白く濁った煙がパチパチと何かを弾くような音を立てて、天井へ登っていく。

「この小屋は、きっとよく燃えるだろうなぁ」

 私は、何を言っているんだろうか。自分でも分からない。

 また、マッチに火をつけ、違うところに投げ込む。デッサン紙は、瞬く間に燃え上がっていく。この小屋は古くて、火災報知器すら設備されていない。だから、綺麗に跡形もなく燃えてくれるだろう。周りに人はいないし、少しも一目につかないところだから街の監視カメラもない。この小屋だけが燃えてくれるはずだ。そして、また、マッチに火をつけた。それは、このアトリエで一番綺麗な絵画、その青色に静かに落とした。海をそのまんま現像したこの世のものとは思えない清爽な青は、私がつけた紅い火によって黒く穢れていく。

 これでいい。

 私はアトリエをあとにして、少し離れたところで「小屋が燃えている」と通報をした。そのあとは、消防車がけたたましいサイレンを街に響かせ始め、私は自分が燃やした事を隠したまま、帰路に着いた。もとから、あったという事実すらあまり知られていない小屋である。燃えたところで誰も困らない。ただ、消防隊員には無駄な仕事をさせてしまった。それは深く後悔をしよう。私はそう心に決め今度、お詫びに茶菓子でも消防団に送ろうなどと呑気な事を考えていた。

 

 やはり、一人きりの帰路は重い。

 けれど、彼の夢がかかった大事な絵画を燃やした事に関しては何の後悔も抱いていなかった。

 走ることを諦めた私と、走り過ぎてしまった彼。違ったようで、実はとても似ているのだと私は思う。だから、きっとこれでいいのだ。何の根拠も理由もありはしないけれど、彼がわざわざ自分で自分の作品を燃やすだなんて事だけはあってはならない。それだけは確かなことだと私は思った。彼は、きっと後日アトリエが燃えた事を聞かされて、すぐに燃やした犯人が私であるということを察するだろう。けれど、彼のことだ。どうせ、私が燃やしたということは、誰にも言わないのだろう。

 彼が、自分で手を汚す必要は、もうどこにもない。

 

 結局、私の人生には何もなかった。

 親に敷かれたレールから抗おうと思ったが、結局どこにでもいる普通のOLになってしまった。夢を抱かなかったわけではない。私は、小説家になりたかった。だから、たくさん小説を書いた。毎日毎日、ディスプレイと睨めっこをして、それでやっと書き上げた最期の作品は、結局なんの賞も取れなかった。そして、レールに敷いた小説家になるという壁を、私は乗り越えることはなく、素直に親の敷いたレールを走る事にしたのだ。もし、五年前に、壁を乗り越えることができたなら、私は今頃小説家だったのだろう。

 そして、画家になった彼は、自分で敷いた画家になるという壁を越え、その先を走り続けていた。そして、走り過ぎた。

 もう、休んでもいいよね。

 あの時の珈琲からはそんな匂いがした。

 これからは好きに生きようよ。

 私は彼にそう伝えたかったかもしれない。

 私は情けない自分を鼻で笑い、夢が駆せた儚い想いが焼け焦げた匂いのする街を、一人で歩き続けたのだった。

 

 

 

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指先の記憶 たなかそら男 @kanata_sorao

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