ラムネ色のプールサイド
きき
ラムネ色のプールサイド
「ちょっと手を洗ってくるね」
そう言って永山先輩がトイレに行ってから30分が経った。
蝉の鳴き声が頭に響く8月の午後。
ぼうっと先輩を待つ汗だくの僕の右隣では、先輩の飲みかけのラムネが汗をかいている。
◆
永山先輩は僕と同じ水泳部の部長で、僕と同じ小学校と中学校の出身で、僕の家の隣に住んでいて、つまりは僕の幼馴染だ。
昔は「葵ちゃん」と呼んでいたけれど、小学校高学年になった時に同級生にからかわれてから「永山さん」と呼ぶようになり、中学校に入ってからは周りに合わせて「永山先輩」と呼ぶようになった。
そんな僕とは反対に、永山先輩は昔からずっと僕のことを「望くん」と呼ぶ。
学年が上がるにつれてそれが恥ずかしくなってきて、いつだったか僕が「やめて欲しい」と真剣にお願いをしたら、先輩は「私が望くんのことをどう呼ぼうとも、私の勝手でしょう」ときっぱりと言い放って断ってきた。それどころか、「次にまたそんなことを言ったら、今度は"のんちゃん"って呼ぶからね」と脅してきたのだ。流石にそれだけはどうしても避けたかったので、僕はしぶしぶと下の名前で呼ばれることを受け入れた。
僕らは小学校に上がる前から、同じスイミングスクールに通っていた。僕らの母親たちに言われて通い始めたスイミングスクールだったけれど気が付くと二人とも泳ぐことが好きになっていて、中学校に上がると二人とも迷わず水泳部に入部して放課後は学校のプールに通い続けている。
ただただ泳ぐことが好きなだけで特に突出した記録を出さないでいる僕とは対照的に、先輩はめきめきと頭角を現し、今では県の大会の常連になっていていつも良い記録を残している。
そして明るく人懐こい性格のせいか、同級生はもちろん先輩や後輩からも人気があり、中学校・高校とずっと部長を務めている。
そう、先輩は、いつも僕の先を泳いでいるのだ。
家が隣同士だから今でも部活の後は一緒に帰っている。
二人でくだらない話をしている。
永山先輩は変わらず僕を気にかけてくれている。
何の面白いところもない僕の隣に居てくれる。
昔から何も変わらないように見える。
それでも、やっぱり永山先輩は、いつものろのろ泳ぐ僕の先をすいすいと華麗に泳いで行ってしまう。
今は手を伸ばせば届く距離に居るけれど、そうやってこれからもどんどん先へ行ってしまって、いつか僕の手の届かないところまで行ってしまう日が来てしまうのではないか。
漠然とそんなことを考えるのは先輩が変わってしまったからか、それとも、僕が全く変わらないからか。
そんなことばかり考えて、先輩の近くに居ても僕の心はいつも主をなくした風船のように何処かを浮遊しているようだった。
◆
その日も部活が終わった後、先輩と僕は校門の前で待ち合わせをして一緒に帰った。今は夏休み期間中なので、練習が終わったのは太陽が高く昇る午後の時間だった。
「あっっつーーい…地球、もう溶けちゃうんじゃ無いの?」
水色の下敷きをパタパタさせながら先輩が唸る。プールの中では活き活きとしている先輩もプールの外のこの暑さには勝てないようだ。というか、昔から暑さにはめっぽう弱い。
「望くん、寄り道していこう?冷たいもの補給しないと家に辿り着けないよう…そうだ!ラムネ飲みたい!つめったくてシュワシュワのやつ!」
「家まで10分の距離でしょ?ちょっと我慢すれば快適なクーラーの世界じゃん。それに、昨日だってアイス食べて帰ったでしょ。太るよ?」
「年頃の女子に向かって『太る』とか、望くんのクセに生意気ねえ。それにラムネは飲み物だから、アイスよりはカロリー低いわよ。っていうかゼロカロリーよ、きっと。ああ、もうあのシュワシュワが私を待っている…!ほら、行くわよ!」
先輩のカロリー感覚に不安を覚える僕の右腕を掴んで先輩はずいずいと歩いて行く。その繋がれた箇所に熱が集中するのを感じながら、言われるがままされるがまま炎天下を進んで行った。
昔から先輩は僕の腕を引っ張って、色んなところに連れて行ってくれた。時には親に怒られるような子どもには少し遠いところまで。そうして先輩は僕に色んな景色を見せてくれて、僕の小さな世界はどんどん広がっていった。
僕はいつまで先輩と一緒に色んな景色を見ることが出来るのだろう。
ぼんやりと考えながら歩いていると、目的地の駄菓子店に辿り着いた。「望くんはここで待ってて」と言って先輩はスキップしながら店内へ入って行った。この駄菓子店も、僕らが小さい頃から通っている店だ。昔はお小遣いを貰ってスイミングスクールの帰りにおやつを買っていた。
「ここで待っていろ」ということは、どうやら今日は先輩風を吹かしてラムネを奢ってくれるということだろう。二日連続で寄り道を強要しているせいだろうか。さりげなく律儀なところも先輩らしくて思わず一人で笑ってしまった。
「お待たせ…って、何笑ってるの?」
ラムネの瓶を両手に持って店から出て来た先輩がいぶかし気に僕を見る。
「別に、笑ってないよ」
「ふーん…変なの。ま、いいや。はい、どうぞ、今日は先輩の奢りです」
えっへん、という効果音が付きそうな動きで僕にラムネを渡してきた。右手で受け取ったラムネは冷たくて、一気にのどの渇きを感じた。
そのまま駄菓子屋の目の前にある公園へ行き、ベンチに腰を下ろした。
「ふうっ、やっぱり木陰に入ると少し涼しいね」
先輩はそう言いながら馴れた手つきでラムネを開栓する。シュポン!という気持ちの良い音と共に瓶の中では泡がシュワワワ…と膨らんでいた。僕も自分のラムネを開けようとラベルを剥がしていると、隣から「うわっ」と小さな叫び声が聞こえた。見ると、先輩の瓶からラムネがシュワシュワと溢れ出ていた。
「あーあー、何やってんの…」
「いやー、ちょっと考え事していたらこんな事に…」
「…考え事?」
僕が尋ねると、先輩は一瞬だけハッとしたような表情を浮かべた。僕はそれを見逃さなかった。
「ううん、何でもないの。それより手がべっとべとだあ…もう、最悪。望くん、私ちょっと手を洗ってくるね」
立ち上がってトイレの方へ駆けて行く先輩を見送る。先輩が居た場所にはびしょびしょに濡れた瓶が所在無げに佇んでいた。
さて、先輩の考え事って何だろう。
思えば、今まで先輩から悩み相談を受けたことは一度もなかった。そもそもいつでも皆に明るく振舞っていて、何かに悩んでいる様子なんて見たことがなかった。先輩は周りの人たちの空気を大切にする人だからだ。
何か心配な事でもあるのだろうか。部活のこと?…いや、部の皆とは仲良くやっているはずだ。来年高校三年生になるから受験のこと…?でも昔からの勉強のことでの悩みなんて聞いたことがないし…。
一瞬にして僕の頭の中は、“先輩の考え事”でいっぱいになった。
僕の生活の軸はずっと先輩だし、ずっと自由奔放な先輩に振り回され続けてきた。果たしてそれはこれからもずっと続くのだろうか?それに先輩は、何が面白くて僕と一緒に居てくれるのかがさっぱり分からない。僕よりももっと面白い人なんてごまんと居るし、そんな人と居た方が先輩にとっても有益なんじゃないだろうか。
あ、もしかして“考え事”って好きな人のこととか…?
いよいよ先輩にも“彼氏”というものができるのだろうか。そうすると、僕と一緒に居る時間は必然的に減ることになる。それはきっと、先輩にとって良いことだろう。僕と一緒にいるだけでは先輩の世界が広がって行かない。僕の世界を広げてくれた先輩がそんなことになってはいけない。それにどっちにしたって、来年からは先輩は大学生で、もしかしたら隣の家から引っ越してしまうかも知れない。
うん、やっぱり先輩の世界が広がっていくことは大切なことで、良いことで、嬉しいことだ。
先輩は僕の先を泳いで行くべき人だ。
それが僕にとっても、きっと良いことだ。
「 本当に? 」
隣には誰もいない。
だけど、どこからかそんな声が聞こえた気がした。
そしてふと気が付いた。
先輩、戻ってくるの遅くないか?先輩がトイレに行ってから、多分30分近くは経っている気がする。トイレはすぐそこだから、ついでに用を足したとしても普通は5分で帰ってくるだろう。
どうしたんだろう。様子を見てきた方が…いや、わざわざ女子トイレに様子を見に行くのも気が引ける。…もう少し待ってみることにしよう。
隣を見ると、この暑さで先輩のラムネの瓶は大量の汗をかいていた。触るとすっかりぬるくなっている。せっかく「冷たいものが飲みたい」と言って買ったのに、これでは台無しだ。
そんな僕もだらだらと汗が止まらない。もしかしたら先輩、この暑さで倒れていたりして…漠然とした不安が胸を過ぎる。
…やっぱり様子を見に行こう。
まずは、勿体無いのでぬるくなった先輩のラムネを一気に飲む。しょうがないから先輩には新しく冷たいやつを後で買ってあげよう。空になった瓶をゴミ箱に捨てると、片手に先輩の鞄、片手に自分の鞄を持ってトイレへと向かった。
道すがら、大きな噴水が目に入った。この公園のシンボルでも大きな噴水。いつも目にしているものだ。そこで僕は何となく違和感を覚えた。よく見ると、噴き出している水の色が何だか変なのだ。
気になって近くに寄ると、やっぱりいつもと水の色が違う気がする。
いつもは澄んだ透明色なのに、今日は青みがかっているような…緑がかっているような…
さっき飲んだラムネのような色をしている。
そう思った瞬間、水の勢いが増した。
気のせいかと思ったがそんなことは無く、どんどん空へと高く噴き出していくのだ。その勢いは留まることなく増していく。何が起こっているかわからない僕は、少しずつ後退りする。本当は走り出したい気持ちなのに、驚きのせいか身体が上手く動かない。
そしてその水の柱が公園の木々より高くなった頃、ごぽん!と大きな音がして、大きな水の玉が生まれた。
水の玉はいよいよ驚いて動けないでいる僕にゆっくりと、しかし着実に近付いて来て、気が付くと僕の身体を頭から呑み込んで行った。
◆
感覚は全くなかった。
冷たくも温かくも、痛くも苦しくもなかった。
だけど、何故だか優しさを感じた。
◆
瞼を開けると、そこは元居た公園のベンチだった。
僕はそこで横になっていたようだ。堅いベンチのせいで背中が痛いし、随分とよく寝ていたような気分だ。ああ、実は僕は先輩を待っている間に昼寝をしていて、あの噴水の不思議な現象は夢だったのだろう。それにしても、この炎天下の中で昼寝だなんて、自殺行為にも程がある。
そういえば、と思い隣を見るとさっきまであったはずの先輩のラムネが無い。それに置いて行ったはずの先輩の鞄も。
心がざわざわと波立ち始めた。先輩が居ないことは勿論なのだが、何かがいつもと違う気がするのだ。不安になって辺りを見回す。大きな木、可愛らしい色の遊具、ベンチ。そして時計の針は午後三時ちょうどを示していた。
そこで、はっと気が付いた。この公園の時計は、毎時チャイムが鳴るはずなのに、今は何の音も響いていない。
立ち上がって公園の更に奥に進んでみると、遊んでいる子どもが一人もいない。この時間は学校帰りの小学生が沢山集まっているはずなのに。
それから公園を飛び出し駅の方向に進んでみたが、誰ともすれ違うことはなかったし、車は一台も通らなかった。猫一匹すら歩いていない。
そうして僕はこの世界の異変に気が付いた。
この世界には、僕以外はいない。
この世界は、沈黙に包まれていた。
◆
どうするのが正解か分からない僕は、とりあえず元居たベンチに戻ってみた。
僕はどこに迷い込んでしまったのだろう。さっき夢だと思っていた不思議な噴水の現象は実は現実で、それが原因で僕はどこか違う世界に迷い込んでしまったのだろうか。いやいや、そんなおとぎ話みたいなことがあるか。
それに先輩は何処に行ってしまったのだろう…
現実離れした状況に思考が追い付かない。
ベンチにもたれてぼうっと空を見上げた。その空の色ですらいつもと違うように感じる。ちゃんと青色をしているのに、夏らしい青々しさがなく、静寂が混ざったような色をしているのだ。そう、それはさっき飲んだラムネのような色だった。
それに太陽は力強く僕を照らしているのに、全く暑さを感じない。全てが勢いを失ったような静かさに包まれた世界に感じる。それが更に僕の不安を増長させた。
何も考えられずそのままぼーっとしていると、何やら人の気配を感じた。というか、あまりにもこの世界が静かすぎて気づかざるを得なかった。
ゆっくりとベンチの背もたれから身体を起こすと、僕の目の前に小さな女の子が立っていた。
僕意外の人間が現れたことへの驚きと共に、更に僕は別のことに驚きを隠せないでいた。
だってその子は、小さい頃の先輩にそっくりだったのだから。
女の子は僕をじっと見つめていた。その視線に耐えられず思わず彼女に話かける。
「ええっと…僕に何か用?」
「…人を探しているの」
その声は、この世界の沈黙を切り裂くようにしっかりと響いていた。
「人って…お友達かな?」
「そう。お兄さん、ここら辺で誰か見かけなかった?」
「いや、実はさっきから誰も見かけていないんだ…」
「そっかあ…どこ行ったんだろう、のぞむくん…」
寂しげな表情と共に発せられたのは、紛れもなく僕と同じ名前だった。
なぜ彼女が僕の名前を…?いや、もしかしたら僕と同じ名前なだけで全くの別人の可能性もある。心臓の鼓動が早まるのをどうにか抑え、冷静を装いながら女の子との会話を続けようとする。こんな小さな女の子に自分の動揺がバレてしまったら、あまりにも格好悪すぎる。
「えっと…のぞむ…くんとは、はぐれちゃったの?」
「うん、一緒にスイミングスクールから帰る途中だったんだけど、いつの間にかいなくなっちゃって…」
まさか、という思いがどんどん増していく。彼女の言う“のぞむくん”とはやっぱり僕のことで、目の前にいる先輩そっくりの小さな女の子は、もしかして本当に…
聞こうか聞かまいか逡巡したがいよいよ好奇心に勝てず、ついに僕はその問いを口にした。
「あっ…そう言えば、君の名前は何て言うの?」
「なんでそんな事聞くの?」
その返答はあまりにも的確なものだった。確かにたまたま探し人を尋ねただけの男子学生に名前を聞かれたら不審に思うだろう。一瞬狼狽えたが、流石の僕も小さな女の子に負けるわけには行かないし、何より不審者になりたくなかったので、
「時間があるからさ、良かったら僕が一緒に探してあげようと思って。良かったら名前、教えてくれない?」
とそれっぽく答えてみた。
それを聞いた女の子は少しだけ考えた後、こう言った。
「私は、葵。永山葵です」
ああ、目の前にいるのは、やはり小さい頃の先輩だ。ここまで似ていて名前まで同じで、別人という方がおかしい。予想通りであり、信じられない状況に僕は息を飲む。
ということは、僕は昔の世界にタイムスリップしてしまったということか?それにしても過去の世界というにはあまりにも色々な状況がおかしすぎる。
そしてこの世界の先輩が探しているのは、“昔の僕”ということだろうか。昔の僕を今の僕が探す…更におかしな状況になってきてしまった。
「そう言えば、お兄さんはなんていう名前なの?」
僕が考え事をしていると小さな先輩が尋ねてきた。
「僕?僕は、高橋望です」
まずいかと思ったが、思わず本名を言ってしまった。彼女の混乱を招くのでは、と一瞬心配したがそんな僕をよそに先輩は、「お兄さんも望っていうの?!しかも苗字まで一緒だあ!すごい偶然ね!」と嬉しそうに言った。こういう、自分の感情に正直なところは昔から変わらない。
「望お兄さんが一緒なら、望くんもすぐに見つかりそうな気がする」
「あはは…そう言ってもらえて嬉しいよ」
非現実の世界に迷い込んで、小さな先輩とどう接して良いか分からずにあたふたしている僕をよそに、先輩は僕の手を握った。
「暑いし、早く望くんを見つけに行こう」
「どこか心当たりはあるの?」
「うーん…とりあえず、望くんの家に行ってみようかなあ。勝手に先に帰っているかもしれないし」
そうして先輩は、小さな力で僕を引っ張って行く。
この世界でも、先輩は僕の一歩先を歩いて僕を導いてくれていた。
僕は小さく苦笑した。
◆
僕の家に行くまでの風景は、いつもと全く変わっていなかった。
違うことと言えば、僕ら以外に外を歩いている人が居なかったこと位だ。近所の大きな家に住んでいるゴールデンレトリバーも今日は僕に吠えて来なかったし、そもそも犬小屋に不在だった。
僕の家に着いてチャイムを鳴らしても、誰も出てくることはなかった。窓から家の様子を見てみたが、人の気配は全くなかった。
「望くん、まだ帰ってないんだ…おばさんも出かけているみたいだし」
「お母さんと出かける約束をしていた、とかないかな?」
「そんなこと、今日のスイミングスクールの時言ってなかったもん。いつもだったら用事があったらちゃんと言ってくれるのに…それに最近、望くん…」
そこまで言って、先輩は口をつぐんでしまった。
「どうしたの…?」
優しく尋ねると、先輩は気持ちを正すように首を振ってから「ううん、何でもない」と笑って言った。
「ええっと、そしたら他にどこか心当たりはあるかな?」
自分のことなのに、自分でも“望くん”がどこに行ったか分からないという状況はあまりにも不思議だし、違和感がある。
「うーん…あとは行くとしたら学校かなあ」
「よし、じゃあ、行ってみようか」
さっきの上の空な表情が気になって、元気付けるように言ってみる。そして僕は彼女に右手を差し出した。それを見て小さな先輩はにっこりと笑って「うん!学校はこっち」と言い、僕の手を握った。そうしてまた僕の手を引っ張って学校へと歩き始めた。
◆
相変わらず静かな町を二人で歩いて小学校に辿り着いた。もちろん何年か前まで通っていた母校だ。
校門は閉まっていたが、先輩は馴れた様子で裏口へと進んで行った。ここから先の目的地は何となく分かっている。きっと、プールに向かうのだろう。
僕らは小学校の時、夏休みで校門が閉まっている時もこうして裏口から学校へ侵入してプールに入りに来ていた。あの頃の僕らはおかしいくらいに泳ぐことに熱中していて、時間さえあれば一緒に泳いでいた。
休みの日のプールはもちろん貸し切り状態で、二人の秘密基地のようで何だかとても楽しかった。
小さな先輩に手を引かれプールサイドに来たが、ここにも“望くん”はいないようだった。
隣を見ると、小さな先輩は不安に包まれたような表情をしていた。それは“望くん”が居ないことだけではなく、何処かに取り残されてしまったような、迷子のような女の子の表情に思えた。
「あーあ、ここにもいないかあ」
そう言いながらサンダルを脱いだ先輩は吸い寄せられるようにプールサイドに近づいていき、腰を掛けて片方ずつ水中に足を沈めていった。それはあまりにも自然な動きで、見ていた僕はなんだかそれに倣わなきゃいけないような気になってしまって、ズボンの裾を膝まで捲り上げて同じように水中に足を沈ませた。
プールの水は冷たくもぬるくもなく、というか、やはり温度というものを感じなかった。プールの中を覗くと、底なし沼のようにどこまでもどこまでも続いているように見えた。
「望くん、私のこと避けているのかなあ。だからどこか行っちゃったのかなあ」
突然、先輩がぽつりと呟いた。
「どうしてそんなことを思うの?」
「だって、最近よそよそしくなって、前みたいに話しづらくなっちゃったの」
「…どんなところが?」
「うーんとね…私のクラスまで遊びに来てくれなくなったし、廊下ですれ違ってもたまに無視するし…あと、前は私のこと“葵ちゃん”って呼んでいたのに、最近は“永山さん”って呼ぶの」
「そう…なんだ」
胸がどきりと鳴った。
今彼女が話したことは全て身に覚えのあることだったし、自分を守る為に先輩との関係をおざなりにしているような気がして後ろめたさを感じていたことも確かだ。
しかし、先輩がそんな風に感じていたとは思ってもいなかった。だって、僕がどんな態度をとっても先輩は変わらず笑いながら僕に接してくれていたから。今みたいな話は、一度も僕にしたことがなかったから。
「でも、私分かってるの。望くんが同級生の子にからかわれて、私と一緒にいる回数を減らそうとしていること。たまたま聞いちゃったんだ、廊下で。『望は"葵ちゃん"と一緒じゃないと、どこにも行けないんだろー』って言われているところ。だから、望くんも気にするだろうと思って気が付かないフリをしているの。…でも、でもさ、流石にいきなりいなくなっちゃったら、心配するに決まっているじゃない…」
そう話す先輩の目には、薄っすらと涙が溜まっていた。
「そのことは…望くんには言わないの?」
「言わない。私は望くんとずっと一緒に居たいから。仲が良いからって、何でも聞いて良いという訳ではないと思うから…だから、言わないの」
それは今の僕が聞いてはいけないような言葉だった。
先輩の隠していた僕への優しさをこっそりと覗いてしまった密やかな罪悪感が胸に広がる。なのに、それと同時にじんわりと暖かい何かも広がっていた。
僕は、昔から先輩はいつでも僕の先をすいすいと泳いでいるように思っていた。これからもずっとそうだと思っていた。
でもそれは、半分合っていて半分違うのかも知れない。
先輩が先に泳いでいるように見えていたのは僕が周りの目ばっかり気にしていてうじうじその場に留まっていたからで、先輩はずっと僕のことを見てくれていて、僕と足並みを揃えようとしてくれていて、本当はいつも手に届く距離に居たのかも知れない。
「えへへ、ああ、なんだかお兄さんに話聞いてもらっていたら、ちょっと気持ちがスッキリしてきたかも!」
そう言って、先輩はそのまま勢いよくプールの中に飛び込んで行った。優しく水飛沫が飛ぶ。
「えっ?!ちょっと?!
僕が慌てていると、ちゃぷん!と中から先輩が顔を出した。
「あはは、何だか水の中に入りたくなってきちゃって。気持ち良いよ。お兄さんもおいでよ、なんて…」
笑いながら話す先輩が眩しくて、僕も引き寄せられるようにプールに飛び込んだ。
一瞬見えた水の中は、いつも目にしている青色ではなく…この世界の空の色のような、ラムネのような青色だと思った。それから、トイレに行ってから戻ってこない高校生の先輩の顔が思い浮かんだ。
「お兄さん?!」
「はは…君があまりにも気持ちよさそうに水の中にいるから…つい」
「ふふ、でしょう。水の中にいるとね、心が落ち着くの。水が優しく包んでくれて素直な気持ちになれるの。…なんて、これ言っていたの望くんなんだけどね」
照れ臭そうに小学生の小さな先輩が微笑む。
「でも、泳ぐことと同じ位、望くんの隣も落ち着く。この先きっと喧嘩とかするかも知れないけれど、ずっと一緒にいれたら良いのに。…だから、どうしたらちゃんと昔みたいに、向き合ってくれるんだろうって考えるの。嫌われてしまったらどうしようって思うの」
「嫌ってなんかいないよ」
「…お兄さん?」
「嫌ってなんかいない。大切だから、そういう態度を取ってしまって…先輩の足を引っ張りたくないって思って…だから、決してそんな悲しい顔をさせたいと思っていた訳ではないんだ。だから…」
堰を切ったように言葉が溢れ出てきた。
それはただの自分勝手な言い訳かも知れない。だけど、昔も今も先輩には笑っていてほしい。笑っているのが先輩らしいから。そして、僕はそんな先輩の笑顔をずっと隣で見ていたいし、隣に居るのはいつだって僕でありたい。…こんなこと、先輩に直接言うのは恥ずかしすぎるから絶対に言わないけれど。
息を切らせながら話す僕を、小さな先輩が目を丸くさせながら見つめている。
「どうしてお兄さんが謝るの…?それに、先輩って?」
先輩が困ったように笑う。確かにこの世界では、先輩はまだ先輩になっていないか。それでも僕は先輩に向き合って続けた。
「僕は…僕は君が探している"望くん"だからだよ」
もう自分でも滅茶苦茶なことを言っているのは分かっているし、果たして目の前にいるのが本当に昔の先輩なのかも分からない。
ただ、どうしても伝えなければならない、という気持ちの方が遥かに強くなっていた。
「ふは、あはは」
突然、先輩が笑い出した。
「え、どうしたの…?」
「いや、ちょっとね、信じられないかも知れないけれど、今日お兄さんに会った時から未来の望くんが私に会いに来てくれたんじゃないかと思っていたの」
「え…?」
「だって、お兄さん、望くんにそっくりなんだもん」
「ああ…あははは…」
僕は気が抜けたように笑った。やっぱりいつだって僕は先輩に敵わないのだ。
「良かった…未来でも望くんが元気そうで」
「元気だよ…それで今でも先輩と一緒にいる。呼び方は変わっちゃったけど、僕も先輩の隣が心地良いし、ずっと一緒に居たいって思ってる」
「うん」
嬉しそうに、小さな先輩が返事をしてくれる。
「だから…ありがとう、葵ちゃん」
その瞬間、プールの底がぐにゃりと歪んだ感覚がした。下を見ると先程まで見えていたプールのラインが消えてなくなっていて、どこまでも深い青の世界が広がっていた。
気が付くと足には見えない何かが絡まっているような感覚がして、僕はどんどんプールの底へ底へと引きずり込まれていった。飲み込まれまいと必死にもがいたが、抵抗むなしく身体はプールに沈んでいく。
葵ちゃんは、と思い必死で辺りを見回すと、なぜか彼女の周りだけは穏やかな水面が広がっていて、そこで静かに僕を見つめていた。その表情はもがいている僕とは対照的に凪いでいて、だけど少しだけ寂しさが浮かんでいるように思った。
「ありがとう、望くん」
穏やかに葵ちゃんはそう言った。
その言葉を聞いてすぐ、僕はの身体は完全に水に飲み込まれた。
◆
目の前は清々しい位に綺麗な青色で、そして落ち着く程に静かな世界に包まれていた。
時々、泡沫が僕の前で踊っていた。
その様子を見て、僕はあのラムネの瓶に閉じ込められているようだと感じた。
◆
まず感じたのは纏わり付くような熱気だった。そして背中に微かな痛みを感じた。
ゆっくりと目を開けると、目の前には今にも泣きだしそうな女の子の顔がぼんやりと広がった。
先輩だ。
「よかったあああ、望くん、生きてたあ…っ」
先輩が大きなため息をつきながら僕の手を握った。
何のことだかさっぱりわからない僕は、そんな先輩をぼんやりと見つめることしかできなかった。
「あれ…先輩、トイレは…?」
「『先輩、トイレは?』じゃないわよ!私がトイレから戻ってきたら、ベンチでぐったり倒れていたのは貴方でしょう!何度も何度も名前を呼んでも目を覚まさないし…救急車呼ぶところだったんだからね!」
怒ったような呆れたような口調で先輩が一気に話した。
ふと、公園の時計を見ると午後四時を過ぎたところだった。先輩の話からすると僕は一時間ちょっとここで倒れていたということらしい。だとするとあの不思議な現象は僕の夢だったということなのだろうか。
少しだけ気が抜けて、ふう、とため息を吐いた。
「それより大丈夫?気持ち悪いとかない?」
「大丈夫…ごめん、心配かけて」
「本当だよ…こっちは望くんが目覚めなくて心配しているっていうのにさ。しかも最初はうなされてたから更に心配しちゃったよ」
「そ、そうなんだ…」
自分の寝姿を見られていたというのは何だか恥ずかしいものだ。
「でもね、望くんが起きるちょっと前位かな、すごい嬉しそうな顔で笑っていてね…一体あなた、どんな夢を見ていたのよ」
ああ、もしかしたら僕がこの世界で眠っていた時間、僕は本当に昔の先輩に会っていたのかも知れない。
あの世界でどんなことがあったか、話をしても先輩は信じてくれないかも知れない。だけどそこで起こった出来事は確実に今の僕にとって大切なものに変わりはないのだ。
「…秘密だよ」
「なによう、望くんのくせに生意気ね」
頬を膨らませながら先輩が立ち上がった。
「さ、もう帰ろう。望くん疲れてるんじゃない?帰ってちゃんと寝なよ」
「うん、そうする」
そう言って僕も立ち上がると、目の前で先輩がごそごそと鞄を漁り始めた。
「と、まあその前に、さっき買ったラムネもぬるくなっちゃってたから新しく買い直しといたよ。これ飲んでから帰ろう」
得意気に笑いながら、ラムネの瓶をずいと僕に差し出してきた。
青色の瓶越しに見えた先輩と重なって、さっきまで一緒にいた小学校の頃の先輩が見えた気がした。
あの頃から先輩も僕も変わったのかも知れない。
だけど、きっと変わっていないことも、お互いに気が付いていないことも沢山あるのだ。
そのことを、やっぱり僕は先輩から教えてもらった。
「ありがとう、葵ちゃん」
そう言って僕はラムネの瓶を受け取った。
ちょっとだけ照れ臭くって、下を向きながら開栓したら珍しく失敗して、瓶の先からシュワシュワとラムネが溢れて出てきた。
顔を上げると葵ちゃんが、楽しそうに笑っていた。
終わり
ラムネ色のプールサイド きき @rinaaa017
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