あの日の帰り道

棗颯介

あの日の帰り道

 夜の闇が静かに訪れ始めている。世界が儚く美しい赤に染まっているそんな時間。


 作業用トラック特有のオイルとも土塊とも煙草ともつかない独特の匂いが鼻につく。

 父の匂いだと思った。

 助手席の車窓から見える風景は、慣れ親しんだ故郷の街並み。街灯には白い明かりが灯り、まるで気を遣うかのように田んぼや空き地を挟んで立ち並ぶ家々の窓はぽつぽつと優しい光を発している。

 車窓に頭を預けていると、トラックの揺れが頭に殊更に響く。トラックという乗り物はどうしてこんなにも揺れが激しいのだろう。

 小さい頃から乗り物酔いしやすい体質の自分だが、どうしてか父が運転するトラックだけは不思議と酔うことはなかった。

 それだけ、小さい頃からこのトラックに何度も何度も乗せてもらっていたからかもしれない。


 子供の頃から自分は父が好きだった。

 背が高くて、力こぶは自分の3倍はあった。優しくて滅多なことで怒らない。自分がお願いをすると、なんだかんだと文句を言いつつも聞いてくれる。欲しいおもちゃも買ってくれたし、行きたいところがあれば仕事用のトラックでどこへでも連れて行ってくれた。

 強くて優しい父が自分は大好きだった。

 父と一緒にトラックで出かけるとき、いつも心躍っていた。


 いつからだろう。父とあまり話をしなくなったのは。

 中学校に上がってからだろうか。思春期特有の多感な時期だった。特に理由があるわけではないし不仲になったわけでもない。ただ、自分の喜びが家の中からではなく、家の外からやってくるようになったというだけだ。どこの家庭でもよくあること。

 中学3年生の頃だったか。いつも通りの夕食の時間におもむろに父が言った。


「お前、何になりたいんだ?」


 ありふれた子供の進路相談。

 自分は、ただの一言も言葉を返さなかった。

 父が嫌いだったわけではないだろう。ただ、将来とか進学とか就職とか、そういう難しいことをあまり考えたくなかっただけだ。

 父に何も相談もせずに、自分は黙々と粛々と高校に進学した。


 高校に入ってからも、自分と父の距離は縮まらなかった。

 父は昔と比べて少しだけ怒ることが増えた。

 自分が父と話をしないから。話を聞かないから。一緒に出掛けることもなくなった。


 大学に入るとき、父は何も言わなかった。

 ただ、入学の手続き、引越しの手伝い、実家の後始末。何も言わずにすべて手伝ってくれた。

 一人暮らしを始めてから最初の夜、少しだけ泣いたことを覚えている。


 大学を卒業して就職が決まった時、父は少しだけ喜んでくれた。

 父よりも喜んだのは自分の方だ。

 第一志望の会社に入れた。これで自分の人生は大丈夫だと、どうしてだろう。そう思い込んでいた。


 久しぶりに乗る父のトラックは不思議と心地よかった。

 車窓に流れる懐かしい地元の景色も、少々目立つほどのトラックの走行音も、運転席に染みついた父の匂いも。

 運転席に座る父は、何も言わずにハンドルを握っている。

 訪れている夜の闇のせいで顔ははっきりと見えないが、その雰囲気と見慣れた作業服は間違いなく父のものだ。

 今までろくに話をしていなかったが、どうしてか今は父に話したいことが沢山あった。


 ———ねぇ父さん。俺、大人になったよ。


 ———都会の生活はこっちよりも全然違うし知り合いもいないけど、でも、なんとかやってる。


 ———仕事は、まだ全然だけど…。


 ———だけど、俺は大丈夫。


 ———だから。


 ———だから父さん。


 ——————ありがとう。


 父はゆっくりとこちらを向き———。



 ▼▼▼



「——。起きてよ!!」

「——!目を開けて!!」


 ここは何処だろう。白く無機質な天井が自分を出迎える。

 やや遅れて、薬品とも草木とも何ともつかない、普段の生活には馴染みのない匂いが鼻腔に広がる。

 そして、聞き覚えのある声が鼓膜に響いた。


「——、良かった、目を覚ましてくれて……」

「もう、あんた何やってるのよ!!」


 声のした方に視線を向けると、そこには泣き崩れる母と姉の姿があった。

 そして、自分が病院のベッドに寝かせられていることに気付く。首がやや動かしづらい。思わず手で触れてみると、そこにはいつもの自分の首の感覚はなく、代わりにつるつるとした不思議な手触りだけがあった。


「母さん、姉さん。俺、どうしたんだっけ?」


 泣き腫らした目で姉が告げる。


「あんた、部屋で首を吊ったのよ!」


 首を吊った。

 姉にそう告げられ、酸素が不十分だった脳がようやくすべてを思い出してくれた。


 自分は、死のうとしたのだ。


 理由は、仕事が苦だったから。

 憧れていた職だったが、理想と現実のギャップに自分の心は日に日に疲弊していった。

 自分の力が通用せず、周りの足を引っ張るだけの毎日。

 ただただ辛かった。

 死んでしまえば楽になれると思った。

 だからそうした。

 そのはずだったのに。


「どうして俺は助かったんだ?」


 その疑問には母が答えた。


「警察の人もお医者さんも詳しくは分からないって言っていたけど、首を括ったロープが途中で千切れたおかげで助かったんじゃないかって」


 続けて姉が一言。


「きっとお父さんが助けてくれたんだね…」


 父が死んだのは2年前。自分の就職が決まったすぐ後だった。

 死因は仕事中の事故。

 突然のことに母も姉も自分も理解できなかった。目の前の現実が受け入れられなかった。唐突すぎる父との別れに、3人がどれだけの涙を流したことだろう。

 だから、自分が父の代わりにならなければと思った。

 必死で毎日働いた。

 大学時代あれほど好きだった酒もやめ、働いて得た金はできる限り家に入れた。

 もっともっと頑張らなければいけないと思っていたのに。

 どうして、こうなってしまったんだろう。


「ごめんね、私達が頼りないせいで、あんたにばかり苦労させて…本当にごめんね……」


 母と姉は、何度も何度も泣きながら謝る。

 何を謝っているのか分からなかった。

 すべて、自分が招いたことなのに。

 熱いものが両頬を伝う。

 どうして自分は泣いているんだろう。

 自分は、父さんになれなかった。

 あの汚れた作業着を着た大きな背中にも、浅黒くて傷だらけの大きな力こぶにも、自分はなれなかった。


 でも、それでもやっぱり俺は父さんみたいになりたい。

 大きな背中も、大きな力こぶも自分にはないけれど、家族を守れる強い男に。

 自分が生き延びてしまったのには、きっと意味がある。


 ここに帰ってくることができたことには、何か大きな意味がある。


 ふと、つい先程まで見ていた父との帰り道を思い出す。

 父が最後に自分に向けたのは、小さな頃と変わらぬ優しい笑顔と、短い一言。


 ———ゆっくり、大人になればいい。


 そして気付く。あの車窓の外に広がっていたのは夜が訪れる夕闇ではなく、朝日が昇る夜明けだったのだと。


 ———今だけは、泣いたっていいよね父さん。


 ———今も昔もこれからも、父さんと母さんの息子だもん。俺。

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あの日の帰り道 棗颯介 @rainaon

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