第5話
あたしは青い海を見た。どこまでも広がっていく青い水の色。あの青さが、見るものの眼が癒され、だれもがどんな悲しい思いを忘れて、どんな苦しみや痛みや傷も癒してくれたらいいのに、とあたしはつぶやいた。放っておくと自然に涙がこぼれ落ちそうになった。
あたしは水着の上に例のワンピース姿でしばらく砂浜で立ちつくしていた。まわりで若者がはしゃいで水遊びをしたり、女の子たちがかわいい水着姿で大きなシャチの浮輪につかまって泳いでいたりした。
砂浜を歩いている水着の男の後ろ姿に、彼の姿を見た気がした。懐かしい彼の背中。その彼の背中に、ナイフが8本刺さっているところを想像した。あたしは喧嘩したとき、よく彼の背中にナイフを刺す想像をしたものだ。いまそういう癖を思い出して、懐かしいと思った。トランプのスペードの8みたいな配列で、彼の美しい背中にナイフが深々と刺さっている姿を。ナイフはまるで彼の背中から生えているみたいに美しく刺さっている。彼は、彼に似ただれかは、そういうことにも気づきもしないで、すうっとした足どりで青く澄んだ海のなかに消えていく。長い脚が海のなかに沈む。彼は水のなかに潜った。あたしは彼がひとりで泳いだり、潜ったり、髪の毛から水を滴らせたりしているのをいつまでも眺めた。そんなあたしを見て、知らない女が不審そうに見てきたので、あたしは砂浜の岩のあたりの日陰になったところに隠れてからも、彼を見続けた。彼の背中ばかり飽きずにじっと眺めていた。そのうち彼の背中が右に曲がったり左に曲がったりしているのを見て、彼の背中の背骨の流れや形すらも覚えてしまった。小さな四角くて先がまるく尖った背骨の列。かれのまだたいして浅黒くなっていない肌の色に水の雫が滴って尻に向かって流れていく姿を眺めた。あたしの彼は死んで、あたしは彼からとり残されているのに、世界や海はそんなことには気づきもしないで、いつも通りまわり続ける。そのうち気づいたら彼が海から上がってどこかに帰ってしまって、あたしは眺めるものをなくしたので、ただ夕暮れの赤色に染まっていく海を見つめていた。赤や橙の光が海の水の上に広がっていった。寂しかった。それはそれで綺麗だったけど、あたしは本当は赤い海は嫌いだ。血の色みたいな海は綺麗に感じない。あたしのなかで海は、必ず青色じゃなければならないのだ。風が寒くなってきたので、あたしはそろそろホテルに帰ろうとした。まだ彼の黒い髪や彼の背中の肌の色を覚えていた。動こうとしたけど、身体じゅうが痺れていて、なかなか動き出せなかった。あたしは固まったみたいにその場に居続け、そこから固まったみたいに動けなくなってしまったのだった。身体じゅうが筋肉痛で痺れていた。あたしはそこまでしてなにを熱心に眺めていたのだろうとひとりで虚しく笑った。空笑いする声が、すぐに海辺の砂浜に落ちて消えた。
ホテルに帰った。帰る途中に、外装の煌びやかなホテルのなかの大きな光輝くシャンデリアを一瞬通り過ぎるときに見た。あたしは涙を流した。なんて美しいんだろう。あたしたち二人でこういうの、見たかったね。あたしはひとりでつぶやいていた、あたしは泣きながら歩いた。知らない街で、たった一人で、あたしは泣いていた。心細かった。だれも助けに来てくれなかった。だれ一人として知りあいはいなかった。あたしも、泣くことくらいしか思いつかなかった。あたしはただ、泣きたかった。あたしはここにいつまで居続けることができるのだろう。あたしはいつまで生き続けることができるのだろう。すべてが不安で、心配で、しょうがなかったけど、あたしはホテルに帰った。あたしはホテルのベッドの上で、まるで死んだように深く眠った。本当に、死んだのではないかという気がして、もう二度とあたしは瞼をあげることは、もう二度となかった。
海 寅田大愛 @lovelove48torata
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