第4話

どうして彼は死ななければならなかったのだろう。そうしてそれがあたしではなく彼だったのだろう。

でもあたしの耳の奥で聞こえるのは、打ち寄せる波の音ではなく、まだ冬の日の窓を叩く白い吹雪の音がごうごうと鳴り響いている音だった。彼のいた雪の国。彼の死んだ雪の国。旅をして身体は南の地方にまでやって来てしまったけど、あたしの心はまだ雪の国にいる。眼を閉じれば、いまもまだ雪の積もった真っ白な山の様子や、氷柱の伸びるかすかな音や、だれかが霜を踏む音が聞こえる気がする。

あたしもできればずっと白い肌のままでいたい。日のあまり照らない冬の国にあたしはいつまでも閉じこもって死ぬまで日に焼けることがなかったらどれだけよかっただろう。雪でできているかのように白かったあたしの身体。あたしの肌が日に焼けることが来る日なんて、だれが想像できただろう。

色だけは雪にも似て見えるのに砂は全然雪には似ていない。あの砂浜が本当は、積もった白い雪だったらどんなにいいだろう。あの海が、白い雪山を水鏡のように映す深々とした青い湖だったとしたら、どんなにいいだろう。でも砂浜は熱くて、海は確かに海で同じ青色でも湖ではないのだった。

その間にあたしにとっての大事な人間を失った。あたしは別にこの南の国に遊びに来たわけではない。昔風の言い方で言うなら、島流しに遭ったようなものだ。もうあの雪の国にはあたしの居場所はどこにもないから、この地に送られてきたんだ。ひとりは、あたしの彼。雪の国で生まれ雪の国で育ち、雪の国で死に、雪の白い大地には彼の魂が眠っているであろう、雪の国の男。真っ白な肌で、真っ黒い眼をした、賢い男だった。小鹿のような黒い眼を潤ませた、優しくて大きな男だった。決して荒々しくない長くて太い指や、うすい耳たぶの後ろの匂いや、硬い髪の匂いや感触や、つるりとしているけどしっとりと湿った肌や、まっすぐな腹や、長くてしっかりとした足や、彼の浅黒いあれが懐かしかった。硬くなって、甘かったり苦かったり痛かったりたまらなく気持ちよかったりするあれのことを思い出すと唾液が出てくる。恋しくなってしまう。いくらでも果敢に挑んでくる彼のことを思い出すと背筋がぞくぞくしてくる。あたしは彼のああいうわかりやすい男らしいところがとても好きだった。彼は最初はたまに会ってセックスしてくれるだけでいいと言っていたのに、あたしに自分のところにも会いにきてくれることを要求し、情熱的にあたしを愛し、巧妙にあたしの身体と心を捕らえて離れなくさせ、ついにはあたしの口からあたしの彼になってほしいと懇願させてしまった、あの男。あの男ははじめからあたしを完全に手に入れるつもりだったのだ。あたしは彼の企みに、まんまと引っかかってしまって、手に入れられてしまったんだ。いくら抗っても、巧みに捕えられてしまう。あたしは彼から逃れられない、それに気づいたとき、あたしは鳥肌が立った。その幸せな確信と言ったら! 彼はあたしを凌駕した。あたしはうっかり彼という存在を赦してしまっていた。あたしは気づかないうちに、あたしの心はすでに彼のものになって彼に囚われてしまっていた。囚われてもいいと思ってしまっていた。求められ欲せられ愛され、あたしの心と身体をすべて手に入れて自分のものにしてやると彼に果敢に挑まれると、あたしは彼のものにされてしまいたいと身体を熱くしてしまうのだった。

あの暗がりであたしを見る黒いまっすぐな眼差しも好きだ。暗がりであの眼をした彼と眼が合っただけであたしは恍惚感で満たされ、同時に涙が滲んできた。いつも身体を赦すまえから襲ってくる野獣のような彼といつまでも一緒にいたかった。あたしはもう男は生涯で彼一人でいいと、本気でそう思っている。彼以外の男は、あたしは男には見えないだろう。また彼に求められたい。

あの日のように、あたしと彼が雪の上を転がるみたいに倒れて抱きあっても、あたしひとりしかいない砂浜はあたしたちの背中を湿らして優しいベッドのように受け入れてくれることもなく、ただ死んだ砂漠のようにさらさらしていて、背中を当てすぎると火傷を負わせるくらい攻撃的で、どこまでも乾いているのだろう。雪の上に寝転んだ彼の頬の上に粉雪のひとひらがふんわりと舞い降りてきて、彼の頬の上で優しい雪は体温で溶けてわずかな水の雫となって消えるのだ。あたしが手を伸ばしても、白い砂は乾いた味気ない砂でしかなくて、優しい積もった雪ではないのだった。砂浜の上に座りこもうとしたけれど、あまりに熱されすぎているので、あたしは我慢して歩き続けた。砂はもともと好きではない。口に含めば、じゃりじゃりと嫌な感触がし、変な不味い味がして、柔らかくもないし、優しくもないし、溶けもしないし、甘くもないからだ。雪は美味しい。

彼は死んだ。


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