第3話
倒れてしまいそうになるほど暑いから、あたしは小さな見るからに安値で提供してくれそうなホテルに入った。目立たない小さな貝殻色のホテルに入ると、冷房が中途半端に利いていて、埃と海と汗と白い砂浜の匂いがした。フロントにはアロハシャツを着た女の受付係がいて、あたしは一部屋を借りて、鍵を受けとった。金髪に染めた大柄な女は、笑いながらぎこちない言葉遣いであたしに部屋の使い方の簡単な説明をした。明るそうで大雑把で姉御肌な性格なんだろうなと直感した。たぶん外国人なんだ。いくら焼いても赤くなるだけで黒くならない白い肌にあたしは親近感を持った。あたしの肌は彼女と違ってたぶん近いうちに真っ黒になるんだろうか。日に焼けた記憶がないからわからない。あたしは鍵を持って狭い白っぽい灰色のエレベーターに乗った。汗くさくて、動きの遅い、軋んだ嫌な音を立てる古びたエレベーターだった。ところどころなにかで擦ったような跡や傷が入っているところやポスターかチラシを剥がした跡のようなセロテープの醜い跡が壁に残っていた。飾り気のない汚らしい年代もののエレベーターだった。あたしは一瞬、業務用というか、間違ってホテルの従業員専用のエレベーターに乗ってしまったのではないかと思ったほどだった。あたしを乗せて運ぶ途中で故障して止まって動かなくなってしまわないか、はらはらした。他のところはある程度奇麗なのに、どうしてエレベーターだけがうす汚れているのか、それはなぜなのかはわからなかった。
無事にエレベーターから降りて、あたしは廊下を歩いて部屋に向かった。部屋の鍵を開けて扉を開けた。あたしの部屋は開放的な印象のする、海の見えるところだった。入ってすぐに、大きな窓の向こうに青い海が広がっているのが見えた。青い海。ベランダはなくて、窓を開けたらすぐに、身を乗り出しすぎたらそのまま海にまっすぐに落ちてしまって投身自殺できそうな錯覚を起こして、身体が震えた。あまりにも広すぎる海と、ごみみたいに小さなあたしの身体。白い砂浜も見える。あたしは荷物をシングルベッドの上に置いて、お風呂場に行った。歩くと火傷している足の裏が痛んだ。扉を開けると、狭いけどユニットバスで、トイレと浴室が同じ空間にあった。造りは古いけど小奇麗にしてあった。あたしは服を脱いで、服を便座の蓋の上に置いて、白っぽくくすんだ銀色の蛇口をひねってシャワーを浴びて、石鹸と備えつけのタオルで身体を思い切り洗った。やっぱりひどく汚れていた。鏡に裸を映してみたら、酷く痩せていた。おそろしく髪がぼさぼさで汚かった。肌も愕然とするほど、日に焼けていた。いつの間にこんなに日に焼けたのだろう、と恐ろしくなった。再び水着を着てワンピースを重ね着した。身体は久しぶりにすっきりと清潔になったので、足の裏が濡れたままベッドの上にあったビニールバックを持ってきて、自分の下着と着ていたすべての服を浴槽に水を張って浸けて石鹸で丁寧に洗った。顔を近づけて垢の匂いではなく石鹸の匂いがしてくるまで何度も洗った。栓を抜いて汚れた浴槽のなかを手でこすり落としてシャワーで丁寧に洗い流した。ブーツを洗うのをためらった。革製だったからだ。結局洗わないまま、洗濯したものと一緒に窓際に並べて置いた。床の敷物に濡れて軽い染みができた。天気がいいからそのうち乾くだろう。あたしはベッドの上に乗って仰向けになって天井を見ながらゆっくりと息を吐いた。ベッドは軋みながらあたしを受け止め、なかに入っているスプリングが身体を下から押し支えた。真っ白いシーツは、整えられ、糊が利いていて、清潔そうだった。天井はごく普通の天井で、地味だった。あたしはすぐにこの特徴のない天井のことを忘れてしまうだろう。部屋にはエアコンが利いていて、涼しい風が室内を流れて巡っているのがわかる。長い長い旅だった。
あたしは一人でベッドの上に座ったまま、自分の腕で自分の身体を守るように抱きしめたまま、うつむいて、気がついたら泣いていた。立ち上がって、黙ってエアコンのリモコンでスイッチを切って、涙を手の甲でぬぐった。ベッドの上に座って眺める窓の外に見える海は、あまりにも広かった。
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