第2話

砂浜の上には、白髪の太った老人が、水着を着て金色の腕時計をつけて砂浜に簡易ベッドを置いてその上に寝転がって雑誌を読みながら日を浴びていた。白いハムか白い老犬が日向ぼっこしてお昼寝をしているみたいだった。水着姿の男女がサンダルを履いて浮き輪を持って並んで手を繋いで歩いていた。女は長い黒い髪に赤い大輪の花の髪留めをつけていた。女の隣にいる恋人であろう男が、彼女のために買って与えたのだろうか。女によく似合っている。男女ともよく鍛えられた美しくたくましい身体をしていて、それらを惜し気もなく晒して、見せつけるように歩いていた。あたしは汗や脂でうす汚れた自分の髪を触った。こんなに頭がくさくなるまで洗わなかったことは、今まで一度もなかったのに。もうずいぶん洗っていない。あたしの黒髪が焼ける音がする。あたしは長い自分の旅を思い出していた。あたしは今晩泊まるところを探さなければならない。この砂浜の近くのどこかに、なんらかのホテルは見つかるだろうと思って、あたしは砂浜から眼を上げて歩き出した。空が濃い真っ青で、射るように光る太陽に、あたしはいまにも貫かれて殺されてしまいそうだと内心怖くなった。あたしはなぜか今日まで、太陽はもっと弱々しいものだと思っていた。あんなに恐ろしく輝かれてはたまらない。浴びているだけで皮膚癌になってしまうほどの致命的な太陽の光線を長い間受けていたくない。あたしを睨み殺そうとしているような強すぎる太陽から、あたしは早く隠れてしまいたかった。

ホテルやビルなどの建物がいくつか見えてきた。オーシャンビューなんとかいう名前のいちばん大きなホテルは明らかに高級そうだったので、あたしには無理だとすぐにわかった。その近くにいくつか立っている安いぼろいところであたしには充分だ。長袖をまくって、長い丈のズボンを履いて、大きなぼろぼろのかばんを背負って、うす汚れた姿で、両手にブーツを持って掲げたまま、足だけビーチサンダルを履いた、砂浜では完全に異邦人のような姿をした謎の旅人であるあたしはそそくさと砂浜から去った。アスファルトの上を歩いていても、ビーチサンダルのなかにいつまでも細かい白い砂の粒子が残っているのがひどく気に入らなくて、何度も足を揺すったり振ったり足の指を開いたりいろいろしても全部とりきれないので、苛立った。いつまでもしつこくまとわりついてくる砂は、この地方の地面からふつふつと沸きあがるような暑さと同様、あたしは好きになれないと思った。足の指の間に残る砂が気持ち悪い。舌打ちしながらあたしは何本もの陽炎のゆらゆらする灰色のアスファルトの上を汗だくになりながら歩いた。冬のストーブの上に陽炎が出ることを知っていたから、陽炎のことは見たことがあったから、地面で揺れているそれを見たとき、これが陽炎なんだろうとすぐにわかった。向こう側が歪んで見える。陽炎が大量に発生しているせいなのか、汗が眼のなかに入ってきて涙のようになって視界が滲んで見えるせいなのかどっちなのか判別しづらかった。奇麗に着飾った清潔そうな涼しそうな身なりをした若い女の子たちがあたしのみすぼらしい姿を指差して嬌声をあげて笑った。地元の子だろうか、それとも観光客だろうか。それすら判別できない。あたしはあんな子どものように半裸同然の水着姿になるのは、抵抗があった。この地ではだれもがそういう姿でうろついていると知っていても、あたしは水着姿ではこのあたりをうろうろできないと思った。あたしは水着姿になるには臆病だった。あんなに開放的に大胆にはりきって水着姿にはちょっとなれそうにない。いつか近いうちにはあたしもそんな風になれるのだろうか。あたしは赤や青や緑のいろいろな色のビーチパラソルだらけのちょっとした街に入って、控えめな安い水着を買って、丈の長いゆったりした涼しそうな素材のワンピースも買った。安心できるちゃんとしていない試着室もしかないような店だったので、あたしはトイレを借りて、そこで着替えた。古い服は持ってきた大きな鞄に丸めて入れた。汗や脂や垢の匂いがひどかったけど、これも捨てていくつもりにはなれなかった。古い布製の鞄とブーツを、水をはじく大きなビニール製の透明なビーチバッグに入れて提げた。もうこれであたしはまわりの人と変わらない姿になった。あたしのことを場違いだと言って笑う人はいない。あたしは涼しくなった身体のまわりを吹き抜ける生暖かい風のなかに潮の匂いをかいだ。白い街並み。道行く人たちの汗。いつまでも眺めていると、そのまま吸いこまれて青すぎるなかに落っこちて溺れてしまいそうになるような空。首が痛くなるくらい見上げていると馬鹿みたいだとまわりの人から思われてしまいそうだし、頭痛がして眩暈がしそうになった。空と同じくらい青くて、波打つ音が静かに聞こえる大きすぎる海。あまりにも広すぎて、どこまでも広がって行き過ぎて、ちっぽけなあたしの身体ひとつなんか、すぐに海に巻きこまれて飲み込まれて消えてしまいそうになって不安になるから、直視するのができないくらい恐ろしい。ここではどうして太陽も空も海もあんなに恐ろしいほど強力な生命力で以って存在を主張しあんなに輝いているのだろう。

あたしは今日はじめてここに来て、生まれてはじめて本物の海を近くで見た。あたしは恐れ慄きすぎて、海の水に手だけで触ることくらいしかできなかった。海水は焼けてひりひり痛む肌に滲みてまた痛かった。海の水すらあたしを傷つけようとする。海水は乾いたあと、皮膚の上で白く固まって剥がれた。海水が剥がれたあともまだ生臭い水のような磯くさい匂いがした。あたしは水泳がまったくできないので、急に海に突き落とされたらどうしようと思うと足が勝手に震えていた。海には鮫がいる。水母がいる。水死者の霊がいる。大波が来る。海のなかに入って、身体の汚れを落とそうかという気にもならなかった。海に足を浸すことすらためらってしまうだろう。海に足をつけたら、波にさらわれ、すぐに溺れそうになり、海からだれかの白い手が伸びてきて、あたしを海底に引きずりこもうとするかもしれないからだ。あたしは臆病なんだ。首の後ろが日に焼けてすでに痛い。あたしは安そうなホテルがないかを眼をぎらぎらさせながら探した。屋台がいろいろな食べ物を売っていた。喉が渇いたから、毒々しい色の砂糖水を買って飲もうかと思ったけど、やめておいた。あたしがもといた雪の国には、あんなものは売っていなかった。飲んだら喉が焼けるほど甘くて頭が痛くなって気分が悪くなりそうだ。おしるこやぜんざいのように甘い飲み物も雪の国にはあったけど、あんなに身体に悪そうな派手な色をしていなかった。もっと素朴だった。この南の国は、なにもかもが雪の国とは違う。だからあたしはここに来た。

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