第30話 企画展「浮世絵の中の街並み」②
ミカと嗣道は事務所を離れ、企画展示室へと向かった。
「それにしても企画展、間に合ってよかったね」
「……実はこれも龍ヶ崎のおかげだ」
ミカは最近知った嗣道と世界的富豪、龍ヶ崎弦儀のつながりを思い出しながら目をぱちくりとした。
「え? そうなの?」
「そうだ。宮前が、目玉の展示物に保険が下りなかった、と言っていただろう?」
「そうだね、宮姉ぇはそれでとっても困ってたよ」
海外の博物館、美術館から資料を移送するには、莫大な保険が必要となる。
戦前は国内の複数の館で巡回展示をすることで保険の負担を分割したりと工夫することもできたが、現代においては地球博物館のみが海外からの資料を受け入れられる規模を保っている。
「戦前は保険が払えずに展示の質が下がらないようにと、国の補償制度もあった。だが、戦中・戦後とその制度が有名無実化された。保険会社も基本的には美術品の保険などという仕組み自体を忌避する動きもある」
「世間的には、美術品の移動に高い保険金を払うこと自体が良く思われないもんね……」
ミカは遠くを見るような目でこれまでの経験を思い出した。
荒れ果てた現代において、文化的な活動などというものは優先度が極端に低くなっている。
「ああそうだ」
「それで、その問題を解決したのが龍ヶ崎なの?」
「ああ。あの人が今回の保険を請け負ってくれた」
ミカは嗣道の言葉に驚いた。
「えっ! 個人で!?」
そのこと間に嗣道も深く頷いた。
「ああ、そうなんだ。……ある程度は払い戻しもあるのだろうが、それでも莫大な金額だ」
実際に企画展を担当したことのないミカには、周りの人の言葉から想像することしかできなかったが、それでもとてつもない金額なのだとは分かっていた。
嗣道は重ねて、ミカにある実例を示した。
「……半世紀ほど前、この国の大手マスコミが金を出し合って展示会を開こうと企画したことがあったが、その当時テロが何度も発生していたことで保険金が莫大になって大手マスコミですら金が払えなかった、ということがあった」
ミカは「マスコミ」と呼ばれる事業が戦前世界において特に大きい予算を動かしていたことを知っていた。その売り上げ規模は小国の国家予算ほどだったともいわれている。
そんなマスコミがいくつか集まっても払えなかったほどの金額とはいったいどれほどだったのか。
「そんなに大きい金額を……」
「もっとも、具体的な金額は聞いていない。欧州の老舗保険屋と、龍ヶ崎の間でのやり取りだからな」
(……どうしてそんな金額を払ってくれたんだろう?)
ミカは嗣道の話を聞いて疑問に思った。
その疑問を感じ取ったわけではないのだろうが、嗣道が続けた言葉はミカの疑問の答えになった。
「龍ヶ崎が言うには、ミカ、お前のためなんだそうだ」
「えっ!? 私のため?」
「ああ」
嗣道はきょとんとした顔をするミカを見ながら、龍ヶ崎の言葉を思い出していた。
―――数日前、鉄道高架下の小さな酒場。
贋作事件の後、嗣道は再び龍ヶ崎と密会していた。
先に到着していた嗣道がカウンターでグラスを傾けていると、ハットを目深にかぶった男が酒場の中に入ってきた。男が帽子を脱ぐと、その下からは厳めしい顔が現れる。
世界的富豪、龍ヶ崎本人だった。
そんな龍ヶ崎は嗣道と目を合わせると、あいさつもそこそこに嗣道に尋ねた。
「あのお嬢さんはどうしたかね?」
嗣道はグラスを置き、その質問に答えた。
「ああ。寄贈を受けた『例の資料』をよく調べている。現代美術はあの子に教えてなかったからな」
その言葉に龍ヶ崎は一つ頷いた。
「そうか。……まぁ、時間がかかってもよいのだ。作品にとってもっともよいように保管なのか、展示なのかしてくれれば」
どうやら先の質問はまだ展示されていないことについての咎めではなかったらしい。むしろゆっくりと調べて、大切に扱われることを願っているようだった。
「ふふっ……」
嗣道は龍ヶ崎のその言葉に小さく笑った。
「何がおかしい?」
「たぶんあんたの想像よりは早く展示されるだろうさ」
「ほう? 展示スペースが空いていると?」
龍ヶ崎も地球博物館の事情は理解していた。
日本各地で打ち捨てられた資料を何とかかき集めた地球博物館日本分館はいまだ整理しきれていない収蔵品であふれかえっている。
何とか整理できた資料から展示していても、戦災に遭った施設の展示スペースは設備面からの修理も必要で開放できている展示室も限られているのが実情だ。そんな中で、実績もない学芸員の、テーマの流れも決まっていない作品が展示できるだろうか。
そこまで理解して、龍ヶ崎は時間をかけてじっくりと取り組むように望んだのだが。
「あの子は今、各分野の学芸員と交渉して、展示スペースを融通させようと交渉している。もちろん無理に作品をゆがめたりはしない。適切な場所を周囲の仲間を巻き込んで検討している」
「ほう、そこまで熱心に……」
龍ヶ崎は感心したようだった。
その様子を見ると、嗣道も鼻が高くなる思いだ。口角も小さく上がり、くく、と小さく笑いも漏れる。
「あんたの鼻をすこしでも明かせたのは気分がいいな」
「その熱意が持続することを祈ろう」
「ああ」
そんなやり取りの後、龍ヶ崎が少し腰を浮かせ、座りなおした。嗣道は龍ヶ崎が本題を告げようとしているのだと察した。
今回の密会のきっかけは龍ヶ崎からの連絡だったからだ。
そして嗣道が身構えると、龍ヶ崎は思わぬ言葉をつぶやいた。
「さて。……時に企画展の計画はうまく進んでいるのかね?」
「む……」
龍ヶ崎の問いに嗣道はすぐに返答できなかった。
実際のところ企画展の準備は思うように進んでいなかった。
当初の想定に比べ、年々保険関係は厳しくなり、海外からの作品の移送が難しくなっていた。
ミカにはまだ伝えていないことだったが、地球博物館の収蔵品であり、日ごろ政府から塵芥と同等に扱われている国宝でも、一度国宝と指定されたものが損壊すれば、それを口実に戦争が再開されかねないのが現在の世界情勢だ。
そのような物品の保険を引き受けたいと思う保険会社が世界にあるだろうか?
そこまで考え、嗣道は龍ヶ崎に告げた。
「身内の恥をさらすようだが、順調ではない。だが、開期には間に合わせる」
「ほう……。保険の引受先がなくて困っているという話だったが、解決したのかね?」
龍ヶ崎の情報に嗣道は内心驚き、ここまで知られていれば、両手を上げるよりほかになかった。
「降参だ。よくその情報を知っていたな。……いや、保険会社から漏れたか」
「情報源の秘匿は、基本なのでな、詳細は語らんよ。……そのうえで、だ」
嗣道は龍ヶ崎の言葉に耳を傾けた。
「その保険、私が肩代わりしてもよいと思っている」
嗣道は思わず龍ヶ崎の方を見た。
「正気か?」
龍ヶ崎は嗣道の言葉に朗らかに笑った。
「ほっほ。正気か、と問われるとは思わなかったぞ。ああ、もちろん正気だとも」
「理由はなんだ」
「ふむ、お嬢さんの頑張りへの報酬、とでもしておこう」
「なにかほかに理由があるのだろうが、喋らないつもりだな……」
嗣道はこれまでの龍ヶ崎との付き合いからその性格を熟知していた。
顎に手を当ててすこし考えつつ、ため息を一つつく。
「……あの子には、頑張るように伝えよう」
その言葉に龍ヶ崎はいつもの厳めしい顔のまま、かすかに口角を上げて頷いた。
「ということがあった」
「……そうだったんだ。というか、嗣道が時々夜中に出歩いているのは、そういうこと?」
ミカはこれまで嗣道が秘密にしてきた行動を初めて知った。
「ああ、今まで黙っていたが、そういう夜もある」
そんな話をしていると、二人の目の前には企画展示室の扉が見えた。
そこでいったん立ち止まり、嗣道がミカの方を向いていった。
「そうだ、ミカ」
「なに?」
ミカも同じく歩みを止めて、嗣道の顔を見上げる。
「龍ヶ崎のことは、他の職員には秘密だ」
ミカは納得している表情で、頷いた。
「うん、たぶんそうかなって思って、誰にも言っていないよ」
「ああ。これからもそうしてくれ」
嗣道も、ミカのことを信頼していたのだろう。
それ以上のことは言わなかった。
「大丈夫、口は堅いつもりだよ」
嗣道は頷きながら、企画展示室の扉を開いた。
「うわぁ。この前来た時よりも展示が進んでるね」
「ああ。さすがに汚損を避けるために展示物は仮状態だが、キャプションや稼働壁の準備は進んでいるな」
そんな二人の様子を、展示室の中央でくるくると動き回っていた学芸員宮前が見つけた。
「お? ……ミカちゃん! 嗣ちゃん! よく来たね!」
宮前は手を振って二人を呼び寄せた。
「宮ねぇ、お疲れ様。……どう? 順調?」
ミカはパワフルに動き回っている宮前の顔をまじまじと見た。
普段ゆるふわな様子を見せている彼女がパワフルに動いているのを見ると、ミカとしては働きすぎていないか、心配になる。
「大丈夫だよミカちゃん! 良く寝れているから! むしろ家よりいい睡眠がとれてるかな!」
たしかに、宮前のいうとおり、その表情に陰りはなく、むしろつやつやとしている様子だ。しかし、同時にミカにとっては聞き捨てならない言葉があった。
「えっ……宮ねぇ、どこに寝てるの?」
家よりいい睡眠がとれる、ということは、家では寝ていない、ということだ。
(忙しいのは知ってたけど、ホテルでも泊まってるのかな? 高いのに……)
ただ、事実はミカの予想を超える内容だった。
「ん? ここだよ」
「ここって、……地球博物館の、宿直室とか?」
「違う違う、本当にここだよ」
宮前がそういいながら、企画展示室の床を指さした。
「……まさか企画展示室の床で?」
「寝袋は使うけどねぇ……。作品と一緒に寝られるんだから、安眠間違いなしだよねぇ」
ああ、この人も一般とは違う種類の人間だったとミカは認識を改めた。
「まあ、忙しいのは分かるが、たまには家に帰るんだぞ」
嗣道は驚きよりも呆れの強い声で、宮前にそういった。
「ご両親も心配するだろう」
「大丈夫、大丈夫」
宮前は実家暮らしだとミカも聞いたことがあったが、どうやらこんな仕事の仕方をしていても、文句は言われないらしい。
「宮ねぇ、本当に気を付けてね」
「心配してくれてありがと~。ところで、ミカちゃんたちはどうしてここへ?」
「ああ。警備も担当するからな、配置や、気を付けるべき点がないかどうか、調べに来た」
嗣道は、ミカたちが来た理由を答えた。
その言葉に、宮前も頷く。
「そっか、ありがとね。一応、各ブースには人を配置する予定だけど……」
「宮ねぇ、今のところ、変な問い合わせとかはない?」
ミカがそう尋ねると、宮前は少し考えるように空を見た。
「うーん、そうだなぁ。怪しいのはなかったと思うよ。……あ、でも、珍しいといえば、ある小学校が団体で今回の企画展示を見学したいって連絡があったよ」
「えっ、それってすごく珍しいよね!?」
ミカは宮前の言葉に驚いた。
世間から博物館は無駄なものだと言われる現代において、戦前はよくあったという学校単位での博物館見学など、伝説上の扱いにまでなっていた。
「そう! とっても珍しいんだよ、ミカちゃん。私も経験したことないし……。だから戦前も学芸員をしていた先輩たちにも話を聞いて、団体受け入れのノウハウを教えてもらってるところなんだよ~」
ミカは宮前の言葉に素直に目を輝かした。
「今は博物館に行ったことがないって子がほとんどなんだもんね。でも、一度来てみたら、博物館の面白さがわかるようになるよ!」
「そうだね、ミカちゃん。だから私も張り切って、いま子供向けの案内も並行して作ってるんだよ~!」
宮前とミカはこれまであまり博物館に縁のなかった子供たちがやってくるということで、盛り上がった。
それを見ていた嗣道も、少しだけ、笑みを浮かべる。
「そうだな。小学生たちにとっても、我々にとってもいい機会になる」
「楽しみだね、嗣道!」
ミカは企画展示が楽しみになった。
「それならば、いつもよりもしっかりと見回りをしよう」
「そうだね!」
「ミカちゃんと嗣ちゃんが見てくれたら百人力だよ。なにか警備上危ないところがあったら言ってね」
そんな宮前の声に背中を押されて、嗣道とミカは企画展示室の中を回り始めたのだった。
CEPS(地球博物館 文化財緊急保護チーム) 物書きになりたかった学芸員 @Gunmo556
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