エピローグ

 夜の渚市の駅前は人が行き交っていた。駅前には渚市で一番大きな飲み屋通りがあり、人の流れは主にそこに流れ込んだり出てきたりしていた。人々は声を上げて笑ったり、ぐだぐだの足取りで今にも転びそうになっていたり。皆どことなく赤ら顔で幸せそうな表情である。

 今日は週末の土曜日だった。月末なこともあって、給料が入ったばかりの会社員たちがこぞって飲み屋に入っているのだ。

 夏真っ盛りの熱帯夜だったが酔っ払いは元気である。

 みな日々の憂さを晴らしている。それぞれがそれぞれの日常で溜まったなんやかんやを酒でなんとか消そうとしているのだ。

 まぁ、場合によってはその憂さ晴らしの場こそがなによりの憂さになるのだろうが。

 飲みたくない人間と飲む酒はまずいものだ。

 そんな悲喜こもごもが溢れかえっているのだろう。

 そんな風な夜の街。子供には用のない大人の空間。

 その一角、一軒の飲み屋。海鮮居酒屋『弥次郎兵衛』と看板の上がった店。

 中は満員御礼でやかましい会話、もとい楽しそうな会話で溢れていた。しかし、客席が個室になっているこの店は客が互いの言葉が聞こえなくなるということはない。

 誰の目も気にせずのんびり料理を楽しんでもらうというのがこの店のモットーである。

 その個室のひとつ。

「天淵は裁判は難航するようです。当然ですが、どうも今回以外にも汚いことを色々やっていたそうで、余罪の追及に時間がかかるそうですね」

「はっ、あんだけのことしたんだ、俺の人生もめちゃくちゃにした。許さねぇ。洗いざらい全部やって欲しいぜ」

 会話をしているのは四島とそれに向かい合う席で陽毬、そして陽毬の隣りに紅葉が居た。

 3人はここで祝勝会を開いているのだった。

 天淵が起こした事件から2ヶ月以上が経過していた。あらかた事後処理も済み、四島の怪我の快方を待って祝勝会が開かれたのだ。四島の怪我は肩の脱臼、足は骨折だった。肩の方はもう概ね問題なく、足の方も問題なく歩けるまでに回復していた。

 四島と紅葉は日本酒、陽毬はまだ未成年なのでコーラだった。

 ようやく全ての片が付き、こうして3人でお互いの働きを労っているのだった。

「まぁ、間違いなく一生塀の向こうでしょう。いい気味ですよ」

 四島はいつものように無表情だが、宙空を見つめ留置所にぶち込まれている天淵を思っているらしかった。

 事件の黒幕、金甲警備保障渚支所部長『天淵桐也』は警察に引き渡され沙汰を待つ身となっていた。

 先の事件は怪異によるテロ事件として日本中を震撼させていた。ふた月経った今でもお昼のワイドショーはこの事件を取り上げている。怪異を用いたテロ、それだけでも前例の無いとんでもない話しだ。迅速な怪異狩たちの働きにより死者こそ出なかったものの、怪我人は多数。建造物等の損壊もかなりの数になっていた。

 そして、何よりのこの事件の目玉はその首謀者が日本有数の大企業、金甲警備保障の重役だったということだ。それをネタにして世間はあることないことを取り上げ盛り上がっていた。

 金甲警備も評判も下がりに下がり、事件は広くあらゆる方向に影響を及ぼした。

「まぁ、騒ぎも段々落ち着いてきましたがね」

「いつも仕事に集まる野次馬と同じです。遠くからなにかのイベントみたいに盛り上がって終わったら何事もなかったかのように去っていく」

 紅葉は皮肉った。

 紅葉の前には冷酒がひとつ。これが14杯目である。

 四島はそれとなく紅葉の様子をうかがう。顔色に変化はない。ちなみに四島は3杯目で顔が赤くなっていた。

「まぁ、いつものことですよ。新聞も怪異狩が身柄を拘束、としか書かいてませんでしたね。私たちは世の中から見たら裏方です」

 これだけの事件だったが、事件当初のニュースでは『天淵桐也の身柄は怪異狩が確保したのち警察に引き渡された』というようなことしか書かれていなかった。

 『朱の紅葉』の名も、国際会議場で行われた死闘も書かれてはいなかった。

 強盗犯を捕まえた警察の名前が出ないのと同じだ。

 紅葉がどれほど凄腕でも、大きな怪異狩のくくりにまとめられてしまうのである。それがこの世の中だった。

「『白峰の霊鏡』って言葉も影も形もなかったよな」

「霊鏡は世の中に与える影響がでかいですからね。私の方から規制を申し出ました。陽毱さんの身に危険が及びかねませんしね」

「まぁ、そうか。そうだよな。蕨平はあんなにでかでかと取り上げられてたけどな」

 今回の事件の発端、SSレート怪異『蕨平諏訪守綱善』の名もまた、世の中で大きく取り上げられていた。

 魔払いの呪具を求めて遙か昔から世界を放浪する人型怪異。そして、40人を相手取っても余裕で勝利するほどの人斬り。人々の興味を惹くには十分過ぎた。

 ひと月ほど前まではSNSで蕨平は何度もトレンドに上がっていた。有志の連中が四島ですら知らなかった情報をどこからか拾い上げて、あること無いことで大騒ぎをしていた。遠方から撮られた千石橋での戦いの動画も上げられては削除のイタチごっこの中ですさまじい閲覧数を稼いでいた。密かなシンパまで出来、蕨平の名は日本中に広く知れ渡った。

「蕨平の能力はテレビでもやってたけど、あれは良いのか?」

「あれだけ表に出たらもう隠すに隠せませんよ。それに紅葉さんが掴んだ成果ですから。せめて、あの戦いになんらかの形で意味も残したいですし」

「嬉しいこと言ってくれますね」

 紅葉はふふん、と得意げだった。

 四島は再び顔色を伺うが傍目に変化はない。

 そして、紅葉は呼び出しボタンを押した。追加注文である。ピンポン、という音が店内に響く話し声の向こうで聞こえた。

「ま、まだ飲むんですか紅葉さん」

「せっかくのお祝いですよ。ここで飲まないと」

「そうだぜ、お祝いなんだから。ぱーっとやらないと」

「陽毬さん分かってる。二十歳になったら一緒に飲みましょうね」

「ああ、楽しみにしてるぜ」

「.......」

 四島の目には紅葉が今まででトップクラスにハメを外しているように見えた。

 どうも、意識もふわふわしているように見受けられる。酔っ払っている状態だ。

 紅葉は結構飲むし、自分の限界に合わせて調整するのでこんな状態になるのは珍しい。四島もそこそこの付き合いになるがこうなるのは数えるほどしかない。

 そして、こんな状態になった紅葉の結末を四島は良く知っていた。

 ほどなくして店員が来て、すぐに追加の冷酒が紅葉の元に運ばれる。一杯一杯銘柄を変えているのは酒好きの紅葉の性か。

「でも、もう蕨平は現れません。一軒落着です」

 しかし、紅葉は途端にキリッとした表情で言った。

「ええ、本当にお疲れ様でした。紅葉さんの活躍がなかったらここでこうして酒を酌み交わすことも無かったでしょう」

「んじゃあ、改めて。お疲れ様です!」

 紅葉は高々とグラスを掲げる。

「あ、は...はぁ。お疲れ様です」

「お疲れさん! みんな本当に良く頑張った!」

「本当です。陽毬さんも四島さんも他の怪異狩のみなさんも。頑張ったからこうして美味しいお酒が飲める!」

 陽毬はノリノリで、四島は動揺しながらそれぞれグラスを合わせた。

 紅葉は普段に比べて5倍ほどテンションが高い。

 とにもかくにも、3人はお互いを労っていた。

 事件は終わった。もう、蕨平も現れることは無い。天淵も留置所の中。渚市は元通りの状態に戻った。

 四島は怪異の出現する度に現場に赴き、紅葉と陽毬はその怪異を討伐する。

 そんな風な今まで通りの日常に戻っていた。

「陽毬さん。ここ最近メキメキ腕が上がってますよ。非常に良いことです」

「そうかな。自分では良く分からないけど」

「いえ、何度も仕事してると分かりますよ」

 紅葉と陽毬は度々一緒に仕事をこなすようになっていた。陽毬は元々住所不定のようなところがあったが、この街でアパートを借りて暮らすようになっていた。今ではもう渚市の怪異狩たちにも顔が効くようになっていた。

「霊鏡の封印さえちゃんと出来ればもうなんの引っかかりもなくいけるんだけどな。もうちょっと先か」

「ええ、研究機関との封印方法の解明はもう少しかかります。今は細かい手順の洗い出しをしている状況ですね。ですが、もう数ヶ月で完成するはずです」

「まぁ、そこは心配してないさ」

 陽毬に宿る『白峰の霊鏡』。それは今封印されていない状態だ。研究によれば、今回霊鏡が発現したのは宿主の肉体が成熟に達したことを契機としていたらしい。なので、このままでは来年も発現してしまうのだ。そのために、各研究機関に申請して、霊鏡の封印方法の解明が進められているのだった。

 四島によれば、今年中にはその方法が完成するらしい。もう少しの辛抱である。

「それさえ終われば、色々一件落着だな」

 陽毬は独り言のように言った。

「そうですか。一軒落着ですか」

「ああ」

 陽毬は柔らかく微笑みながら目を伏せた。

 つまりそれは、陽毬の人生を狂わせてきた大本が終わるということ。今までの苦しみに絶望に、一区切りがつくということだった。

 もう、無くしたものは二度と戻ってはこないが、それでも次の日常が始まるのだ。

 ようやく、長い時の末に。陽毬はなにもかもが無くなった新しい日常をようやく受け容れるつもりになったようだった。

 それは、寂しいことでもある気がしたし、しかし喜ぶべきことでもある気がした。

 実際どういうことなのか陽毬本人も良く分かっていなかった。

 ただ、今までほどは過去を振り返ることが少なくなった。

「そうですか。ようやく一区切りですか。陽毬さんは、本当に.....今まで.....うう」

 と、その時だった。突如ポロポロと紅葉が涙を流し始めたのである。

 陽毬はギョッとする。

 あの紅葉が、蕨平に単身挑み勝利を納める鉄の女が、『朱の紅葉』が泣いている。

 なにがどうしたのか。陽毬はうろたえる。

「ああ、ダメだ。始まってしまった。だから、飲み過ぎですって言ってたんですけど」

「は?」

 嫌に冷静な四島。陽毬はまだボタボタ涙を落とす紅葉になにがなにやら分からない。

 そして、

「うわぁあああん。陽毬さん本当に大変だったんですね....ううう。うおぉん」

 紅葉は大声を上げて泣き出したのだった。

 陽毬は重ねてギョッとした。自分のことを思って泣いているのだろうが、しかしなにか怖い。陽毬は若干引いていた。

 そんな陽毬に四島は言う。

「紅葉さん泣き上戸なんです。普通に飲んでる時は滅多にこうなりませんが、酒量が一定を越えるとこうなります」

「ええ? こ、こんなんなるのか姉さん」

「こんなんなります。そしてこうなった紅葉さんは手が付けられません。散々泣きじゃくった末に酔いが覚め、そして自分の状態を後悔します。今回もそうなりますね」

「そ、そんな。あの姉さんが.....」

 陽毬は泣きまくる紅葉を呆然と眺める。紅葉は多少呼吸困難になるレベルで泣いている。とうの経った大人がここまで泣く姿はなかなか強烈なものだった。それも泣いているのはあの紅葉である。

「ううううう.....。陽毬さん、本当に今までどりゅえだけ大変だったことか。うわぁん」

 陽毬は紅葉をかっこいい女性として尊敬していたが、その理想の紅葉とはあまりにかけ離れた姿だった。

「陽毬さん。幻滅しましたかね」

 四島がおずおずと聞く。

「ははは。幻滅っていうか笑っちまうよ。姉さんにも弱みはあるってことだな」

 陽毬はいたずらっぽく笑った。

「良かった。酒の勢いみたいにあなたの過去を泣いてますから。本人これで本気なもんで。でも、嫌かなとも思ったんですが」

「まぁ、少し引いたけど、面白いぜ。それに、姉さん本当に泣いてるのはなんとなく分かるよ。嫌な気分ではないぜ」

 陽毬はケタケタ笑いながら紅葉を見ていた。紅葉は酒の勢いとはいえ、恐らく本当に陽毬の過去を思って泣いているようだった。普段覆い隠している本心なのかもしれない。それに、確かに面白いは面白い光景だった。

「弱りましたよこれは。収集が付きません」

「そうだな。これはひでぇ」

 陽毬は満足そうな目をした。目の前で紅葉は嗚咽を漏らしながら机に突っ伏している。

 そんな紅葉を見ながら陽毱は笑う。

「ははっ。面白ぇな。楽しい。俺はこの街に来て良かった。あんたらに会えて良かったよ。こんなに心から楽しいって思う日がやってくるなんて思ってなかった」

 陽毬は今までずっと暗闇の中を歩いてきたようなものだった。誰にも理解されない苦しみと闘い続け、闘って闘ってそれだけの日々だった。それが日常で陽毬はそれを受け容れていた。

 そして、右も左も分からない状態で陽毬は渚市に来た。

 そこで突如蕨平に遭遇し、紅葉達と出会い、そして天淵と戦った。

 陽毬はここでこんなに色々なことが起きるなどとは夢にも思っていなかった。

 悪いことも起きたが良いことも起きた。

 この2人に全てを知られて、そして2人は陽毬を賞賛してくれた。それは、陽毬にとって何より意味があることだった。

 渚市は、紅葉と四島は陽毬にとって得難い場所で人だった。

 陽毬は今楽しかった。毎日が、そして今日が。

 と、紅葉はガバリと起き上がった。

 その目は座っていたが、いつもの紅葉の目だった。強くて澄んだ目だった。

「それは良かった。ええ、その言葉は十分な報酬です」

 陽毬のその言葉は世に出ない紅葉達の働きにきちんと意味を与えてくれたのだった。

 紅葉はそして、冷酒をあおった。

「も、もう飲まない方が良いですよ紅葉さん」

「なに言ってるんですか。まだまだこれからですよ...うう。うおぉん、ありがとうございます陽毬さぁん」

 そして、紅葉はまた元通りに泣き上戸に戻った。

 それを陽毬は爆笑しながら眺め、四島は黙していた。

「姉さん面白いぜ。今ならいつもの説教も出来ないな」

「で、出来ます! ひわりさぁん。あなたはもう少し周りを見ながら戦った方が良いれす。この前だって他の人の術がもう少しで当たるとこりょで.....でも、本当に戦うのが上手くなって....本当に成長してて....うわぁあん、良くやってますよひわりさぁん」

「ははははは! 姉さん面白ぇ!」

「紅葉さん......」

 四島はいつもの無表情で紅葉を見ていた。しかし、その目に同情の念が満ちているのは間違いなかった。

 3人はそんな感じでどんちゃん騒ぎだった。

 楽しい飲み会であった。憂いもなく、なにを気にする必要もない。仲の良い人間だけでの、ただただ純粋に笑い合うだけの飲み会。なんでもないありふれた、しかし多分生きていく中で何回も思い出すような時間。ほんとうにどうでもいい、夢のようなひと時。

 それは、もうしばらく続くのだった。

 そして、そのうちに紅葉が「本当に申し訳ない」と沈痛な面持ちで陽毬に謝るのだった。

 そうして、渚市の夜は更けていった。

 週末の夜は煌びやかで平和だった。

 しかし、明日にもまた怪異が発生し、そして怪異狩が戦うのだ。

 それが、この世界で彼らの仕事だった。紅葉の、陽毬の、四島の。

 そんな風にして彼らは生きていた。他の人々と同じように、止めどなく押し寄せる毎日に抗いながら生きていた。

 他の人々と同じように明日も明後日も、その先も生きていくのだった。

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朱の紅葉の百鬼譚 @kamome008

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