今際の際

 瓦礫の山の中に鬼が1人立っていた。鬼には肩から腰にかけて袈裟に斬られた深い傷があった。しかし、鬼から血は出ていない。ただ、黒いもやがゆらゆらと立ち上っているだけだった。鬼なのだから当たり前だろう。人間ならざる鬼なのだから。

 しかし、そのもやはやはり鬼の存在を繋ぎ止める何かなのだろうと思われた。

 その傷口はもやとともにどんどん開いていき、紙が燃えていくように鬼の体を蝕んでいっていた。

 鬼はもう消えようとしていたのだ。

 鬼は今回も目的をなし得なかった。

 鬼は今回も無念のままに消えていくところだった。

 しかし、

「ああ、楽しかった」

 鬼はしかし、笑顔だった。

「良い剣でした。本当に。切り結ぶだけで愉快だった。極限まで極められた凡人の剣。しかし、時にそれは神域に届き得る。良いものを見ました」

 鬼は自分にこの傷を付けた剣を、その使い手を思っていた。

 鬼は鬼だ。人の心など欠片ほどしか持ち合わせてはいない。

 だから、鬼が思うのは人としての剣士ではなく、ただ殺し合いの技の使い手としてだった。

 殺し合い、殺し合いだった。最早、命という概念を持ち合わせていない鬼が、久方ぶりに自分が求めているやりとりに限りなく近いものを味わった。

 鬼が求めて止まなかった感覚を少しだけ味わうことが出来た。

 極限の剣のやりとり、その中にある焦燥感、そして敗北。

 長いこと長いこと味わうことのかなった感覚。鬼にとっての斬り合いの意味。それを、この傷を付けた剣士は思い出させてくれたのだ。

 昔、同じように鬼を斬ったものが居た。しかし、あちらはほとんど反則のような術を使っていた。しかし、今回の剣士は違ったのだ。

 純粋な剣技ならば鬼の方が遙かに上回っていた。

 しかし、この剣士は鬼と戦う術を熟知していたのだ。剣技のみではなく、それをも含めた戦いで一歩上をいかれた。そう、確かにあの瞬間あの剣士はたった1人で鬼の上を行っていたのだ。まともに戦ったら一瞬で決着が付く実力差をあの剣士は覆したのだ。

 だから、負けた。鬼は本当に負けた。完全に敗北したのだ。

「悔しい。悔しいですね。本当に。ああ、悔しい」

 鬼は繰り返した。そして、

「ははは、悔しいなんて感覚も本当に久々だ」

 鬼は自分の傷をまじまじと見た。自分の敗北の証を。

「あそこで遊ばなければアタシの勝ちだった。勝負を急ぎすぎなければアタシの勝ちだった。お嬢さんを舐めすぎた。アタシの敗因」

 鬼は宙空を仰ぎ見た。感傷に浸っている。自分が敗北した戦いを思っている。

「次は勝てる」

 そして、鬼は言った。

 それから、広がっていた傷はとうとう胴を呑みこみ、すぐに下半身も呑みこんでいった。最後に頭だけが残る。それも徐々に消えていく。

 その間際に鬼は笑う。

「ああ、楽しかった。ああ、また斬り合いたい。やはり剣を振るうことに勝るものはない」 鬼は狂気を含んだ声色で、怨念のような言葉を口にして、そしてとうとう完全に消えた。

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