第8話
———— 聞こえるか? ————
どこからか声がした。目を開けているはずなのに視界は真っ白だ。キディアはここがどこなのか、何が起こったのか、ダルニスとタンガスはどこにいるのか、様々な疑問を口にしようとしたがなぜか声が出ない。足に力を入れてみても地面を踏みしめている感覚がない。手を伸ばしてみても手に触る空気の感触すらない。
———— そうか。ここではお前と話すこともできないのだな ————
声の主はどことなくこの状況を楽しんでいるように感じる。キディアは遊ばれているように感じ、声の主に悪態をついてやりたかったが肝心の声は出ないままだ。
———— そう怒るな。少し場所を移動しようか ————
そう声が聞こえたかと思うと、また強い光がキディアを襲った。そして次の瞬間、キディアは地面を踏みしめる感覚を得た。それと同時に世界には色が付き、草木の匂いが鼻をくすぐり、肌で風を感じることができた。先ほどいた真っ白の世界から急に普段と同じような世界に戻り、キディアは驚いて「うっ」と唸った。
「ここなら声が出せるだろう?」
声の主は目の前にいた。最初に目に飛び込んできたのは紫の衣服だった。衣服の形こそ自分たちが着ているものに似ているが、その生地はキディアが今までみたことのないような滑らかなものでできている。てらてらと日の光を反射するその衣服のところどころには、光る糸のようなもので模様が記されている。ふと周囲に視線を向けると、そこはドゼル山に似ているが、全く別の場所であることに気付く。なによりさっきまで一緒にいたはずのダルニスもタンガスもトーヤも見当たらない。ここが一体どこなのか、メルイトの皆はどこに行ったのか、キディアは思考を巡らせたが何も分からない。分かるはずがない。
「私の姿が見えるか?」
視線を戻すと、タンガスよりも肌の色が黒い声の主は、微笑をたたえてキディアを眺めていた。キディアを値踏みするようなその視線は、決して気持ちの良いものではない。
「あなたは誰だ?」
キディアは目の前にいるその人を見て、さっきまでの疑問がすべて頭から抜け落ちた。
「私はドゼルだ。山の精霊、と言った方が伝わるか?」
ただならぬ風情をまとった声の主はなんでもないことのようにさらりと言ってのけた。
「精霊?まさか………」
キディアは自分の対峙しているのが精霊とは信じがたく、しかし明らかに人間とは違う何かを感じるその者の言葉に動揺を隠しきれなかった。
「驚くのも無理はないか。普通は人間に姿を見せることはないからな」
ドゼルはそう言うとキディアに近づいてきた。鋭い視線がキディアを硬直させる。動いたら何をされるか分からない。森の中で自分よりも大きな獣を狩る時ですらこんな恐怖は感じたことがない。もしも先ほどの言葉が真実ならば、精霊が人間を傷つけることなどあるはずがない。怖がることなど何もないはずだ。しかし一歩一歩近づいてくるドゼルに、キディアは恐怖しか感じることができなかった。
☆
ドゼルはキディアに息がかかりそうなほど近くに歩み寄り、キディアの髪に触れた。ドゼルの手にゴワゴワとした黒髪がまとわりつく。キディアは硬直したまま動けずにいる。その手を振り払うことも、声をあげることもできなかった。しかしその鋭い眼光とは裏腹に、ドゼルの手はまるで割れ物にでも触れるかのように優しいものだった。キディアの顔を半分以上隠していた髪をドゼルがかき上げ、その顔面があらわになる。
「この傷は生まれつきだな?」
キディアの左頬にあるアザを見てドゼルは言った。
「気付いた時にはあった」
キディアの声は震えていた。
「怖がることはない」
キディアの髪をかき上げていたドゼルの手が、頭から頬へ移動していく。しなやかな指がアザのある場所を撫でる。先ほどまでの鋭い眼光は一変し、まるで慈しむようにキディアを見つめている。
「お前に良いことを教えてやろう」
アザに触れていた指が耳の方へずいっと伸び、アザを覆うように掌全体が頬に触れる。それなのにそこに温もりはなかった。指先だけでは気付かなかったが、触れられているという感触はあるのにそこに温もりがない。獣の皮が触れているのとも違う。木の幹に触れているのとも違う。草や水や土とも違う。確かに触れられているのに、まるでそこには何もないと感じる。
「この傷は私がつけた」
「あなたがつけた…とは?」
キディアはドゼルの言葉の意味が分からずに聞き返した。しかしドゼルはキディアの声など聞こえぬかのように、ただキディアのことを見ている。その目に吸い込まれそうになるのをこらえ、キディアは問い直した。
「あなたがつけたとはどういう意味ですか?」
その問いかけに、ドゼルは答えた。表情を変えることなく、
「お前が死ぬ間際、私がつけた」
と。
☆
光を駆ける者たち あゆみ @ayumito0914
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