【番外編】退職の理由


 野原が退職をすることは、あっという間に部署内に広まった。篠崎はさっそく他の係長三人を集めて送別会の打ち合わせをした。


 最初は無表情でお菓子を食べてばかりいるおかしな課長を怪訝そうに見つめていた係長たちだったが、余計なことも言わず、面倒なことも押しつけてこない彼を、上司として認め慕っていのだ。


 だから彼が退職をする、と聞いた職員たちの動揺と言ったらなかった。


 特にショックを受けたのは篠崎である。彼女はなにかと野原の世話を焼いていた。別に下心があったわけではない。しかし、どこか危なっかしくて、母性本能がくすぐられっぱなしだった。

 

 仕事は早い。人間関係について問題を起こすこともない。そしてなにより市長の私設秘書である槇実篤という男と懇意にしている立場——。これは絶対に出世コースであると睨んでいたのに。


「退職って」


 篠崎は大きくため息を吐いてから、受話器を持ち上げた。相手はすぐに応答した。


「推進室、保住」


「ああ、保住くん? 篠崎です」


「お疲れ様です。珍しいですね。篠崎係長がおれになんの用でしょうか?」


「あら、つれないのね」


 ——可愛くない男!


 篠崎はボールペンをいじりながらそっと野原を見つめる。彼は相変わらず大福を食べながら書類を見ている。目元がほころんでいるのは幸せだ——と思っている証拠だ。


「野原課長の件、聞きました?」


「ああ、退職されるんでしょう? 驚きましたよ。まあ、からくりを聞けば、なるほど——ですけど」


「まあどんな理由でもいいんですけど。送別会をしようかと思っています。あなた、来ますか?」


「誘ってくれるんですか? すっごく嫌そうに聞こえますけど」


「あら、私は嫌ですよ。でも課長は喜ぶのではないかって思って。——田口くんも一緒にね」


 電話越しの保住は小悪魔のような笑い声をあげた。普通の女子なら、彼のこういった仕草一つで心が転ぶのだろう。しかし——「私は騙されませんからね」と篠崎は思った。


「わかりました。他にも数名、声をかけてもいいですか?」


「ええ、お好きにどうぞ。人数のとりまとめが終わったら連絡ください」


 篠崎が受話器を置くと、すぐ耳元に熱を感じてはっと振り返った。そこには野原が立っていた。


「か、課長……顔、近いんですが」


「え! だって何話しているのか聞こえないじゃない。保住? 職務中に私用電話は禁止」


「すみません。私用ではありません」


「じゃあ、なあに?」


「か、課長の送別会です」


「送別会?」


「そうですよ。課長、退職されるんですよね」


 野原は表情を変えることなく「そう」と頷いた。


「退職されたら、ヨガを極めるためにインドに行かれるんですよね。大変ですね……」


「インド?」


 野原は目を瞬かせた。すると振興係長の渡辺がやってくる。


「え、おれはカンボジアに遺跡調査に行くって聞いたんですけど」


「カンボジア……」


「フランスに料理の修行に行くという噂がありますけど——課長」


 渡辺の部下である有坂はそう声を上げてから、「卵焼きしか作れないのに、無謀すぎ! 絶対に無理」と断言した。


 その隣にいる十文字は「そんな!」と素っ頓狂な声を上げる。


「嘘だ~。アメリカのNASAに引き抜かれたんですよね? 宇宙ステーションにいつ行かれるんですか?」


「違いますよ。中国でパンダの飼育員になるんですよね」


 いつの間にか事務所内は野原の退職の理由で持ち切りだ。その騒動を聞きつけたのか。大きな音を立てて扉が開いたかと思うと、事務局長の佐久間が仁王立ちになっていた。


 野原は「申し訳ありません。すぐに職務に戻らせますから」と謝罪したが、彼は人差し指を立てて「ちっちっち」と振った。


野原のうちゃんが退職するのは、スペインで闘牛士の修行をするためだ!」


 そこにいる一同はポカンとしていた。一気に鎮まり返った事務所。野原がポンポンと手を叩く。


「仕事、戻ること」


 一同は、いそいそと職務に戻って行く。取り残された佐久間は「あれ? あれ?」と首を傾げたまま篠崎のところにやってきた。


「ところで、いつ送別会やるの?」


「来週ですよ。局長もいらしてくださいね」


「もちろん。誘ってね」


 彼はでっぷりしたお腹を揺らしながら事務所を出て行った。それを確認してから、篠崎は野原を見る。


「課長。寂しくなります」


「寂しい? おれがいないと寂しいの?」


「そうですよ。みんな寂しいんです。だから、適当な理由つけて現実から目を背けているんですからね」


「適当な理由をつけると、現実から目を背けられる……。それは興味深い」


「——また帰ってきてくださいね。課長。待っていますから」


「うん。戻れたらね」


 野原は何を思っているのだろうか。彼は、じっと騒々しく動いている事務所内を見つめていた。その横顔を見ていると、篠崎の胸はきゅんと締め付けられた。彼女が見つめていることに気が付いたのか。野原はふと視線を篠崎に戻した。


「送別会……美味しいお菓子が出る店がいいな」


「え!」


「楽しみ」


 にこっと笑みを見せる野原に、篠崎は顔が熱くなった。


「わ、わかりました。探します!」


「うん」


 自席に戻る野原を見つめて、篠崎は渡辺の部下である十文字と有坂を呼びつけた。


「いいか。美味しいスイーツのある飲み屋を探すこと。いいわね?」


「なんでおれたちに依頼するんですか」


 有坂は細い眉毛を釣り上げて不満をあらわにするが、篠崎は無視をした。


「依頼じゃない。命令だ! しっかりね」


 がっくりと肩を落とす有坂と十文字を見て、篠崎はため息を吐いた。異動の多い部署だが、退職は寂しいものである。これもこの職場を選んだ自分の定めだ。出会いと別れがある季節。別れの先には、一体どんな出会いが待っているというのだろうか——?




—番外編 了—

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バカな男は恋で賢くなるのか 雪うさこ @yuki_usako

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