08 偕老同穴



 満月の美しい夜だった。


「ねえ、よかったの?」


 布団の中でまどろんでいる野原の声に、槇は「いいんだ」と答える。野原は悪夢を繰り返し見ている。夜中に悲鳴を上げることもある。けれども、槇はずっと隣にいた。いつ野原が目を開けたとしても、そこに自分がいるということを見せるためだ。


 槇の姿を確認した野原は再び眠りに就ける。手を握ったり、口づけを交わしたり、少しずつしか触れることくらいしかできないけれど、槇はそれでも満たされていた。


「澤井副市長は、メリットもない話をおれために引き受けたんだね」


「強面なのにな。あれでもデリケートな性格らしい。自分で言っていたぞ」


「ふふ。おかしいね」


「お前でもそう思うのか?」


「思う。顔と性格が合っていないもの。保住が澤井副市長に従うのは、そういうところが好きなのかな」


「そうかも知れないな。おれだってそうだもの」


「ねえ——」と野原は声色を落とした。


「澤井副市長となにを約束したの」


「ああ、それは——」


 槇は野原の頭を撫でながら笑う。


「おれもわからない」


「え?」


 野原は驚いて顔を上げた。槇と野原の鼻先がぶつかった。


「わからない?」


「そうだよ。澤井はおれの望みを叶えてくれると言ったけど。あの人の望みはおれにはわからない。あの人は他人に腹の内を明かさないからな」


「わからないのに手を結んだの? 実篤らしいね」


 野原は「ふふ」と笑うと、枕に頭を押し付けた。


 ——そうだ。わからない。けど。なんとなくわかる。


「澤井さんが狙っているのは市長の席だろうな」


「市長?」


「そうだ。あの人は副市長で満足していない。あの人が安田を再選させたかったのは、弱った安田の後を引き継ぎたいからだ。おれが地盤を引き継がないこともわかったから、それもそっくり自分でいただく算段だろう」


「なるほど。今回は、時期尚早——だから、安田を再選させた」


「ここで新しい市長が誕生したのでは、次回の選挙戦で自分には不利になる。新しい市長が四年後にどこまで人気を維持できるかどうかは、未知数だからな。しかし安田なら先は見えている。今回は辛うじて首の皮一枚でつながったけど、次回の再選はない。澤井は先の先を見ているんだ」


「澤井副市長らしいね」


「本当にな。おれはまだまだ浅はか——」


「帰国したら実篤はどうするの? 無職する?」


「さあな。なにかはあるんじゃないかな。おれが雪についていくって言ったって、母さんたちはなにも言わないしさ。帰国したら親の世話にでもなるしかないだろ? おれが普通に働けると思うか?」


「言えてる。大学出てからすぐに叔父さんの会社に入ってブラブラしていたし。その後は安田市長に拾ってもらったけど、大した事していないもの。実篤が組織で働けるとは思えないな」


「ちぇー! キツいこと言うな! いいんだよ。おれは別に、仕事に生きがいなんて持ちたくないからな。こうしてお前のそばにいられるだけでいいんだから」


 ——そうだ。おれの本当の望みは。権力なんかじゃない。力なんかじゃないんだ。おれの本当の望みは。お前だ。雪。


「でもおれは……お前を抱えて黄泉比良坂ヨモツヒラサカを戻ることができなかった——。やっぱり情けなくて馬鹿なところはそう簡単には治らないな」


「そうかな。確かに頭のネジが緩んだままだけど。おれはこうして、ここにいるんだから戻ったってことじゃない」


「そうじゃない。お前はそう言うけど。おれはそうじゃない。おれは伊邪那岐イザナキと一緒だった。お前を疑った。そして逃げ出したんだ。それは償わなければならないことだと思っている」


 野原の白緑びゃくろくの瞳は、槇をじっと見据えていた。


「もしこれが反対の立場になっていたら、お前はきっと目を背けずにおれに向き合っていてくれたと思う。おれはやり直したい。これからゼロに戻って。おれはお前をずっと一番にしていく」


 槇の言葉は不確実だ。守れるかどうかわからない約束を平気で口にするのだ。なのに野原は、いつもそれを信じてくれる。


 そんなダメな自分のことを理解してなお、こうして一緒にいてくれるのが野原なのだ。だからこそ槇は心に刻むのだ。


 今の立場すべてを投げうって、そしてゼロからの出発をする。それが槇の決意なのだから。


 槇の指先が野原の指先に触れる。野原の指先は震えていた。まだまだ恐怖心は消えない証拠だ。それは槇が背負う十字架だった。野原を傷つけた負い目を、一生忘れないための罰——。


「実篤。向こうに行ったら、なにするつもり?」


「海外で仕事なんてあるのかな?」


「実篤の英語。いつもC判定。ねえ、話せるの? 大丈夫?」


「う、うるさいな。勉強する」


「英語勉強するよりロシア語を勉強したほうが早いんじゃない。だって、実篤には通訳がつかないよ」


「なるほどな。確かに、ロシア語を先に覚えたほうがよさそうだな。そのほうが最短だ!」


 槇は「なるほど」と手を打ち鳴らした。しかし、野原は冷たい視線で「短絡的」と言った。


「は? お前が言ったんだぞ」


「ふふ。からかっただけ。実篤がロシア語を習得できるとは思えないもの」


「おい!」


 野原は声を上げて笑った。艶やかな笑みだった。野原は色々な経験を超え、日に日に人間らしさを見せる。不本意だ——とは思いつつも、いつまでも笑っている野原が愛おしい。


「そうだった。これだ、これ」


 槇はベッドから飛び起きると、カバンからごぞごぞとビロードの箱を取り出した。


「なあに?」


「これだ」


 重い蓋を開くと、そこには複雑なカットで光輝くプラチナのリングが収まっていた。


「お前さ。おれとの関係性をちゃんと人に説明できないだろう」


「え? 実篤は……」


「おれは、お前のなんだ?」


「えっと……」


 野原は戸惑ったような表情を浮かべた。


「幼馴染? えっと……友達……」


「違う。おれたちは家族だ。いいか? おれとお前は恋人であり、幼馴染であり、友人であり、そして家族だ。そうだろう?」


「家族」


 槇は野原の細い指を取る。


「これは、お前がおれのものだって印だ。いいな。つけておけ」


 彼の指先に唇を寄せ、それからその指にリングをはめる。興味でキラキラとしている双眸。軽く開かれた口元を見ていると、槇は誘われるように顔を寄せた。


「キスしていいか」


 触れるか触れないかの距離で囁く。吐息と共に聞こえた「いいよ」という返答に、槇の気持ちは嬉しさで満ち満ちる。


 振り出しにもどった恋みたいだけれど、二人は満たされている。


 ——一緒にいよう。


 ——死んでもその手を離さない。


 野原の甘い口付けを享受し、槇は至福の時に浸る。


「目の前にいるのは誰だ。雪」


「実篤……」


「この口付けは誰のものだ」


「実篤の……だよ」


 バカな男が恋をしても、結局はバカなままなのかも知れない。しかしそれは、恋がそうさせているのかも知れない。恋とは人を賢くもするが、バカにもする。槇はそのどちらでもいい。槇にとっての世界のすべてが、この野原雪で回っているのだから——。


 ——黄泉比良坂で伊邪那美イザナミを失った伊邪那岐は、本当にそれでよかったと思っているのだろうか——おれは違う。やっぱり伊邪那美でなくてはいけないんだ。おれはバカでいつでも失敗ばっかりだけど、それでも何度でも雪を迎えに行く。そして、誰にも渡すことはないのだ。死が二人を別つ時まで。


 







—了—

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