07 おれが養ってあげる


 大変時間のかかる行為だった。まるで初めてからだを重ねた時のようだった。遠慮がちに触れてみると、野原はからだを震わせた。彼が怖がっていることは知っている。しかしいつまでも彼の中に、横沢の恐怖が刻み込まれているのが嫌だった。


 ——そう嫌なんだ。


 野原が傷つけられたことについて、憤慨しているのではない。今、この時——野原のすべてを横沢が支配しているような気がして嫉妬したのだ。奪われたのなら取り返す。横沢が彼に傷をつけたのであれば、その傷は自分の行為で上書きしなければならない。


 横沢の恐怖から解放されるためには時間が必要だ——と槇は思った。きっとこれからも横沢の存在が、二人の間に影を落とすのかも知れない。しかしそれは、槇が野原を信じ、そして野原が槇を信じてくれさえすれば、必ず克服できるものだ、と思った。


 翌日。槇は野原を連れて市長室にいた。目の前には安田と澤井が並んで座っていた。


「槇さんから聞いているか? 人事の話だ」


 野原は槇を見た。澤井は「おや」と声を上げる。


「なんだ。話していないのか」


「おれから伝えるべき内容ではありません。市役所組織の人事に、私設秘書であるおれが口出しはできませんから」


 澤井は物珍しそうに槇を見ていたが、ニヤリと口元を上げると「そうか」と言った。そして続け様に「野原、お前には退職願う」と言った。槇は咳払いをしてから、隣にいる野原の横顔を見た。彼は眉一つ動かすことなく口を開いた。


「理由をお聞かせ願いたい。自分には退職しなければならないような落ち度は見当たりません」


 野原の解答に、澤井は「ほほう」と笑みを見せた。


「愉快。お前のような男は、ここに未練などないと思っていたのだがね。退職というのは不本意であるか」


「当然のことです。組織として不要——。確かに今の私は半人前かも知れない。ですが、だからと言って退職というのは、理由としては不十分です」


 野原の白緑の瞳は澤井をじっと見据えていた。


 槇も意外だと思った。自分が不相応という烙印を押されることについての不満なのだろうか。それとも市役所職員という今の立場に固執しているのだろうか。


「愉快、愉快。野原。お前はいつでもおれを楽しませる」


 安田はそんな二人のやり取りを見て、困惑した表情のまま野原を見た。


「違うんだ。雪。私は反対したんだけどね。どうしても、キミじゃないとできない任があって——」


 澤井は一枚の書類を野原と槇の目の前に差し出した。


「これは——」


 槇が昨日見せられた書類だろう。なぜ、その任を野原が引き受けなければらないのか。槇には理解できなかった代物だ。野原が文字を目で追うよりも先に、澤井は内容を説明した。


「県からの依頼だ。外務省が我が県の職員を一名、欲しがっているという。事の詳細は追って伝える。任期も不明——という、全くもって秘密だらけの案件だ。そんな怪しい要請に、県は自前の職員の派遣を渋ったらしい。各市町村に押し付けてきた」


「それをお引き受けになるのですか」


 野原は澤井を見て言葉を続けた。


「確かに、中央とのパイプを持つことは、地方自治体には必要不可欠なことです。年間数名の職員が中央省庁に研修扱いで出向していますし、あちらからキャリアを引き受けていることも知っています。しかし外務省——ですか。外務省との人事交流など聞いたことがありません」


「外務省は地方自治体から職員の受け入れはしていない。しかも対外的なことしかしていないところだ。こちらとしても、奴らに職員を提供したところで、なんのメリットもないわけだ」


「つまり、どこの自治体も、わざわざ職員を出すわけがない——ということですね」


「然り。しかしだな。これを活用しない手はないではないか。県に恩を売る。そして、お前もここを離れられる。どうだ? 悪い話ではあるまい」


 ——そうだ。澤井は最良の道を提示してくれたんだ。


 昨日、澤井からの話を聞いて一瞬、頭が真っ白になった槇だが、彼の意図を聞いて、それに同意をした。


 彼は野原を切り捨てるつもりはなかったのだ。再選をして、まったくもって周囲の意見を聞き入れない安田の人事を阻止することができないのであれば、この話に乗って野原を逃すという策を講じてくれようとしている。


 そうだ、これは救済措置なのだ。


 市役所職員である限り、彼が梅沢を離れる理由はない。だが県からの要請に応じる形で、野原はここから離れることができる。野原にとっては願ってもないオーダーでもあった。


 問題は野原がそれに納得をして市役所を退職するのかどうか、ということだけだった。そして自分はこれからどうするのか、ということも含めてだ。


 槇は昨日一晩。野原との逢瀬を経て、ある一つの結論を導き出していた。


「外務省に行くということは梅沢市役所を退職し、外務省に正式に入庁してもらうことになる。だから退職をしろ——と言ったのだ」


「一度退職となると出世に響くしね。澤井くんがいる間に戻ってこられるなら大丈夫だと思うんだけどね。そこだけ心配しているんだ」


 安田は澤井を気遣うように声を小さくして囁いた。野原は表情を和らげて安田を見た。


「出世には興味がありません。おじさん。お気遣いありがとうございます」


 それから野原は澤井を見た。彼の意図を理解したのだろう。「それが私の役割ならばお受けするだけです」と返答した。


「県に貸しを作っても、そう意味もないことでしょうけど、澤井副市長のご指示であれば、そのように致します」


 野原は頭を下げた。槇は澤井を見る。彼は「お前はどうする?」という顔をしていた。槇は軽く頷いてから安田を見た。


「おじさん。おれもせつと一緒に行きます。私設秘書を退職させてください」


「な、なんだって?」


「実篤」


 驚いているのは安田だけではない。野原も声を上げた。そして心配そうに槇を見ていたのだ。自分の処遇についての話の時には、まるで微動だにしない男なのに、心動かしてくれるのか。そう思うと槇は内心嬉しく思った。


「おれは、おれの人生を生きたいんです。勝手なことばっかり言って本当に申し訳ないとは思っています。でもどうか、おれに自由をいただけませんか」


「実篤……」


 その場で、槇が退職を言い出すことを予測していたのは澤井だけだったのだろう。彼は満足そうな笑みを見せ槇を見ていた。まるで槇の決定を支持してくれているようだった。


 ——そうだ。おれは、自由だ。自分の人生を謳歌しなければならないのだ。雪との人生を。


「雪と一緒についていくって……どうするの?」


「さあ、どうするかはこれから考えます。雪がどこに行くかもわからないんですよね?」


「おれが小耳に挟んだのは、ロシア語圏だそうだ」


「ろ、ロシア語ですか!?」


 槇は狼狽えた。


「通訳が英語しかできないそうだ。それで英会話が堪能な職員という条件らしい」


「実篤は英語も話せないじゃない」


 野原は冷たい視線で槇を見据えていた。


 ——え、冷たくない? おれ、お前と一緒に……。


「槇実篤という男は、野原に養ってもらうしかないということだな。これは愉快!」


 澤井は膝を打ち鳴らして笑った。


「う、嘘だろう……」


「大丈夫だよ。実篤。おれが養ってあげる」


「う、ううう……副市長……。酷い、酷いですよ。おれとの約束は……」


 槇は頭を抱えて唸った。


「叶えてやっているだろう? お前の望み。おれはいつでもお前の望みを忘れはしない」


 ——やっぱりバカを見るのはいっつもおれじゃないか!!


 


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