06 一番でいたい


「おれは自分が恥ずかしい。お前にちゃんと、謝っていなくて。それで、おれは……お前の目を見ることができなくなった」


「謝る必要はないでしょう?」


「いや。おれが悪いんだ。お前を守るためって、こだわり過ぎて、逆にお前を巻き込んだ。お前だけに我慢をさせて。それで丸く収める。それは確かに大人の対応だし、そうするしかなかったってことも理解している。けど。けどな、あの時、異論を唱えた保住のほうが正しいと思った」


 異論を唱えた保住を制したのは澤井。あの時、野原は澤井と同じ思いだった。選挙戦を成功させることだけを考えていた。しかしその反面、保住が自分のことで憤ってくれている様を目の当たりにして、心が温かくなったのも事実だった。


 ——実篤はそうしてくれない?


 あの時、野原はそう思った。それは、心の奥底から湧いてきた思い。それは、自分では押し隠すこともできない、消すことができない思いだったことを思い出す。


 自分の気持ちが制御できないことなど、今までに一度もなかった。どんな時だって、最善の選択をするため、自分の気持ちに目を向ける必要がなかったからだ。しかしどうだ。この思いは、押し込めても押し込めても、まるでとどまることを知らずに湧いてくるのだ。


「おれは、いつの間に変わったのだろうか。いや、変わっていないんだ。結局は、お前を一番にできない。中学校の頃だってそうだ。お前のことを気にしながらも、横沢たちと付き合った。あの時、あいつと関わらなければ、今回のようなことだて起きなかったのかも知れない。これは、おれがいつもいつもお前を一番に選択しないことが原因だ……」


 ——実篤は苦しんでいる。実篤は自分が一番かわいいからだ。おれを一番にはできない。


 野原は初めて理解した。自分が槇のことを思っている以上に、彼の自分への思いは複雑で、本人ですら理解できているかと思えば、どこまで理解しているのか疑問になるくらい、複雑怪奇——。


「一番にならなくていい」


 野原はそう答えた。


 ——嘘だ。それは嘘。


 野原には槇しかいない。槇が野原を選ばないと決めた時、それは野原が存在する意味が消える。 


 ——一番じゃなくていい。ただ、少しだけ。必要だって思ってもらえれば、それでいい。……ううん。そんなのは嘘だ。嘘。嘘ばっかり。おれは……。


「実篤には大事なものがたくさんある。だから、おれが一番じゃなくてもいいよ」


 ——ああ、こうして人は嘘を吐くんだ。


 相手がどう思うのか。相手を大切に思うからこその嘘。


 ——実篤に辛い思いをさせたくない。


 ——槇さんがあなたを支えられるとは思いません。


 ふと有坂の声が思い出される。


 ——そうだよ。有坂。実篤はおれを支えるほどの力はない。だから、おれが支える。


「いつものこと」と野原は思ったが、槇は大きく首を振った。


「嘘を吐くな。雪」


 いつもだったら、野原の言うことを素直に受け取る彼なのに。今日は真摯な眼差しで自分を見ていた。


「なあ、違うんだろう? お前の本心は違うはずだ。お前はおれが他の人間と仲良くするのが、すっごく嫌なはずだ! 一番じゃなくちゃ、嫌なんだろう?」


「実篤……」


「嘘ばっかり言うな。我慢するな。お前の気持ち、おれだけは知っていたい。そうだろう? なあ。雪。おれたちはずっと一緒なんだ。我慢するなよ。ちゃんと言え。おれにだけはちゃんと言えよ」


 いつも思っていることを口に出しているから、人とうまくいかないのだ、と思っていた。しかし違っていたのだ。野原雪という男は、自分の気持ちに疎く、そして、それを言葉にできない男。つまり、自分の本当の気持ちを表現できずに、いつもいつも押し隠して生きてきた男だ——ということだ。


 ——ああ、そうか。そうだったんだ。


 なんだか腑に落ちた。昔からいつも喉元になにかが詰まっているような感覚に襲われていた。それがなんだかわからなくて、ずっと頭のどこかにかかっている霧が、すっと引いていくのがわかった。


「おれは……」


「なんだ」


「おれは。実篤が横沢たちと仲良くしているのを見ていて苦しかった。おれのところから離れてしまった実篤ばかり見ていた。そう、実篤がいないと苦しいんだ。仕事だってわかっていても、こうして何か月も会えないだなんて、おれの世界は真っ黒になる。実篤がいない世界なんて、なんの意味もなさない。おれは生きている意味がわからない」


 ——そうだ。意味だ。


「実篤がおれの名前を呼んでくれるだけで、ここにいていいんだなって思えるから……だから、おれはここにいたい。そして、実篤の一番でいたい」


 ——ああ、初めてだ。おれの考えていること。言葉にするって、なんて簡単なことなんだろう。


 喉元のつっかえが取れたみたいに軽くなった。にこっと笑みを浮かべて槇を見返すと、槇は何も言わずに野原をぎゅっと抱きしめた。


 ——実篤。ここにいるのは実篤だ。怖くない。


「嬉しいよ。おまえが、おれだけを選んでくれるってことが、こんなにも嬉しいことだなんて思ってもみなかった。——おれは、当然そうなるだろうって甘えていた。おれもお前の一番であり続けられるように、きちんと努力をしなければならないんだって思った。雪。改めて言おう。おれと共に人生を歩んでくれ。どうか、死のその時まで、一緒にいてくれるのか」


「愚問——」


 ——おれたちはずっと一緒だ。


 槇の存在は野原の半身。これから先に、どんな困難があろうとも、何者にも侵すことのできない二人の関係は、確固たるものだ。


 槇の口付けは甘い。今は彼の存在だけを感じ入る。野原の世界は槇で満たされた。


 ——怖くない。実篤がいるから。怖くはない。


「目の前にいるのは誰だ」


「実篤——」


「そうだ。今、こうしてお前の頬に触れている指は誰の指だ?」


「——実篤……」


 彼の名を呼ぶために開かれた唇の合間から、槇が入り込んでくる。柔らかい舌が絡み合い甘い味がした。槇の唇が音を立てて離れる。


「お前に口づけをしているのは誰だ?」


「実篤だよ……」


 槇は野原の額に優しく触れた。


「目を閉じるな。雪。目の前にいるのがおれだとしっかりと見ろ。お前の世界にはおれしかいないんだから」


 槇は野原の傷口を覆うように、少しずつ確認をしていく。


 ——そうだ。実篤がいれば、怖くはないんだ……。


 気を抜くと、震え出しそうな指先を、丁寧に、優しく、愛おしむかのように撫でる槇の指の熱に呼応するかの如く、野原のからだの奥は熱くなる。


「好きだ。雪。おれはお前が愛おしい」


 ——ああ、おれもだよ。実篤。


「もっと触れたい。お前と繋がりたい」


「実篤……、いいよ」


 槇は、野原の答えに満足したのか、「目は瞑るなよ」と言いながら、野原の細い腰を引き寄せた。





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