05 生きる意味



 まるで映画のワンシーンのように、野原の視界はくるくると場面が切り替わる。


 梅沢市立病院。

 横沢がいる。

 加藤だ。

 田口もいる。

 澤井。

 保住。


 そして——槇実篤。


 ぐるぐると視界が回って、息が詰まりそうで、苦しくなった。


「は、は」と口で息を吐こうとしても、上手くいかなかった。


 ——フラッシュバックだ。


 野原は薬袋を探す。リビングのガラステーブルの上に載っているそれに手を伸ばした。しかし、それは叶わない。槇に抱き竦められたのだ。


「は、——離して……っ! さ、実篤、お願い……薬を……っ」


せつ! 頼む。おれを見てくれ!」


 ——怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。


 薬に手を伸ばそうともがくが、槇の拘束は強固だ。余計に不安が増長された。


「離して! 実篤!」


 横沢がいる。

 梅沢市立病院——。


 手あたりしだいに両手をばたつかせた。


 ——怖い。怖い。怖い……。


「雪!!」


 耳元で槇の声が突然に響いて、はったとした。息が詰まっている事に気がついた。自分は、いつの間にか槇に両手を抑え込まれて、ソファにはりつけにされていることを認知した。


 槇の頬には、ひっかき傷があった。そこから血が滲んでいた。


 ——やったのは、おれ?


 肩で息をしながら、槇を観察する。自分が暴れたおかげで、槇は髪を振り乱し、そして彼も自分同様に肩で息を吐いていた。


「おれだ。お前の目の前にいるのは、おれだ。雪。槇実篤だ。そうだろう?」


「さ、ねあつ……」


 ——そうだ。目の前にいるのは実篤。


「そうだ。実篤だ。雪。お前はどこにも行っていない。ここはおれたちの家だ。そして、お前は野原雪で、おれは槇実篤だ。そうだろう? 雪」


 ——ここは、おれの家。実篤との家……。


 少しずつ呼吸が落ち着いた。しかし槇に触れられている部分に、まるで刃物を突き付けられているような感覚に、恐怖心は未だに収まらなかった。


「ごめん。雪。おれは、——お前と横沢のことを疑っていた」


「——知っている。そして、そうなるって決まっていた」


「決まってなどいるものか」


「でもそうなった。そして、未だにそうだ。そうでしょう? おれのこと見ると、嫌な気持ちになる? ねえ。実篤。一緒に……一緒にいられるの? おれたち……」


 槇の瞳は疑念の色で満ちている。


 ——きっと、なにを言っても実篤は信じてくれない。


 二人の間に横たわる壁は、恐ろしく高く、そして限りなく厚い。


「実篤。おれ、この家を出て行こうと思っている」


 ——そしてきっと。実篤もそうすることを望むはず。


 しかし槇の瞳の色に強い意志が浮かんだ。その刹那。槇の両手が野原の頬に添えられる。彼の温もりは、野原にとって幸福なサイン。しかし、今のそれは。まるで刃のように野原の心を抉った。


「怖い。実篤。触れないで……」


「嫌だ」


 槇は首を横に振ったかと思うと、野原の唇に自分の唇を重ねてきた。


「実篤、止めて!」


「止めない。おれはお前が好きだ。お前がいないと生きていけないんだ。なあ、雪、そうだろう? おれを見捨てるな! お前だけはどこにも行くな。行くな。行くな! お前がどこかに行くというなら、おれもついていく。おれは、お前から離れない!」


 槇はまるで駄々っ子だ。小学生の子供のようだった。野原の恐怖心など、どこかに吹き飛ばしてしまうかのような、わがまま放題。自己中心的男がそこにいた。


 ——傷ついているのはどっちだ?


 野原には、なにがなんだかわからなくなってきた。槇という男はいつもそうだ。野原のほうが傷ついているはずなのに、自分のほうが傷は深い、と主張する。最後には、野原が折れるしかなくなるのだ。


「お前と横沢の間のことはわからない。けど、お前の心があいつに奪われるなんてことは、絶対にないって知っている。知っているのに——おれは怖い。お前がいない世界は、とっても冷たくて暗くて怖い。頼むよ。雪。どうか、どうかおれのところからいなくならないで……」


 目の前で小さくなって泣き崩れている槇を見ていると、野原の手が自然と動いた。人に触れることが、あんなにも恐ろしかったというのに。泣いている槇にそっと腕を伸ばし、彼を抱き寄せた。


 槇の匂いがした。


 震えている槇の肩が愛おしい。


 野原はそっと槇の頭を撫でた。


「雪……」


「さみしい。苦しい。そんな気持ち。中学校の頃、実篤が横沢たちと過ごすのを見ていた時と同じ気持ち。ああ、苦しいってこれだったんだね」


 槇は野原の腰を引き寄せて、そのまま力任せに抱き返してくれた。


「おれは伊邪那岐いざなきと一緒だ。お前を黄泉の国から連れ出せなかった」


「そんなことはない」


 槇の差し出す手のひらに、指先を触れさせると、怖い気持ちになる。この気持ちだけは、そう簡単に収まるものではないようだ。だがしかし——。こうして槇に抱き寄せられると、気持ちが少し安らぐのだった。


「おれはこうして、ここにある。実篤がいるから、ここにある」


 野原は表情を緩める。


「実篤がおれの生きる意味をくれる。おれにとって、実篤は大切な人」


 槇は涙を浮かべて笑みを見せた。


「おれもだよ。雪。お前がいない場所で生きていても仕方がないよ。なんのために、今までもがいてきたのか。おれはお前のためと言いながら、結局は自分のためにもがいていたんだ。その結果がこれだ。お前を犠牲にしてまで、手に入れたものは、何の意味もなさないものだった」


 槇はそういって声を震わせた。




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