04 残された道



 夕方。槇は澤井に呼び出されて副市長室に顔を出した。澤井は珍しく難しい顔をしていて、秘書席には天沼が座っていた。


「野原が早退したそうだ」


 槇はソファに座るなり、腰を浮かす。


「まあ、落ち着きなさい。課長会議に行く途中、廊下で発作を起こしたそうだ」


 槇はこぶしを握る。家に飛んで帰って、彼を抱きしめたい。そう思っても叶わないのだ、と思うともどかしく思えたのだ。


「あれは使い物にならんな」


「え——?」


 澤井は険しい表情で顎を撫でた。


「野原のことだ。こんな調子では職務に支障が出る。なあ槇さん。なんとかならんものか」


「そう言われましても……。野原にはそれ相応の治療は受けさせております。しかし医師からは、回復がいつになるのか、それは見通しは立たないと言われていて……」


「困りましたね。市長がね。騒いでいるんですよ。聞いているでしょう? 新プロジェクトの件」


 安田の新しいマニフェストの件だ。この件は、安田が澤井に相談すると言っていた。てっきり、澤井がその話は白紙に戻してくれている、と安易に考えていたので、更に驚いた。


 ——この件、まだ生きていたか。


「それは、なんとか回避していただきたい。どうなるのか——あなたは、ご承知のことでしょう」


「私だってね、当然反対しましたよ。しかしね。安田市長は、初当選の頃に戻ったように生き生きとしておられる。こっちの話など聞いちゃいませんよ」


 澤井は困ったような言い草だが、ニヤニヤと楽しんでいるかのような表情だ。


 ——澤井は、おれたちを見捨てる気か?


 そんな槇の表情を汲んだのか、「勘違いしないでくださいよ」と言った。


「槇さんとの協定については生きている。そのあたりは安心していただいて大丈夫ですよ。しかしね。野原は助けられない。私は槇さんの夢は叶えると言ったが、野原のことまで責任は負いかねる」


「あんた……あの時、せつを切り捨てておいて、その言い草はなんだ!」


 槇は澤井を睨みつけた。


「そんな怖い顔しないで。あなただって、そうした一人ではないか? なにもね、野原のPTSDが4月まで改善してくれればいいだけの話だ。そう難しい話ではなかろう」


「そんな易々とよくなるものか」


「だろうな。——ではもう一つ、ご提案申しあげよう」


 澤井が手を出すと、天沼が一枚の紙をその手にした。澤井はそれを槇の目の前に差し出す。


退


 槇は目を見開き、その紙を食い入るように見つめた。

 

 ——雪を退職させるだと!?


「選択肢はたった二つだ。野原のPTSDを強制的にでも治癒させるか。もしくは退職させるのか。さあ時間は限られる。槇さん。決断されるがいい」


 それはまるで、死刑宣告でも受けかのような話だ。槇は目の前が真っ白になる。心拍数が跳ね上がって、澤井を見ているはずなのに、それがうまく脳内で像を結ばない。

 

 ——ああ、雪。おれは一体、どうすればいい?



***



 知っていた。横沢は知っていたのだ。こうなるということを。どんなことをしても、結末は決まっていたのだ——。


 野原はソファに小さくまるまって座っていた。


 廊下で発作を起こしたのだ。有坂が薬を持ってきてくれたので、なんとか治ったが、体調は悪いままだった。おかげで係長たちに帰らせられたのだ。


 槇がいない部屋は広い。選挙前——こんなことになるとは思ってもみなかった。


『絶対に安田を再選させてくる。なあ、雪。そうなったら祝ってくれるか? おれを労ってくれるか』


 槇と肌を触れ合わせたのはいつだ?


 二人の間には、まるで乗り越えられないような高い壁が横たわっている。


 ——遠い。実篤が遠い……。


 横沢とはなにもなかった。そう。なにもなかったのだ。しかし——。


『あいつは、おれたちのことを疑うんだ。きっと、ずっとだ。そういう男だ。臆病で、自分に自信がなくて、お前に依存している。お前を失うことがなによりも恐ろしいだろう。お前は、そんなどうしようもない男と共にいることを選んだ。わかるな? 雪。お前には、これから地獄の苦しみだけが待つんだぞ』


 横沢の言葉。彼は野原に口付けをした。ただそれだけだった。槇が想像しているようなことは一つもないのだ。


 横沢は澤井に完敗した。作戦は失敗だった——と。しかしそうではない。槇と野原に、確実に復讐を遂げたのだ。野原自身が、槇に信じてもらえないのではないか、という思いでいっぱいなのだ。


 ——地獄の苦しみ? ああ、これが苦しいってこと。


 槇は賢くはない。ただ一つ。野原が今まで一緒にいられたのは、彼が自分のことを信じ、そして大切に思ってくれていたから。ただそれだけだ。


 槇実篤という男がどんな人間でも、野原はいいのだ。とてつもなく賢くしても、とてつもなく馬鹿でも。野原にはどうでもいい話だった。


 家族の愛も知らない。そんな自分がこの場所にいてもいいのだ、と言ってくれるのは、世界中で彼しかいなかった。


 野原にとったら、槇は命よりも大事な存在だ。だから、彼が野原のことを認めない世界に、自分は存在する意味がない——。


 ——これが、怖い? さみしい? 苦しいって気持ち。


 こんな気持ち。過去にも抱いたことがある。


 ——そう。中学生の時。


 槇が自分から離れ、横沢たちと仲良くしていた時。野原は、ずっとこんな気持ちに苛まれていたことを思い出す。あの当時は、この気持ちがなんであるのか理解できなかった。しかし今ならわかる。


 槇の帰らない家で、こうして一人で過ごす時間は、野原にとって苦しい時間だ。涙がぽろりとこぼれた。


「おかしい。涙というのは、悲しい時に出る。ああ、悲しい? 実篤がいないと——」


 ——こんなにも世界が、くすんで見えるのだろうか?


「雪」


 はっとして顔を上げると、そこには槇がいた。槇がこんなに早い時間に帰宅するなど、ここのところなかった。彼はまるで血の気のない顔色だった。目だけ爛々としていて、どこか狂気じみた表情に、野原は息を飲んだ。


「体調はどうだ。早退したって聞いたから。おれも早く帰ってきた」


「大丈夫だよ。大げさ。忙しいんだから、そんなことしなくていいのに……」


 そう言いかけて、野原は息を飲む。槇がすぐそばにやってきたからだ。彼の熱を感じると、心がざわざと波打った。


 槇の匂いが、槇の熱が。とても懐かしくて愛おしいはずなのに。今はそれが怖い。野原の奥底に刻み付けられたきずは、まるで痂疲かひのように、できては剥がれを繰り返し、癒えるどころか、その傷を深くする。


「実篤。ごめん、それ以上は近づかないで」


「ねえ。雪。触れたい」


 覗き込んでくる槇の瞳は、まっすぐできれいに見えた。


 ——くすんでいるのは、きっと、おれの目だ。


「だめ。ごめん」


「頼む。触れたい。お前に触れたいんだ」


 槇の要望には、到底応えられない。野原は思わずからだを後ろに引くが、槇はそれを許さない。伸びてきた手が、野原の腕を握った。


 まるで頭のてっぺんからつま先まで、雷に打たれたような衝撃がからだじゅうを駆け巡った。


 ——だめ! 


「触らないで……ッ!」


 槇に触れられた悦楽と恐怖が、いっぺんに襲ってきて、野原のからだは大きく震えた。

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