03 受け入れられないのは誰か
「課長会議のお時間ですが。どうされますか」
横柄な声色に顔を上げると、そこには痩躯の男が微動だにせず立っていた。
「どうって、行かないって選択肢あるの?」
眠い目を擦ってそう答えると、男——有坂は「ええ、ございますとも」と偉そうに答えた。野原は「ふふ」と口元を緩める。
「有坂って面白い」
「面白くありません。それに、課長の面倒をみるという業務命についても、同様に面白くありません」
「ごめん。渡辺さんに命じられた?」
「渡辺係長から、きちんと課長の面倒をみるようにと申しつけられました。おれの日常業務は他の者がこなしてくれるとのこと。戦力外通告をされたみたいで、大変面白くありません」
「そう。有坂は戦力にならない?」
野原が尋ねると、彼は珍しく眉を吊り上げた。
「それ、本人に聞きますか? 普通」
「そう? おれは有坂は十分、戦力になってくれていると思うのだけど」
有坂は少々、目元を赤くした。
「照れているの?」
「ですから! 直接尋ねないでください。答えに窮します」
「ごめん」
素直に謝罪をすると、有坂は余計に居心地が悪そうに視線を背けて、咳払いをした。
「もう戻っていい。別に一人で大丈夫」
「渡辺係長には、一時も離れるなよ、と申しつけられているのです。上司によって意見の相違があるというのは、部下として一番困る状況です。申し訳ありませんが、どちらかに統一していただきたい」
——そうか。断ると有坂が困るのか。
野原は席を立つ。
「では致し方ない。有坂、課長会議への同伴を許可する」
「え! 置いて行ってくださいよ」
「だって渡辺さんにそう申しつけられているんでしょう? 渡辺さんの顔を立てないと」
「課長がそんな建前を重んじるとは思っても見ませんでしたよ」
有坂は歩きだす野原の後ろでぶつぶつと文句を述べている。
「有坂こそ、どっちなの? 渡辺さんに『有坂はいらない』って言ってほしいの?」
「それでは、おれが無能みたいじゃないですか」
「じゃあ仕方ないね」
——変な人。
先日から、なにかと有坂がくっついてくるのは、渡辺から言い渡されてるからだ。野原の状況について、澤井と槇から聞いた係長たちは、野原がフラッシュバックを起こさぬようにと、細心の注意を払ってくれていた。
野原のデスク横には、空き箱が設置され、書類は直接手渡すことなく、そのボックスを通じて行われる。会議などには、彼のことを理解している職員が同伴し、人と接触するような場面を代行してくれているのだ。
——そんな大げさにしなくていいのに。
これでは一人前ではない。「いつかは治る」と主治医には言われたが、その「いつか」が明日なのか、それとも数年かかるのかわからない。こんな状況で仕事をしてもいいものか。正直迷う気持ちが強い。
定期的に受診し、医師と話をする。自分の気持ちを見つめるのだ——と言われても、それは野原が一番難しいことでもある。
後は、「自分は大丈夫だ。安全地帯にいるのだ」と言いきかせる練習と、薬物に頼るしかないのだそうだ。
——安全だ。そんなこと知っている。けれど。
野原の気持ちが落ち着かない要因の一つは槇である。あれから槇との関係性に大きな溝ができた。横沢の言う通りだった。
槇の瞳は自責の念と、疑念の色が複雑に入り混じっていた。彼は、今回の件は自分の責任だ、と思っていると同時に、野原と横沢のことを疑っているのだ。その瞳にぶつかってしまうと、野原は言葉が出なくなってしまった。
野原には、槇のその気持ちを解く方法が皆目見当もつかない。言葉とは難しい。自分の思っていることを口に出す質ではあるが、その思っていることの正体がわからないと言葉にすることができないのだ。
課長会議のある会議室へ向かう道すがら、槇を見つけた。彼は外勤からの帰りのようだ。市長と、秘書課の水戸部とで歩いている後ろ姿を見かけたのだ。野原は思わず足を止めた。
水戸部と冗談でも言っているのだろうか。笑みを見せる槇の横顔は、ここ最近、野原に向けられないそれだった。
「課長?」
立ち止まった野原の異変に気がついたのか、有坂が名を呼んだ。
「なんでもない」
野原はそう言ってから歩きだすが、有坂は野原の視線の先を確認したのか「槇さんですか」と言った。
「喧嘩ですか」
「喧嘩?」
野原は驚いて有坂を見上げる。彼は無表情のままそこにいた。
「出過ぎたことかも知れませんが。槇さんがあなたを支えられるとは思えません」
「有坂……」
「槇さん、随分と庁内に残っておられるようだ。こんな大切な時に、あなたを一人にするなんて、おれだったら信じられないことですね」
「槇は……忙しい。おれよりも抱えているものが大きい」
「大きい小さいの問題ではありませんよ」
有坂はぴしゃりと厳しい声色で言ってのけた。
「気持ちがあるかどうかの問題なのです」
「気持ちが、ある? ない? どういうこと?」
「あなたを思う気持ちがあるかどうか、ということです」
——実篤の気持ちは、もうここにない? おれのこと、どうでもいい?
「おれには事情はわかりかねます。しかし人に触れられるのが怖いって、槇さんのことを受け入れられないってことなんじゃないでしょうか」
「さ、実篤を?」
「そうです。あなたが拒否しているのは、他の誰でもない、槇実篤って人なのではないでしょうか」
心臓が早鐘のように激しく脈打つ。有坂の言葉が耳から離れない。
——実篤のせいではない。実篤のせいではない。そうだ。自分自身の問題だ……!
野原は思わず壁に手を着いた。
「課長!? すみません。大丈夫ですか!」
息が吐けなかった。
——そうだ。実篤の目じゃない。そこに見ているのは、自分の心……。おれ自身が、実篤を受け入れていないんだ。
「薬、薬を、持ってきます!」
有坂の声が遠くで聞こえる。野原はその場にうずくまってしまった。
——おれは、実篤に後ろめたい気持ちを抱えている。横沢とのこと、ちゃんと話をしていないからだ……。
「大丈夫ですか?」
「あの!」
周囲にいた職員たちも心配気に声をかけてくる。
——気持ち悪い。触らないで。気持ちが悪い……。
野原は廊下にうずくまって目を閉じる。世界がぐるぐると回っているようで、気持ちが悪かった。
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