02 悪夢



 市民病院の正面玄関に車を乗りつけた。運転席から降りて、その場で待っていると、自動ドアを潜って野原が姿を現した。体調がよくなったとは言え、陶器のような肌は蒼白だ。


「実篤」


「すまない。せつ。ずっと会いに来てやれなかった」


「ううん。当選おめでとうございます」


 彼は力ない笑みを見せた。彼の手から荷物を受け取ろうと手を伸ばすと、野原は弾かれたように手を引いた。


「ごめん」


 槇が咄嗟に謝罪をすると「聞いたの?」と野原は目を瞬かせた。


「おばさんから聞いた。お前に触れちゃダメなんだって。ごめん。おれ不器用だから、お前に触れないように努力するけど。上手くいくかな……。それから——今回の件だけど……」


「いい。実篤」


 野原は首を横に振った。それから「——実篤。あのね。横沢とは……」と言いかける。それこそ聞きたくない話だ。今度は槇が、野原の言葉を遮った。


「雪。もういいんだ。その件はもういい」


「でも——」


 戸惑ったような瞳の色を見せる野原に、無理に笑顔を作って見せる。


「ともかく。車に乗れよ。疲れただろう? 送るから」


「送る?」


「ごめん。まだやることがあってね。お前のことを家に送ったら、すぐに事務所に戻る」


 野原はしばしの間をおいてから、首を横に振った。


「ごめん。そうだよね。忙しい。実篤はまだ選挙の後始末あるでしょう。いいよ。行って。一人で帰れるから。ちょうどタクシーがいる。荷物もこれだけ。大丈夫」


「しかし——」


 言葉では否定的なことを言っても、心では安堵している自分がいる。野原とどう向き合ったらいいのかわからないのだ。二人切りになった時。なにを話したらいいのかわからなかったのだ。


 槇の表情が緩んだのかも知れない。野原は表情を変えることなく、押し黙ったまま、客待ちをしているタクシーに乗り込んで消えた。


「なにやってんだ。おれは……」


 野原を引き留めることもできない不甲斐なさ。槇は大きくため息を吐いて頭を掻いた。



***



 あれから槇は、澤井に事情を説明した。もちろん安田には内密に、だ。


 安田という男は情に厚い。今回の再選について野原が犠牲になったことを知れば、市長を辞職する、と言いかねないからだ。安田には「野原は無事に保護されている。特に問題はなかった」と伝えてある。そのため、野原のことについて対応をする時は澤井と相談する他なかったのだ。


 澤井は野原の現状について理解を示し、それから彼の部下を呼び集めた。参集したのは係長クラスである。槇はその席で野原の状態について説明を行い、日常業務に支障がないよう、配慮を求めた。そもそも部下たちからは慕われている野原だ。野原の事情を知った彼らは、快く対応を検討してくれるということだった。


 なのに——。自分だけがまだ彼と向き合えていない。


「ただいま」


 槇が玄関の扉を開けると、室内は真っ暗だった。


 選挙戦が終り、安田の第四期目が始まった。選挙戦の事後事務も落ち着き、本来であれば、そう忙しくもないはずなのに。槇の帰宅時間は日に日に遅くなっていた。野原とどんな会話をしたらいいのかわからなかったのだ。


 腕時計を見ると、深夜の0時を回っている。靴を脱いでから廊下を進んでいくと、途中、寝室から野原の声が漏れ聞こえてきた。


 寝室を覗き込むと、彼は何度も寝返りを打ち、苦しそうな声を上げていた。


 ——悪夢を見ているのだろう。


 PTSD特有の症状の一つだ。手を伸ばし、そばにある薬を見つけると、野原はからだを起こしてそれを服用した。肩で息をして薬にすがる彼の元に駆け寄って抱きしめてやりたい。そう思ってもからだが動かなかった。


 ——情けない。おれは。雪を一人にしている。雪から逃げているんだ。


「実篤?」


 物音に気がついたのか、野原の声が聞こえた。


「ああ、すまない。今帰った。……雪。大丈夫?」


 ——大丈夫なはずないのに。バカか。大丈夫と尋ねたら『大丈夫』って返すに決まっているのに。


「大丈夫。薬飲めば落ち着くから……。驚かせた?」


「いいや。違うんだ。あの、おれは……」


 言葉が続かない。しばらくの沈黙の後、槇は諦めた。


「すまないな。風呂入ってくる」


「お疲れ様」


 ——なんてよそよそしい会話だ!


 ごそごそと野原が布団にもぐり込む衣擦れの音を後にして、槇はリビングに向かった。


「くそ、なんなんだよ……本当に」


 キッチンには、ラップがかけられている卵焼きが置いてあった。野原が唯一作れる料理だ。槇はそれを見下ろして、憤りに支配された。


 ——なんだよ! 本当に……っ。


 あの夜。梅沢市立病院の暗い廊下は黄泉比良坂よもつひらさかだった。野原を信じることができなかった槇は、彼を抱えて地上に戻ってこられなかった、ということだ。子どもの頃、約束したのに。約束を反故にしたのは自分だ。


 まるで迷宮に紛れ込んだみたいに、先が見えない。野原は槇の気持ちを知っている——。ここにいるのに、とても遠い。


 ——おれは、雪を信じてやれていないんだ……。



***



 ゆきの多い冬だった。灰色の空からゆきが次から次へと舞い降りてくる。そんな様子を眺めていると、安田が「実篤」と言った。彼が名前で呼ぶ時は「市長」ではなく、「叔父」なのだ。


せつの体調が思わしくないと、風の噂で聞いたんだけど。どうなの?」


 槇は、はったとして窓から安田へと視線を移した。


「やだな。悪くないですよ。どこで? 誰がそんなこと」


「いやね。噂だよ。噂。——本当に大丈夫なの?」


「大丈夫ですよ。叔父さん。仕事も休まず出ていますよ」


 槇は努めて笑顔を見せた。安田は槇の対応に安堵したのか、「そうか。じゃあ大丈夫だね」と言った。


「実はね。新年度から始めようと思っている農業部の新プロジェクトのリーダーに雪を据えようかと思っているんだ」


「え……?」


「ほら。えっと。なんだっけ? 二人の同級生の横沢くんが青年部の代表をしているって言うじゃないか。同級生同士で、新しいプロジェクトを進めていくなんて、いい話だと思うんだよね」


 叔父は時々天然だ——と槇は思う。彼は自分たち三人の過去も知らなければ、現在も知らない。確かに同級生という響きは聞こえはいい。


「雪には荷が重すぎますし、年齢的に時期尚早ですよ」


 槇はそう答えるが、安田は首を横に振った。


「そんなことはない。雪は課長としても優秀。人事からは昇進の話も出ているよ。昇進させるなら今回の人事はピッタリじゃないか」


「叔父さん。いくら雪が優秀だって、農業部に行くのは初めてです。そんな重要プロジェクトは、経験者がいいに決まっていますよ」


「そうかなあ」


 安田は納得していないようだ。自分のマニフェストの最優先事項を、信頼できる野原に任せたい、という思いは理解できるが、槇にとったら絶対に阻止しなければならない提案でもある。


 横沢が原因でPTSDになっているというのに、彼と顔を合わせる機会を作るわけにはいかない。槇は焦燥感に駆られてた。野原自身とも向き合えていないのに、周囲は自分たちをそっとしてくれはしないということだ。


「澤井くんにも相談してみようか」


「そうしてください」


 ——澤井さんならなんとかしてくれるはず。……ああ、まただ。またあの人に縋るのか。おれは……。


 槇は不甲斐ない自分に嫌気が差していた。







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る