第四幕

01 罪悪感


 公示が済んでしまえば、後は我武者羅に選挙戦を戦い抜くだけ。槇は、会う人、会う人に「その顔はどうした?」と尋ねられたが、「自転車で転びました」と言って、なんとか誤魔化す他なかった。


 投票日当日——。


 選挙事務所で、今か今かと結果を待っていた安田陣営に当選確実の報が入ったのは、深夜を回っていた。再選はしない、と言っていた安田も涙を流して喜んだ。やるからには、当選しなければ意味がない——。


 涙を浮かべ万歳三唱をしている事務所内を眺め、槇はどっと疲れを感じていた。


あれ以来。野原との連絡は途切れ途切れだった。後ろめたいのだ。野原に、どんな顔をして会ったらいいのかわからない。


 野原の入院が長引いた原因は、横沢の仲間だった加藤という女性の看護師が、彼の食事に細工をしていた、ということがわかった。


 加藤は病院を依願退職したそうだ。彼女がどこに消えたのかはわからない。加藤が去った後、野原の体調はみるみる回復していると聞く。


 久しぶりに届いた彼からのメールだと、退院は選挙から一週間が経つ明日だ、ということだ。


 選挙戦が終わっても、槇の忙しさは続く。

 祝辞への返信作業が待っているのだ。後援会事務所では、安田本人に書かせた信書を封筒に詰める作業で大忙しだ。


 選挙後に御礼をして回ることは選挙法違反であるため差し控えなければならないが、こういった作業は許容範囲だ。


 事務作業は苦手だ。不慣れな手つきで封筒を綴じていると、相馬が「うふふ」と笑った。


「槇さん。明日は私たちだけでもできますよ。後援会関係ですもの。みんな槇さんが忙しいのも知っていますし。野原さん、退院なんでしょう? この度は、本当に災難でしたもんね。退院の日くらい、一緒にいてあげたらいいじゃないですか」


 相馬は知らないのだ。槇の心の内を——。


 槇は大きくため息を吐いてから黙り込む。相馬は槇の沈黙を、どう受け止めているのだろうか。すると槇のスマートフォンが鳴った。野原の母親からだった。


 誘拐事件当日、彼女は学会で病院を不在にしていたが、病棟の看護師から報告が上がっていたそうだ。帰ってきた彼女に、野原が選挙戦のいざこざに巻き込まれたもいうことを説明したのは槇だった。


「それはせつの仕事の範疇でしょう? 私には関係ありません」


 彼女はそう言ったが、明らかに心配している声色をしていた。


 明日の退院のことかと思い応答すると、これから会いたいという呼び出しの電話だった。



***



 槇がやってきたのは、病院のはす向かいにある喫茶店『そら豆』だった。彼女は仕事中のようで、常盤色の術衣に白衣を羽織ったまま姿を現した。


「ごめんね~。あつくん。立て込んでいるの。手短に話すわ」


「おばさん。この度は、叔父の件で雪にまで……ご迷惑をおかけしました」


「それはこの前聞いたわよ。そう何度も謝らないで。私も同じ返答しかできないから」


 彼女は朱色の形のいい唇を横に引いて笑みを見せる。野原は彼女に似ている。瞳の色こそ違えど、形の良い二重の双眸。蒼白い肌の色も彼女と同じだ。


 野原の母親は、六十を過ぎるかという年の割に、艶やかな魅力がある。これで男が寄ってこないのは、その猟奇的性格によるものだ——と槇は思っている。


 彼女は容姿に反して、行動が粗暴だ。野原が足蹴りにされたり、踏みつけられたりしているのを何度も目撃している。槇にとっても恐ろしい女性である。


「悪いわね。選挙戦の後始末で忙しいんでしょうに。でも明日の退院前に、あなたには知っていて欲しいことがあるのよね」


「雪のことですね」


「そう——」と彼女は小さく頷いてから、コーヒーに視線を落とす。


「あの子。今回の一件でPTSDなのよ」


「PTSD?」


「心的外傷後ストレス障害。衝撃的な出来事を経験することで、心に傷を負う。震災や、犯罪被害者に多いと言われているわ」


「雪が、それに?」


「そうなのよ。あの子、自分の気持ちが一番わからないでしょう? だから余計にたちが悪いって、精神科の担当医が言うの。自分の気持ちを見つめることができれば、色々なことに折り合いがつくのでしょうけれど、それができない子だから」


「ど、どうなるんですか。雪は」


 槇は野原の母親から視線が外せない。動悸がした。


「人に触れられると、フラッシュバックが起きるらしいわ」


「フラッシュバック、ですか?」


「パニックを起こして、過換気症候群になるのよね。安定剤を処方してもらって、カウンセリングも受けさせているのだけれど、効果が期待できないみたい。明日退院して、篤くんとの家に帰ることになるんでしょうから。篤くんには、お話しておかないと。そして理解していてもらわないと、って思ったのよ」


「それって」


「ああ、大丈夫よ。触れなければ。誰にも触れられなければ大丈夫なの。あんな無感情な子なのにね。やっぱり監禁されていた時の恐怖が脳に刻まれたんでしょうね」


「そんな——。それって。治るんですか」


「さあ、どうかしらね。時間が解決してくれる問題でもなさそうよ。あの子が自分自身でどうにか乗り越えられるとは思えないしね。楽観視はできない状況よ」


 野原の母親は軽い調子でそう言い退けた。しかし彼女が心配していることを、槇は知っている。いつもは自信ありげな彼女の瞳は、光を失いくすんでいるからだ。


「篤くん。こんな状況に陥って、他人に触れられることを拒絶する雪を、それでも一緒にいてくれるつもりはあるのかしら?」


 彼女の言葉は、槇に現実を突きつける。


「あの子は、もう誰とも触れ合うことができません。言葉悪く言えば『まともではない』よ。それでも、あの子と一生伴に過ごしてくれるのかしら。私はあなたに、それを強要したくはありません。今まで一緒にいたから。今回の件は自分たちの一件が原因だから——なんて責任を負う必要もありません。あなたの心に直接聞きたい。そして、あなたの心で決めて欲しいの」


 ——おれが雪を捨てる? そんな、ばかな。


「きれいごとや建前はいりません。私たち家族とあなたの関係でしょう? 篤くんが、雪と別れるという選択をしたとしても、私はそれを支持します。あなたにはあなたの人生がある」


 彼女は声色を和らげた。


「私はね。確かに子育てもなにも両親に押しつけて、大したことをしなかった母親よ。でも雪のことは可愛い。あの子が幸せに過ごしてくれることだけが望みです。それと同時に、我が子のように篤くんのことも見てきました。あなたにはあなたの人生がある。雪と一緒にいることだけが全てではないはずでしょう?

 ——あなたは、安田市長の跡を継ぐべき人。雪と一緒にいたのでは、世間体もあります。あの子を、あなたに押しつけることはできないと思っています」


「おばさん……」


「すぐに答えを出さなくてもいい。明日退院しますから。あの子との生活を経験してみてから決めてもいいと思うわ。難しいようでしたら、我が家に送り返してちょうだい。あの子の居場所くらい、まだ我が家にはありますからね。恨み言なんて言いませんよ。それだけは伝えたかったの。じゃあ」


 彼女はそう言うと自分のコーヒー代をテーブルに置いた。


「市長の秘書さんにおごらせたり、おごったりしたら、後々面倒でしょうから。おいていきますね」


 ハイヒールを鳴らして立ち去る彼女を見送り、槇は冷めたコーヒーを見つめていた。


 ——おれが雪と別れる……だと? 


 あの夜の約束。果たせなかった。野原を連れ、黄泉の国から戻るべきだったのだ。なのに——。


 あの夜。自分は野原に触れることすらできなかった。罪悪感——。ずっとさいなまれているのはそれだ。野原は明日、槇と会ったら、どんな顔をするのだろうか?




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