07 バカな男



「まったく。この誘拐事件の顛末が、ガキの喧嘩の延長とはない。呆れてものも言えんな」


 腕組みをして、呆れた顔をしている澤井を見上げて、横沢は「喧嘩とはなんだ」と不満を述べた。


「おれは真剣に、梅沢市の未来を考えてだな——」


 しかしすぐに、澤井の射るような視線に口を閉ざす。横沢すら黙らせる澤井の圧力は凄まじい。


「貴様が農協青年部長の横沢だな」


 澤井と横沢は押し黙り、互いの腹を探るように視線を交わす。槇は二人の様子を静観していた。


「お前はいい目をする。気に入った。どうだ、おれと取引をしろ」


「あんたは?」


「副市長の澤井だ」


「あんたが——」


 横沢は口の中に溜まった血を床に吐き出した。


「あんたが噂の澤井。親父が、あんたにだけは気をつけろって言っていたっけ。へえ、なるほどね。確かに抜け目ない感じだな」


 澤井は「ふん」と鼻を鳴らす。どうでもいい話題のようだ。


「お前は市長に要望があるのだろう? 安田は農業系に疎く施策もお粗末だ。——と言いたいのだろう?」


「そうだ。それ以外になにがある」


 澤井は両腕を組んで、横沢を真正面から睨みつけた。


「おれたちは安田を再選させる。これは、だ。だからお前たちも協力しろ。見返りは期待していい」


「そんなこと、信じられるかよ」


 横沢は視線をそむけた。野生獣同士の戦いでは、視線を逸らしたほうが負けだ。横沢はその時点で敗北したのだ。


 澤井は彼の前にしゃがみ込み、声色を柔らかくした。


「今回の件。明るみに出れば、お前もただでは済まない。しかも青年部へのバッシングも起こるのだぞ。人間一人を誘拐したのだ。人道的な対応とは思えん。この件、チャラにしてやると言っているのだ」


 澤井は笑みを浮かべる。


「今回の件がおおやけになれば、お前たちだけではない、おれたちにとっても不利益だ。お互い様というやつだ」


「市長選にも悪影響ってわけだな」


「そうだ。今回の市長選は、つつがなく終わらせる。マスコミの喜ぶような話題ネタは提供したくない」


 横沢は視線を逸らしていたが、「ち」と舌打ちをしてから、澤井に視線を戻す。


「安田を推せばいいのかよ」


「そういうことだ」


 二人のやり取りを見ていた保住は「澤井さん」と難色を示した。保住の言いたいことはわかる。この一件を隠蔽するということは、横沢は無罪放免だ。野原への仕打ちを裁かれることはないのだ。


 ——あいつ。


 保住という男は、飄々としている。平気で敵を刺す冷酷さも持ち合わせているような男だ。だがしかし——。


 ——せつのために憂いてくれるというのか。


 保住のところで小さくなっている野原は、槇を見ていた。その目はもの言いたげだった。彼のしたことを無駄にしてはいけないのだ。槇はそう理解した。


「横沢、おれも副市長の意見に賛成だ」


 槇の言葉に保住は困惑した表情を見せた。しかし槇は続ける。


「選挙戦には傷をつけたくない。今回は安田の圧勝だ。その代わり約束しよう。安田の次期マニフェストには、第一次産業分野を重点課題として取り上げる。お前たちの要望通りにな」


「槙さん。頭がいかれているのではないか? あんたの大事な野原課長が、こんな目に遭わされたんだぞ?」


 ——保住。お前にはわからない。まっすぐに前だけを向いて生きていけるお前には、きっとわからないのだ。おれたちには、こうするしか道がない……。


 槇が押し黙っていると、澤井が保住を叱責した。


「保住。お前はまだ青い。そんな小さいことにこだわっていると、大きなものを見逃すのだ。今回の件、野原には悪いことをしたと思っているが、命には別条はないのだ。それよりなにより、選挙戦をいかにうまく乗り切れるか。今はそれに尽きる」


 保住は澤井に非難の視線を遣る。だが澤井が気にすることはない。彼はさっさと横沢に視線を戻した。


「いいか。こちらの要件は二つ。一つ目、農業青年部は今回の市長選、全面的に安田市長を支持すること。もう一つは、私設秘書である槇実篤の暴行事件のことについて口外をしないこと。正当防衛とは言え、選挙戦前に安田陣営の人間が民間人と殴り合いの喧嘩をしたなどということが、マスコミに知られたら大事おおごとになる。この二つを遵守するならば、今回の誘拐事件はなかったことにしよう。悪い条件ではあるまい」


 横沢は観念したかのように、両手を上げた。


「わかった。わかったって。あんたのその取引、受けるよ」


 澤井は「そうか」と言うと、ポケットからスマートフォンを取り出し、手早く電話をかけた。


「おれだ。決着ついた。そうだ。——手はず通りに事を進めろ」


 澤井はそのまま側に据えつけられているテレビのリモコンを押した。テレビでは、安田がすでに会見を始めていた。安田は出馬表明と、次期マニフェストでは、農業に力を入れる、と雄弁に語った。


 澤井は、時間になれば会見を開くように指示してきたのだ。しかも、出馬表明のだ。横沢を完全に抱きかかえることが出来ると確信していたに違いない。いや、抱きかかえられなくとも、ここで取り押さえればいいだけの話——。用意周到な男である。


「賢明な判断だったな。ここで断れば豚箱行きだったぞ。命拾いしたな。横沢。お前とはうまくやっていけそうな気がするぞ」


「親父が言っていた意味がよくわかったよ。あんたは敵に回さない」


 横沢の答えに満足したのか、澤井は腰を上げると笑みを浮かべた。


「これが大人の世界というものだ——。それにしても、ひどい有様だな。病院で手当てでもしてもらえ。テレビにはしばらく出られない顔だ」


 澤井は槇の顔を見て呆れた笑みを見せた。


「澤井さん。今回は本当に——」


「槇。おれは約束を守る男だ。お前の望むこと、叶えてやると言っただろう? 医師会や商工会議所はとうに押さえてある。建設関係はとある筋に頼んである。市民がいくら騒ごうと、知ったことではないということだ」


 ——この男は……帝王だ。


 槇は背筋がぞっとした。横沢は大きな声で笑いだす。


「馬鹿みてぇな話だな。選挙戦なんてお飾りだ。もう結果は決まっているって算段かよ。おれたちが、こんな騒ぎを起こしたところで、なんの意味もなかったってことか。——おい、実篤。おれたちはまだまだガキだな。敵わねえ」


「若いということのほうが強みだろう。おれには手に入らないものがある。それは若さだ。時間は巻き戻らない。お前たちが羨ましい。せいぜい今を謳歌するのだな。それから——くれぐれも内密にしろよ。保住」


 ここにいるメンバーの中で、未だに不満気な表情を浮かべているのは保住だけだ。澤井は保住に釘をさす。それから野原に一瞥をくれた。


「すまなかった。野原。お前が一番の犠牲者だな」


 保住の腕に支えられていた野原は、目を開けて顔を上げた。


「いいえ。副市長。丸く収めていただいて、ありがとうございます」


 野原はそう言った。そう言ったのだ。しかしその言葉は、槇の心に突き刺さった。槇の気持ちに重く伸し掛かってくる。


 ——まただ。また。おれは……雪に守られたのだ。


 澤井が出て行ったあと、野原は病棟から迎えにきたストレッチャーに寝かされて、搬送された。野原にかける言葉が見つからない。


 結局——。

 槇は野原を救えなかった。この場を収めたのは澤井だ。野原を犠牲にして、市長選はつつがなく執り行われる。槇は間に合わなかったのだ。


 救急外来に連れて行かれた槇と横沢は、並んで手当を受けた。悪びれることもなく、「おれたち、仲良くやろうな。実篤」と言った横沢が憎らしかった。










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