06 あの時の続き


 田口に対して女性看護師の放った声は辛辣だった。


「この死にぞこないめが! さっさとベッドで寝ていろ!」


 それはまるで、悪魔のような叫び声だ。一瞬、槇は足が竦むが、保住は怖気ずくことなく駆けていった。


「銀太!」


 保住の後ろにいた渡辺と谷口は一斉に、女性に飛びかかる。いくら体格がいいとは言え、長身の男には敵わない。あっという間に床に取り押さえられた女性看護師は、その顔に似つかわしくない罵詈雑言を並べたてていた。


「くそ! 離せよ! 薄汚れた手で触るな!」


「おとなしくしろ」


 渡辺たちが彼女を取り押さえたことを確認してから、保住は田口の元に駆け寄った。保住という男はいつでも冷静沈着。どんな場面でも臆することなく、飄々としているはずなのに。今の彼に、その欠片は微塵もない。顔色は蒼白で、取り乱し、周囲が見えていない。


「銀太、大丈夫か?」


 床に倒れ込んでいた田口を抱え起こし、興奮した様子で田口を見つめている。


 ——保住の宝物は田口だな。


「おれよりも、小西さんが。大丈夫ですか。小西さん」


 田口はそう言うと、最初に襲われていた男性看護師の名を呼んだ。彼は「いやいや参った」と頭を掻いて、床の上に身を起こした。あちらこちら爪で引掻かれたような跡が残っている。彼は「はあ」と大きく息を吐くと、槇たちを見た。


「それよりも、加藤がこんなに癇癪を起すんだ。やはり、この奥が怪しい。野原さんはこの奥に——」


 小西と呼ばれた男性看護師は、廊下の奥に視線を向けた。槇の緊張が一気に高まった。


 ——ここからは、おれの仕事だ。


 保住たちに見送られて、槇はごくりと喉を鳴らしてから、廊下の奥に歩みを進めた。


せつ……どこだ」


 独り言のように呟きながら、暗い廊下を進む。廊下の左右には病室らしき扉が続く。保住の話では、ここは感染症病棟だということだった。感染症患者が現れた時にだけ使用する病棟なのだそうだ。


 ——なんて不気味なんだ。


 辺りの様子を伺いながら、歩みを進めていくと、一番奥の部屋から橙色の光が洩れていた。


 ——いた。


 槇の緊張が更に極限まで高まった。ドアノブに手をかけ、中に顔を出すと、視界に飛び込んできたのは、何十年ぶりかに再会する横沢の姿だ。


 彼は昔と変わらずに逞しい体格をしていた。外での仕事も多いのだろう。こんがりと小麦色に焼かれた肌はギラギラとしていて、彼を野性的に見せていた。


 しかし——。横沢のそばに野原を見つけた。彼は鎖に繋がれ、そこにいたのだ。憔悴しきった表情は、まるで死人のように蒼白で、暗い影を落としている。乱れた服装に、横沢がしでかしたことを一瞬で理解したのだ。


 昔からそうだった。横沢が野原をいたぶっているところを見ると、血液が沸騰したみたいになって、意識が飛ぶ。損得など、どこかに消え失せる。我を失う、とはこのことだ——と槇は思った。


「横沢!」


 槇のからだが動く。気がついた時には、横沢に掴みかかっていた。しかし、気力がだけで勝てる相手ではない。あっという間に、横沢の腕に掴まれて、引き離された。


 槇は足元覚束つかずに後退する。横沢は槇に少しの隙も与えない。中学校時代の時のように、槇を床に張り倒すと、動きを封じるかの如く、槇の上に馬乗りになった。


「おう。久しぶりだな。実篤——。お前は変わらねぇなあ。相変わらず喧嘩が下手だ」


「クソ! 横沢! お前、一体、雪をどうする気だ! 市長選に雪を巻き込むなんて——卑劣だぞ!」


「お前が悪いんだぜ? いつまでも雪を抱え込んでいるからだ。雪が巻き込まれたのは、お前のせいだろう? 違うか? お前が私設秘書なんてしていなければ、雪は巻き込まれることがなかった——違うか?」


 横沢は槇を嘲笑うかのように続ける。


「お前は遅すぎた。姫を助ける騎士ナイトにはなれなかったってことだな。お前が雪を守ろうだなんて、おこがましいな。お前は守るどころか、雪に守られているんだぞ?」


 ——お前は雪に守られているんだ。


 横沢の声は、槇の心に深く突き刺さる。


 野原にも言われた。「守られたいんじゃない。守りたいんだ」と。


 ——一人よがりじゃないか。一人相撲をとっているみたいじゃないか。まるで道化だ。おれは一体。おれはなんのために、こうして必死に何にしがみつこうとしているのだ?


 ——おれが欲しいものはなんだ。


 ——雪を犠牲にしてまで欲しいものはなんだ。


 横沢の言葉に支配されてしまうと、からだが動かない。そんな槇の様子に気がついたのか、横沢は更に畳みかけるように言った。


「雪を譲れ。おれにくれよ。そうすれば手を引いてやるぞ。どうだ? 悪い提案じゃねぇだろう? どうせ雪を犠牲にするつもりなんだ。捨てるんだろう?」


 ——おれが雪を捨てる……だって?


 槇が目を見開いて横沢を見上げると、野原の鋭い叫び声が聞こえた。


「横沢! もう止めて。お前の目的は達成されたはず——、これ以上、実篤を責めないで」


 横沢は両手を叩いて笑いだす。


「お前。本当、ざまあねぇな。お前は昔から雪に守られているんだ。それに気がつかない限り、お前は本当の意味で、雪を守ることはできねぇんだぞ。情けねぇ男だな!」


 ——なんだと……っ。


「うるさい、なにがわかる! お前になにがわかる! おれは、おれは——」


 ずっとそう信じてきた。自分はなにも間違っていない。そうだ。間違ってなどいないのだ。


 槇は横沢を力任せに押し退けると、彼に殴りかかった。


 ——あの時のおれとは違うんだ。怖気づいて、手も出せなかった、あの頃のおれとは!


 槇の拳は、横沢の頬にぶつかる。横沢は少しよろめき、口の中の血を吐き出した。それから愉快そうに笑みを浮かべた。


「へぇ、いいじゃねえか。少しは喧嘩できるようになったようだな。来いよ。実篤。あの時の続きをしようぜ」


「実篤!」


 野原の声が耳に届くが、そんなものは関係ない。槇は横沢に殴りかかっていった。彼は軽々とそれを交わすと、代わりに槇の腹部に拳をねじ込んだ。呼吸が一瞬止まる。槇はそのまま後ろに吹き飛ばされた。


 ——くそ!


「まだまだだぜ。実篤」


 余裕の笑みを見せる横沢。彼が野原をいいようにしていたのかと思うと、怒りがこみ上げた。今の槇を動かしているのは、その憤りだけだ。他のことなど関係ないのだ。


 槇は横沢につかみかかる。二人はもみ合い、そして床に転がる。その間にも横沢の拳は、確実に槇のからだを痛めつける。だが、そんなものなど、どうでもいいことだ。槇の必死の拳は空を切るばかりではない。しっかりと彼の横っ面にヒットした。


 しかし——。


「貴様らはなにをしている! このクソガキ共が!」


 地獄の底から響いてくるかの如く、重いそして低い怒声に、槇と横沢の手が止まった。そして、二人はお互いに距離を取り床にしゃがみ込んだ。視線を向けると、病室の入り口に澤井と、そして保住が立っていた。保住は周囲の様子を伺っていたが、すぐに野原の元に駆け寄った。







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