05 黄泉比良坂



「おれが行くまでなにもするな」


 スマートフォン越しの澤井はぶっきらぼうに、そう言った。


「これは我々の問題で——」


 槇は口ごもる。言葉がうまく出ないのは、動揺している証拠だ。澤井は槇のことなど眼中にないのだろう。事務的に言葉を続けた。


「お前の問題ではない。お前たち子どもの茶番で収まらぬところまで来た。いいか。これは好機。横沢の息子は、お前と並んでバカだが、バカさのレベルが違う。横沢は単純バカだ。ヤツを上手く抱き込めれば、今度の選挙戦は確実だ」


 ——澤井はあいつを高く評価している、だと?


「野原のことは不幸だが、切り捨てろ。いいか。おれが行くまで手を出すなよ。野原を助けよう、だなんて思うな」


「な、あんた。なにを言っているのかわかっているのか?」


「当然だ。大きなことを成すためには、小さな犠牲が必要だ」


 槇は、言葉をぐっと噛みしめる。


 ——おれたちを救う話はどこへ行ったんだ!


「野原は上質な餌だ。野獣には餌を与えておけば大人しい。野原をうまく使い、横沢を抱き込め。どうせ、あの野原のことだ。自分がどういう立場にいるか、どう振る舞うべきかを重々、理解しているだろうな。幼馴染とはいえ、あいつはお前と違って、賢い男だ。野原の意思を無駄にするようなことにならぬよう。いいな。お前はなにもするな」


 澤井の通話は乱暴に途切れた。


 ——せつを切り捨てろというのか?


 槇は動揺していた。隣に座っている保住の視線が痛い。


「なにか? 澤井ですか」


「だ、大丈夫だ。問題ない。問題——ないのだ」


 槇はスマートフォンを握りしめて、車窓に視線を向ける。夜の街を背景に、ガラスに写っている自分の顔は、なんと情けないものだろうか——。


 必死に野原を救う方法を考える。澤井には策があるのだ。それなのに、槇は一体どうしたらいいのか、皆目見当もつかないのだ。なんとお粗末なことだ、と思った。


 ——横沢に会ったらどうする? どうするつもりだ? おれは……!


 槇の思考回路はショート寸前だ。目をぎらつかせて、跳ね上がりそうな鼓動を抑え込むように胸の辺りを握りしめる。息をするのも難儀するような緊張感に、槇の精神状態は極限に達していた。



***



 梅沢市立病院は、市役所から車で片道5分程度の場所にあった。槇の腕時計は6時40分を示す。安田の記者会見まで20分だ。


 ——横沢を止めるんだ。このおれがだ!


 槇は膝が震えるのを自覚した。


 横沢という男は、槇よりも大柄で身体能力が秀でている。中学校時代、横沢が暴力沙汰で退学になった際、槇は一切手を出さずに正当防衛という判断をされたので、助かった。しかし、事実を述べれば、槇は手を出さなかったのではなく、出せなかっただけ。横沢には一方的にやられただけの話なのだ。


 あれから月日は経過し、槇も一人前の成人男性に成長はている。しかしそれは、横沢も同様のことで。やはり彼には、喧嘩で勝てるとは到底思えなかった。


 そもそも、喧嘩など慣れていない男だ。中学生時代の遥か昔の記憶とは言え、横沢に殴られた頬がじくじくと痛みを発しているような気がしてならないのだ。


 ——そんなことは言っていられないじゃないか。


 怖気づいてしまいそうな気持を必死に奮い立たせるように、槇は自分に言いきかせていた。


 病院前に停車した公用車から降りた四人は、夜間出入口から建物内に入り、保住の案内で、病院内を急ぐ。田口から場所を聞いているのだろう。彼は迷うことなく、一般病棟とも、外来とも離れた場所に歩みを進めていった。


 夜間の病院とは、静かで薄気味悪いものだった。一般病棟とは離れた場所であるそこは、人の気配が感じられない。薄暗い廊下に、緑の非常灯の光だけが浮かんでいた。


「こちらです」


 暗闇で視界が不明瞭な廊下は、まるで地獄へ続く通路のようだ。槇はふと伊邪那岐いざなぎ伊邪那美いざなみの神話を思い出した。


 ——ここはまるで、黄泉比良坂よもつひらさかみたいじゃないか。伊邪那岐は、死者の国から伊邪那美を連れ出すことに失敗したんだ。


 ——ウジが湧いて、腐っていても。……絶対に手を離さない。


 野原はそう言ってくれた。

 

 ——おれはどうだ? おれは……、おれは雪を連れて絶対に戻る。自分の欲に呑まれてたまるものか!


 槇はそう心に決める。


 すると、真っ暗闇の奥から、人がもみ合っているような音や声が響いてきた。


 ——いる!


 奥に歩みを進めると、そこに体格のよい白衣姿の女性と、白衣姿の男性が揉み合っているところだった。


 女性は男性の上に馬乗りになり、拳を手あたりしだいに振り下ろしている。


 近くにいた田口が、松葉杖をつきながら、必死に間に入ろうとしているのを見て、彼女は田口に掛っていった。


 本来であれば、田口という男は体格がいい。身長は190センチを超えている長身で、体育会系だ。しかし今は松葉杖を両手についているのだ。自分よりも小柄な女性看護師に体当たりをされて、彼は容易に床に転がった。


「銀太!」


 保住の鋭い叫び声が、廊下に響き渡った。









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