04 犠牲を厭わない男
市長室は収まりようのない騒動に見舞われていた。話を聞きつけた幹部職員たちが、ああでもない、こうでもないと言い合っているのだ。そんな中、槇はずっと脅迫メールを眺めていた。
「槇さん。なにか不可解な点が?」
隣にやってきた保住もパソコン画面を覗き込んだ。
「心当たりがないわけでもないが」
「心当たり? やはり、そうであったか。やり方が姑息だ。あなたがたの関係性をよく理解している人間だと見える。この写真を見る限り——」
保住はメールに添付されている野原の画像を見据える。彼は、病院で貸し出されている病衣のままだった。目隠しをされて、首輪で拘束されている。
「誘拐犯は、野原課長を雑に扱う気はなさそうだな」
保住の言うことは最もだ。冷たい床に転がされているわけでもないからだ。やはり犯人は——。
「槇さん。あなたのその心当たりをみなに言う必要がある」
「しかし、まだ。まだ確信が持てないのだ……」
槇の中には、横沢の影がちらついているが、確証はない。どうしたものか、と惑っていると、パソコン画面に新着メールのマークが表示された。
「メールです」
保住の声に、市長室内がしんと静まり返った。
「読み上げます。信頼なる梅沢市長さま。さて、こちらの準備は整いました。残るはあなたしだいですよ。本日夜七時より、市役所内にて会見を開き、市長選への立候補を断念すると表明してください。その放送が確認できしだい、人質である
保住の声が止まると、室内は更に不穏な空気に包まれた。
「マスコミを呼んでくれ」
安田が低い声で言った。
「市長なりません」
同席していた人事課長の
「あなたは、再選しなければならないのです」
「もういいんだ。こんなことをしてまで、市長の座にしがみつく男でもない。みなが囁いているのを知っている。おれの時代は終わったのだ。おれは市長を下りることにするよ」
「市長!」
市長室内が騒然となる中、槇の疑念は確信に変わった。——犯人は、やはり。横沢。野原のことを名前で示すのが理由だ。
「槇さん?」
そんな槇の様子に気がついたのか。保住が声をかけてくる。
「保住、犯人は——」
そこで保住のスマートフォンが鳴った。彼は「田口だ」と言ってから、通話を受ける。彼は何事か話し込んでいたが、話が決裂したらしい。「銀太!」と田口の名を呼んだ保住は、「ち」と舌打ちをしてから、スマートフォンを下ろした。
「ち、あいつ……槇さん。病院にいる銀太からだ。病院内の状況等を勘案すると、犯人は病院スタッフの中にいる、もしくは協力者がいるのではないかという。そして、野原課長は、病院内にとどまっているのではないかと。そろそろ槇さんの隠していること、話してみてはどうか。辻褄が合うのかも知れない」
槇は固く頷いてから、口を開いた。
「雪のことを『せつ』と呼ぶ人間は、そう多くはない。あいつの家族。そして、おれの親族。——それから小学校時代の同級生の数名だ」
「小学校時代の同級生だと?」
「そうだ。おれたちの同級生に横沢という男がいた。不良グループのリーダーみたいな男で、ともかくなにかと言えば、雪にちょっかいばかりかけてきた奴だった。そいつが今。農協青年部の代表を務めている」
「農協青年部……」
保住は眉間に皺を寄せた。賢い男だ。今の説明だけで、あらかた把握したに違いない。だが槇は説明を続けた。
「そうだ。反安田の先頭を切って活動している男だ。横沢の実家は市内でも一、二位を争う五度の豪農。親子ともども、この分野ではそれ相応の力を握っている。今回の件は横沢の差し金に違いない。雪のことを名で呼ぶメールがそれを物語っている。あいつの狙いは、安田おろしだけじゃない。あいつはきっと——」
——雪にも手を出す気だ!
しかし、そこまで保住に話すことでもない。犯人が横沢である、と明らかにするだけで事足りる話だ。槇は言葉を濁す。
「ともかくだ。横沢が関わっているのであれば、雪の命は安全だが」
槇の煮え切らない言葉尻に、怪訝そうな表情を浮かべた保住は言った。
「つまりは、命の危機はないが、貞操が危ない、とでも言いたいのだろうか」
「お、おい。はっきりと言うなよ……」
——なんて奴!
「ともかくだ。病院にいる田口が色々と調べてくれているのであれば、それは間違いないのではないかと思う。おれは田口の言うことを信じて、病院に行く」
「ここはどうする?」
混乱している市長室と、時計を交互に見つめる。午後六時半。横沢を止めることができれば、安田の出馬断念会見も中止できるはずだ。自分がここにいてもなんの意味もなさない。今はそんなことよりなによりも、早く野原の元に駆け付けたい、と槇は思った。そんな彼の気持ちを汲み取ったのか、保住は「槇さん、行きましょう」と言った。
保住の言葉に槇は頷いた。それから上層部の騒動を静観している天沼に事情を説明し、その場を後にした。
途中、野原の部下である渡辺たちに出くわした。彼らも、病院に面会にいった際、野原が行方知れずになっていると聞いたようで、慌てていたようだった。保住はこの混乱の中でも、平常心を失うことなく、彼らに的確に指示を下す。
「病院にいる谷口さんには、そのまま待機を命じてください。渡辺係長はおれたちと病院へ向かいます。十文字は、他の二人を連れて市長室へ。マスコミ対応する人員が必要だ」
「承知しました」
大した事情も説明していないというのに、渡辺たちは、保住の指示に従った。
——これが市役所の組織。
保住は現在、別部署に異動になっているが、渡辺たちの彼に対する信頼は絶大だ。保住の指示を疑うこともなく、余計な質問もせずに彼らは遂行する。
槇には理解できないことだ。組織人とは、こういうものなのだろうか。そして、その中に野原も組み込まれているということだ。
野原の職務中の姿を思い出す。彼は毅然として、真摯に職務に向かう男だ。
——雪は……もしかしたら。
横沢の要求は安田の出馬断念だ。横沢は野原にも迫っているに違ないと思われる。そうなった時。野原ならどうするのだろうか——?
——雪のことだ。もしかしたら。
自分の身を差し出すことなど、いとわないのかも知れない。目的遂行のためなら、自らの犠牲など厭わない男である。感情の欠落が、危機管理の場面で、裏目に出るのではないか。槇はそれが心配でならなかった。
——雪のことを巻き込みたくない。そればかり考えていたはずなのに。
野原は巻き込まれた。自分はなんのために、権力にしがみつくのだろうか。野原を守るためだったはずなのに。これでは——。
——おれはバカだ。
渡辺が運転する公用車に乗り込み、槇は早る気持ちを抑えきれずにいた。
「渡辺さん。慌てなくていいですが、急いでください。安全運転でお願いします」
保住の指示に、彼は神妙な顔つきで「はい」と返答した。槇にとったら、永遠にも思われるくらい長い時間だった。しかしすぐに現実に引き戻される。ポケットのスマートフォンが鳴った。画面を見ると相手は澤井だった。
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