03 ヒーローになれない男
横沢の声は、まるで悪魔の囁きのようだ。野原の脳に直接語りかけてくる。
「お前は
「そんなこと、知っている——」
——知っている。実篤が、自分を救うために、安田の出馬を辞めさせるようなことになったのなら、おれはきっと。実篤を軽蔑する。
しかし野原の胸中には、別な感情が存在していることにも気がついているのだ。それがなんなのか。野原にはよく理解できない。困惑している野原の気持ちに気がついたのか。横沢はくつくつと意地悪な声を上げた。
「しかし、それを受け入れられないお前がいるのではないか」
「受け入れられない?」
「そうだ。実篤がお前を切り捨てずに、救ってくれるのではないかという望み、希望が、お前の中にあるんだ」
「そんなこと——。安田市長は再選すべきで……」
「わかってねぇな。
——愚問。そんなことは……。
しかし野原は、自分の指先が震えていることに気がついた。目隠しをされているので、それを目視することは叶わないが、自らのからだの感覚は理解できた。
「怖いんだろう? 雪。おれとこれからどうなるのか。いや、お前が一番恐れているのは、実篤がお前と市長選とを天秤にかけた時、『お前が選ばれないという事実』だ」
——ああ、そうそういうこと。
横沢に指摘され、自分の気持ちの意味を知った野原。その気持ちを自覚してしまうと、心がざわざわと波打った。
横沢の指が野原の後頭部にかかったかと思うと、目隠しが外れた。十数年ぶりに目にした横沢は、当時と変わりがない。何ものも恐れない果敢に挑むような視線は変わらなかった。
外仕事でこんがりと焼かれた小麦色の肌。短く刈った髪は、彼の野性味を際立たせている。
「おれを見ろ。雪。なあ、実篤はどう思うんだろうな。男は大事なものを穢された時、穢した相手に憎しみを抱くが、穢された物にも愛想を尽かすもんだ。いくら状況的にお前が同意をしなかったとしても——だ。実篤はああ見えて繊細な男だ。おれに穢されたお前を、今まで通り抱くことができるだろうか? 答えは『否』。それはお前が一番よくわかっていることだろう」
「横沢——。なにがしたい? 市長選なの。それとも昔のことへの仕返しなの。こんなことは意味がない」
「お前には意味がなくとも、おれには大きな意味があるんだ。ああ、もう市長選なんてどうだっていいぜ。どうせお前を人質にとったって、安田は出馬するんだろうよ。いいぜ。なんなら実篤に嫌な思いをさせてやりてぇ。そうか。おれがしてやりてぇのは、実篤への仕返し——だな!」
横沢は愉快そうに悲鳴にも似た笑い声を立てた。野原にはわからない。彼がどうして、そこまで槇に執着するのか。中学時代など、自分たちにとったら遥か昔の話だ。今を生きるのに、過去に囚われている横沢が、野原には理解ができなかった。
「どうして、そこまで実篤を嫌うの?」
「別に。附属中を退学になったことを根にもっているわけじゃねえ。別に好きでもない学校だったかな。けど、おれはあいつと似ているところがあるから、余計に腹が立つ。同じ穴の狢のくせに。すかしやがって。あいつが市長の私設秘書だって? 笑わせる。お前ひとり守れないくせに。粋がりやがって」
そこで野原は気がついた。中学生の頃、槇と横沢はいつも一緒に行動していた。野原の目から見たら、二人はそれはそれは旧知の仲のように見えて、自分は疎外感を抱いていた。それは二人が似ていたからだ、と横沢は言う。
——おれは、横沢のほうが羨ましい。実篤はおれといる時よりも、横沢と一緒にいる時のほうが楽しそうだった……。
横沢が本当に一緒にいたかったのは、槇なのではないか? ——野原はそう思った。
野原の中に一抹の不安が生まれる。本当に槇と一緒にいる人間が、自分でいいのかどうか? そう思ったのだ。
黙り込んだ野原の反応をどう受け止めたのか。横沢は愉快そうに声を弾ませた。
「困惑しているのか? なあ、お前は実篤との関係性に迷っているんじゃないか。あの頃のお前からしたら、想像もできない成長だな。人間らしくなって、本当に面白い。なあ、雪。公務員なんて詰まんねえ仕事、辞めろ。実篤のところになんかいるな。おれが養ってやる——」
彼はそう言うと、野原の首筋に手をかける。これから起こることが野原には理解できた。彼の瞳に浮かぶ情欲の色は槇のそれと同じだからだ。
「お前はもうあいつのところには戻れない。戻ったとしても上手くいかねぇ」
「横沢」
彼は私欲だけに支配されている獣と一緒だ——と野原は思った。
——実篤。
しばらく会っていない。ふと槇の顔を思い出した。それと同時に子どもの頃に読んだ物語を思い出す。窮地に陥るヒロインを助けるのは、ヒーローだと決まっていた。槇がヒーローにはなりえない。きっと間に合わない。槇という男はそういう男だ。いつもタイミングが悪い。そう——いつも、だ。
——そんな実篤と一緒にいることを選んだのは自分だ。致し方ない。
今の自分には成す術はないのだ。ただ身を犠牲にしても、選挙戦に傷をつけたくなかった。槇が大事にするものを、自分は守りたい。野原の思いはそれに尽きるのだ。そのためなら、どんなことでも受け入れる。
野原はただ押し黙って、横沢の指が自分に触れるのを待った。
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