02 雪ちゃん


 埃の匂いがした。だんだんと覚醒してきているのだ。瞼を開けてみても、視界は暗い。睫毛になにかにあたっている様に、自分が目隠しをされているのだということが理解できた。


 男と女の話し声が聞こえた。


「まだ目覚めないのはどういうことなんだ? お前。薬が強すぎたんじゃないか」


 少し掠れた男の声は、なんだか遥か昔にどこかで耳にした気がした。


「そもそもが弱っているんだから。仕方ないじゃない。こっちだって仕事で忙しいんだからね。一々呼び出さないでよ」


 女の声は加藤だ。病棟で世話になっていた看護師の加藤。


 ——そうだ。彼女が「検査に行く」と言って、やってきたんだ……。


 このおかしな状況に陥っている要因の一つは、加藤だということが理解できた。二人の会話を聞きながら、自分の状況を理解しなければならない、と思った野原は、自分のからだに注意を向けた。


 両手はからだの前で一つに束ねられている。肌に触れる素材からして、自分は病衣のままだということが理解できた。寝かされている床は冷たくもなく、固くもない。寝具の上だ。


「こんな危ない橋を渡らされるとは思わなかったわよ。報酬、もう少し上乗せしてもらわないと」


「うるせえ。とっとと仕事に戻れ。いいな。このことは誰にも言うんじゃねえぞ」


「わかっているって。私だって危ういんだから。誰に言うもんですか」


 加藤が部屋から出て行く音がする。男も一緒に出て行ったのだろうか? そっと周囲を伺おうと、首を曲げた瞬間。


「起きたか。——せつ


 男は親し気に自分の名を呼ぶ。顔を上げようとすると、首根っこを掴まれて床に押し付けられた。


「おれが誰だかわかるか? 雪」


「——誰……?」


「お前らしいな。お前はいつも周囲に興味がない。——あいつ以外はな」


 ——この男は、おれのことを知っている?


「雪。お前にまた会える日を心待ちにしていた。本来は別の目的があるわけだが。一石二鳥。我ながらいいアイデアだった」


「本来の目的?」


「そうだ。お前はいい交渉材料だよ。——市長とのな」


 野原は息を飲んだ。一瞬で、男の意図を理解したからだ。


「市長には身を引いてもらう時期だ。今回の選挙は辞退していただく。お前の身の安全と引き換えにな」


 男の指が野原の顎をなぞる。視覚情報を遮断されるということは、人間の恐怖心を煽る。野原のからだが一瞬、強張った。


「怖いか? へえ、あの無感動なせっちゃんが、『怖い』なんて思うんだ。意外だな。面白いじゃねえか。そう萎縮するなよ。命まで取ろうなんて思っちゃいないんだ」


 男の声が途切れたかと思うと、頬に男の熱を感じた。そして耳元近くで男の声が響く。


「——お前は……」


「思い出したか? 雪」


 野原の中に思い浮かぶ男は一人しかいない。小学校から中学校まで同じ学校だった男だ。槇との喧嘩で、中学校は中退。公立校に転校していった男——。


「横沢……」


「思い出してくれたんだ。嬉しいね。雪。おれはお前のこと、ひと時も忘れたことはなかったぜ」


 耳元で横沢が話す度に、唇が触れてくすぐったい。肩を竦めると、更に引き寄せられて耳朶を噛まれた。


「面白いな。あの頃とは大違いだ。なにしたって、黙ってじっとしていただけだったのによお。あの頃のお前は不気味だったな」


 横沢の舌が野原の耳の形をなぞる。野原は嫌悪感を抱いた。


「ただ黙ってじっとしているだけの人形だ。みんながお前に近づかなかったけど、おれはお前が気になって仕方がなかったよ」


「なにが気に食わない? おれはお前になにもしていない」


「だからじゃないか!」


 横沢の大きな声が、すぐ耳元で響く。心臓がドキンと跳ね上がった。野原は追い詰められていた。今まで生きてきて、ここまで恐怖を突きつけられたことはない。


 心拍数は跳ね上がり、額には冷や汗が滲んだ。手足の先は冷たくなった。


「クラスの奴らはお前の目の色が不気味だって言っていたけど、おれはそうは思わなかった。それよりなにより、伽藍としたその目は、実篤さねあつのことしか見ていなかった。それが気に食わなかったんだよ」


「実篤のことを見ていた? あの頃の実篤は、横沢たちに夢中だったじゃない」


「だからだろ? なあ、お前は気がついていなかったのかも知れないけど、お前はいつでも実篤を見ていたぜ。あんなバカ、そんなに好きか?」


「わからない。昔のことは、わからない」


 見ていたのたのだろうか?

 自分の元を離れて横沢たちと過ごす槇を、野原は見つめていたのだろうか?


 野原は当時を思い出そうとするが、それは霞かかっているようにぼんやりとしていて形をなさなかった。


「じゃあ、思い出せよ。思い出させてやるぜ。昔話くらいする時間はあるぜ」


 横沢の言葉は悪ふざけの色を含んでいる。野原は首を振り、横沢から逃れるようにからだを捻った。


「悪ふざけはやめて。おれのことを使ったって、市長の出馬は止められない」


「それはどうかな。お前は今でも、実篤の大事な大事な宝物だろう? 安田市長だって、お前は可愛い甥っ子の家族だ。お前を人質にとれば、それ相応にいうこときくだろうな」


「そんなこと。絶対にさせない——」


 野原は珍しく動揺していた。自分が原因で安田の再選の道が閉ざされるなど、許されないからだ。横沢につかみかかろうとするが、首に巻かれたベルトに阻まれた。まるで大型犬でも繋いでいるような首輪だ。


 ——おれは犬か。


「出馬断念が市長の意思であるならば致し方ない。しかし、こんな卑劣な交渉のテーブルに市長は着かない。こんなことをしても、そもそもが無駄な話」


「そう怒るなよ。雪。安田が失脚すれば、実篤も役所を去る。お前はそれが耐えられないのだろう?」


 突然、からだが前に持っていかれた。横沢が力任せに野原を引き寄せたのだ。


 横沢の指はなぞっていた顎から首元に降りる。視覚を遮られただけで、相手の行動の予測が立たない。横沢が触れてくる感触が突然過ぎて、からだの準備が間に合わない。


「……っ、違う。それは違う……」


「違う?」


「おれは……」


 病衣の胸元に到達した横沢の指は、悪戯に鎖骨を撫でる。野原は口をぎゅっと噤む。


「ずっと想像していたんだよ。お前がどんな風になっているんだろうって。あれから、お前を実篤が独占してきたと思うと妬けるぜ。全部見せろ。お前がどう成長したのかを」


 こんな常軌を逸した男を相手にする必要はない、と頭の中で警告が響いた。





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