第三幕
01 混迷
その日。曇天の空からは今にも雨が降り出しそうな一日だった。
槇は市長の付き添いで会議の席にいた。市長選前とはいえ、市長の公務は粛々と進められる。つい一時間前までは、戦没者追悼式に参列していた安田だが、今は土地改良推進会議の席にいるのだった。
市長のスケジュールは多忙だ。外回りをしていない時も、会議や議会などに時間がとられる。実際の事務作業は秘書課に任せ、安田はフットワーク軽く、あちこちに顔を出さなければならないのだ。
地域の有力者たちとの懇談会をこなす安田を遠巻きに眺めながら、槇はうたた寝しそうになる自分に気合を入れた。ここのところ不眠不休での選挙活動だ。さすがに疲労の色が濃い。
船を漕ぎそうになり、はったとしてから咳払いをする。誰も槇ことなど気にする者はいない。首を横に振ってから、安田に視線を戻した時、槇のスマートフォンが鳴った。
着信元を見ると副市長室直通の番号。澤井からの直々の連絡は珍しいことで胸騒ぎを覚えた。
槇は同行していた、秘書課秘書係長の
誰もいない廊下に足を踏み入れ、スマートフォンで折り返しの連絡を入れると、すぐに澤井付きの秘書課職員、
『槇さん、落ち着いて聞いてください。野原課長が誘拐されました。市長宛に、今回の市長選を辞退するように、という文面と、野原課長の写真がメールで届いたのです。現状把握に努めておりますが、なにせ情報が少なすぎます。副市長が対応中ですが、やはり市長にはお戻りいただかないと——緊急事態です』
——
目の前が暗闇に包まれるというのはこの事だった。足元をすくわれたような気持ちになる。膝がガクガクと震えた。
『——槇さん? 聞こえていますか? 槇さん!』
天沼の声に我に返った。取り落としそうになったスマートフォンを握り直し、槇は「すまない。承知した」と低くい声で返答した。
通話は途切れる。握りなおしたと思ったスマートフォンが床に滑り落ちた。指先がぶるぶると震えた。
——あの時……。雪がどこかに行ってしまうような気がしたんだ。
槇の予感は的中したというのだろうか。いや、そうではない。そうしてはいけない——。槇は自分に言いきかせた。
——大丈夫だ。雪は絶対に取り返す。相手がだれであろうと。
槇は深呼吸をして、それから会議室に戻る。地域住民の言葉に耳を傾けていた安田のところに近寄り、事情を耳打ちした。安田は驚愕の表情を見せた。水戸部はその異変に気がついたのか、さっそく腰を上げた。
「会議は早々に打ち切り。帰庁する」
安田は会議を中座し、本庁に向かった。
***
いつかはこんなことになるのではないかと危惧していたのだ。
昨年、人事課の
ここに自分がいる限り、野原が巻き込まれないという保証はなかった。しかし今まで、なんとなくやり過ごしてきたせいで、心のどこかに甘えがあったのかも知れない。予測できないことではなかった。予測したくなかっただけの話だ。
元々、嫌なことからは目を背け、逃げるタイプだ。自分に甘い人間だ、ということは重々自覚している。しかし、こうなってみてから後悔しても遅いのだ。
——一緒にいることで、雪に迷惑をかけ放題なのは昔からだけど、こんなことになるなんて!
帰庁してみないことには状況が把握できない。道すがら、安田も槇も言葉を交わすことはなかった。
市長室に足を踏み入れると、そこには澤井、天沼。それから、市制100周年記念事業推進室長の保住がいた。
——なぜ保住が?
槇は腑に落ちないが、安田はそれどころではない。取り乱し、澤井に状況の説明を求めた。
安田は甥である槇と同じくらい、野原のこともかわいがっている男だ。野原が誘拐されたという事実は、彼の平常心を乱すには、効果的な出来事である。
天沼からの説明によると、野原が誘拐され、脅迫メールが届いた、ということだった。
この件に関しては、野原と病室が一緒である田口からも報告が上がってきているという話しだった。彼からの報告は保住に上がる。そのために、保住がここに同席しているということを理解した。
一通りの状況を聞いた安田は即決で「市長選は辞退する」と言い出した。
「市長! 落ち着いてください。それでは、相手の思うつぼです!」
槇は安田を宥めすかすが、心のどこかでは「そうして欲しい」という気持ちにもなる。野原の安否が気がかりだからだ。安田は申し訳なさそうに槇を見るばかりだ。
「しかし、
幹部職員や秘書課職員がいる中で、この安田の発言は不味いと判断したのだろう。副市長の澤井が舌打ちをしたかと思うと、安田を一喝した。
「ここで取り乱してもなんの解決策にもならん。市長、我々は暴力には屈しない。それしか道はないのですぞ!」
彼の声は地に響くような重みがあった。彼の言いたいことはわかる。しかし野原を切り捨てるという選択を、到底受け入れられない自分もいる。
「野原には悪いが、この要求を呑む必要はない。多きを助けるための犠牲は、いつの世にも付き物である」
澤井の毅然とした言葉に、安田はポカンと情けない表情を浮かべたが、すぐに槇を見た。その目は「すまない」と言っているようだった。
——雪を切り捨てるしかないのか? 雪がどうなってもいいとでも? いや、仕方のないことだ。市長が脅迫に屈するなど言語道断だ。我々はそんなものに屈してはいけないのだ。
それは理解している。しているのだが……野原を助け出さなくてはいけない。大事なものが手のひらからこぼれ落ちていく感覚に、槇は恐怖した。
大人しくなった安田に、澤井は今後の対応についての説明を始める。
槇は諦めきれなかった。なんとか野原を救う方法はないものだろか。槇はパソコン前に立ち、問題のメールを食い入るように見つめた。
メールが送られてきたのは、今から30分前だ。
『親愛なる梅沢市長様。
この度、あなたの大事な職員をお預かりいたしました。彼の無事を保証する代わりに、あなたの市長選への立候補を見送っていただきたい。それに加えて、私設秘書である槇さんについても同様の要求をいたします。取り急ぎ、ご連絡まで。すぐに次の指示を出す。
梅沢市革命組より』
「ふざけたメールだ」
槇は呟く。
——おれのことにまで言及するとは、かなり事情を知っている奴だ。安田の代わりにおれが出ることも差し控えろ、ということか。
槇の頭の中にはひとりの男が浮かんでいた。
——横沢……。
あの父親の言葉が耳から離れないのだ。
「私はね。物分かりがいいほうだが——我が息子はそうでもない。まあ、ろくでもないことをするな、とは忠告してあるが——。
——くそ、落ち着け。落ち着け、おれ! 雪、お前は一体、どこにいるんだ?
市長室の時計は、無情にも時を刻む。
——雪は体調が悪いんだぞ? どうやって病院から連れ出すと言うんだ……。こんなことなら、やはり引き取っておけば良かった。
正直、槇にはどうしたらいいのかわからない。
——おれに、雪を切り捨てさせるつもりか? 横沢……お前なのか? 犯人はお前なのか?
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