その四

 千駄ヶ谷のそのアパートは、築三十年だというが、落ち着いたレンガ色の外観の古風な造りだった。


 三階の南の端の2DKに、彼女は一人で住んでいるという。


 ドアチャイムを鳴らし、顔を覗かせた彼女に認可証ライセンスとバッジを示し、貴方の息子さんとその婚約者からの依頼を受けた探偵だといっても、別に疑いもせずに自然に俺を部屋なかに通した。


 室内は整理整頓と掃除がなされている。現在はここで暮らし、歩いて十分ほどのところにあるブティックで雇われ店長をしているそうだ。


 彼女・・・・現在は旧姓である佐橋美奈子・・・・は、俺をリビングに招き入れると、アイスティーとクッキーを出してくれた。

 現在、年齢は五十代半ばを過ぎている彼女は、確かに美しくはあったが、頬がこけ、やつれているので、歳よりもはるかに老けて見える。


『あの子が私を憎んでいる気持ちは良く解ります。当然ですよね』

 俺と向かい合って座り、彼女はため息と共にそう言った。

『そのことで言い訳をするつもりはありません。確かに私は不倫をし、夫と息子を棄てたんですから・・・・』

 また黙った。

 俺が泰と明美の写真をみせると、

『そう、結婚するんですね。良かった。可愛いらしいお嬢さんで』

 テーブルにカップを置き、ガーゼのハンカチで目頭を拭った。

『前の主人・・・・泰の父親は働き者でとてもいい人でした。でも仕事が忙しくて、あまり家庭にいなかったもので、魔がさしてしまったんです。』

 二度目の夫も決して悪い人間ではなかったが、彼が求めていたのは『彼女』そのものではなく、彼女の『身体』であることに気づいた時、次第にすれ違うようになり、妊娠していた胎児を流産してしまったことが破局に繫がったのだと話してくれた。


『その後は良いことなんか何一つありませんでした。罰が当たったんですね。きっと』


 そこでまたため息をつき、目を伏せる。

『私、もう先があまり長くないんです』

 呟くように、彼女はそう続けた。


『長くない。とは?』俺が聞くと

『言葉通りの意味ですわ。膵臓癌だそうです。』


 診察をしてくれた大学病院の医師からは、良く持ってあと1~2年程度だと宣告を受けたという。

『もし私が何でもない普通の健康体だったら、逢いたくない。式にも出ませんって答えたかもしれません。でも、人間って弱いものですね。こうなってみると、遠くからでもいい、彼の晴れ姿を見てみたい。そう思ったりして・・・・ムシがいいと言われれば、それまでですけど』

 美奈子はそう言って、寂しそうな笑みを浮かべた。

『では、それをそのまま息子さんたちに伝えてもいいんですね?』


 俺の問いに彼女は無言で頷く。

『分かりました。そのようにお伝えします。それで万が一、息子さんが来ないでくれといったらどうしますか?』

『仕方がありません。身から出た錆ですもの。一人で息子の結婚を祝います。でも・・・・』

 彼女は、ちょっと失礼といって立ち上がり、洋服ダンスの引き出しを開けて、黒い小さなバッグを持って戻ってくると、中身を空けて卓子テーブルの上に並べた。

 銀行の預金通帳、印鑑、キャッシュカード。それから生命保険の証書などである。

『預金は本当にささやかなものですが、名義は息子にしてあります。カードの暗証番号も通帳に挟んであります。生命保険の死亡時受取人も、全部息子です。

こんなことで償えるなんて思ってはいませんけれど、これだけは渡してやってください。私が出来るせめてものはなむけですから』そう告げる声には、涙が混じっている。


『分かりました』

 俺はそう言って品物を預かり、預かり証を書いて渡した。

 








 

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