光を照らして
我が家に掛けられた絵の中で唯一の洋画。アクリルガッシュは岩絵の具とは違った華やかさを演出し、それが塗られたスペースを色とりどり鮮やかに浮き立たせる。敢えて暗く塗り込められた背景にピンク、紫、薄青、花屋のショーウィンドウさながらに牡丹や薔薇、金魚草といった花々が競い合うように咲き乱れ、モンシロチョウやアゲハチョウがヒラヒラと舞う。それでもやはりこの絵の主役もおんな。金色をベースに花々と同じ色のメッシュがまだらに入った前髪が眼の高さまで額に垂れ、鼻筋と口元を強調された丸顔の女姓が横向きに立っていて、絵を観る者の呼びかけに応じるようにゆっくりとしなやかな首を捻る刹那を、見事にキャンバスに写し取っている。アゲハの翅を頬によぎらせ、薄紫の薔薇を掌で包み込むようにして、むせ返るような花の香に酔うような妖しげな眼差しをこちらへ向け、僅かに開いた唇が今まさに音を奏でようとしている。その姿から女の年齢も生業も何も想像がつかない。彼女がこれから発する言葉とは‥‥
♢
「先生、お原稿拝読いたしました。今作も素晴らしい物語ですわ」
“先生”、何度呼ばれても周りを見回してしまう。”先生”って誰かに何かを教える人のことだよね。私は物書いて読者に買って頂き評価を受ける方だし、先輩たちに教えを乞うても、教えた例は一度もない。だからそう呼ばれるたびに背中がゾワリとしてしまう。
「ありがとうございます。桐山さん」
家の近くのコーヒーショップ。飲み物の載ったテーブルの向こう側で、黒のノーカラースーツの下にブラウンニットを覗かせたひっつめ髪の女性が優雅に口角を上げている。
「一部気になりました点に履歴を付けて、初稿はいつものフォルダにお戻ししておきました」
グレーのワイドパンツとジレに白無地Tシャツ、白コンバースの足元に視線を落とす私とじゃ、傍目からしたって先生はそっちでしょ。俊永社で私を担当する編集者の桐山さんは、私のほんとの人生の師と同じ45歳。新人賞を獲ってデビューした時から面倒を見てもらっているので、未だに頭が上がらない存在。クラウド上で原稿授受してるんだから、わざわざ電車賃とコーヒー代、それと彼女の大切な仕事時間を使って会いに来てニコニコしてくれなくていいのに。どうせ初稿には厳しい赤入れがいっぱいしてあって、その一つひとつが的確ではいはい私が悪うございましたというものばかり。あ~、データをクリックするのが怖い。お追従笑いを浮かべ逃げるように視線を逸らした先の大きなガラス窓に、次から次へと雨粒が滴り落ちる。今年の梅雨はしつこくて長い。
「本作の刊行は秋の読書週間前にと営業が力を入れておりまして、お身体大切な時期かと存じますが、お早めにご確認頂ければ幸いでございます」
桐山さんのタメ口ってどんなだろう?デビュー前の小娘時代からこの人の口調は変わらない。
「ご期待に添えるように改稿してみます」
「改稿なんて大層なお願いはいたしておりません。先生のセンスの良さとボキャブラリーの豊富さでさっとひと触りして頂ければ結構ですわ」
わっ来た~!この人はいつもこういう形で私のウィークポイントをついて、”気を付けなさいね”と注文する。子供の頃は別の道を歩んでいたため、私には絶対読書量が不足している。つまり語彙の抽斗が少ないんだ。知らない言葉は文章に編み込めない。書いてない時は翻訳物の海外小説を高校生が単語帳をめくるように読み漁り、言葉の断片を脳内フォルダにインプットしていく作業を繰り返しているのだが、生涯何万冊もの本を読んできた桐山さんを満足させるレベルには到達していないようだ。そんなことを考えてたらお腹の底から酸っぱいものが上がってきた。うぷ、退散退散‥‥
這う這うの体で微笑する悪魔(ごめんなさい)から逃れて家に辿り着き時計を見上げるともう五時を回っていた。夏至と梅雨、六月って不思議。雨が降り続き太陽は見えないんだけど、外はいつまでも仄明るい。白夜って体験したことないけどこんななのかな。体内時計の針が足踏みを始めて、次の動作に移れない。もぞもぞと作業デスクに取り付いてPCのスイッチを入れる。桐山さんに袈裟懸けにばっさり切られ、真っ赤っかになって返された原稿を開く積もりはこれっぽっちもなくて、空模様も胸のうちも憂鬱な逢魔が時、私のカンフル剤はこれしかない。よかった!回線が繋がり海の向こうのウィンドウが開く。
「おはよう!」
ウェーブのかかった黒髪をふんわりと下ろし、イタリアンカラーの横縞のカットソーを着た姐様がディスプレイに映し出される。
「グーテンモルゲン、フラウ・ワッサーマン」
「もう止めときなさい。あなたがドイツ語喋ると眉間に皺寄って怒ってるようにしか見えないんだから。ドイツ人みたいよ!」
「それ褒めてますか?」
ひとしきり二人して笑い合う最中、彼女の後ろをお盆を抱えたTシャツ姿の男性が横切り、こちらを向いて恥ずかしそうに手を振ってくれる。
「あっ、お食事中でしたか?」
「ううん、さっき済ませたわ」
「アルベルトさんのお盆に載ってたのお茶碗ですよね?」
「そうよ。うちの休日の朝はだいたい和食なの。彼、日本時代に味をしめちゃって、ご飯を炊いて欲しいってねだるのよ。今朝は鯵の開きに切り干し大根」
「そんな食材ドイツで売ってるんですね」
「デュッセルには日本人多いから何でも手に入るよ。この切り干しはこの間彩香から届いたやつだけど」
少し彼女と話すだけで私のストレス計の目盛りがストンと下がる気がする。ワッサーマン皐月さんは、私が頼りない少女から大人のおんなへと脱皮する時期に最も影響を受けた二人のうちのひとり。本人にそう言うと”何を大げさな”って鼻で笑われちゃうけど。三年前に古巣ドイツに再赴任し、しばらくして現地法人の社長に就任。そこまでなら彼女のキャリアやポテンシャルなら当り前のことだけど、サプライズは二年前に起きた。アルベルト・ワッサーマンさんは言語学者で、五年前に日独交流センターのプログラムで一年契約のドイツ語講師として来日した。その当時交流センターの活動をボランティアとして手伝っていた皐月さんを見初めてしまったようだ。三年前デュッセルの大学で講師をする彼は、赴任してきた皐月さんとの再会を天啓と感じ、熱烈に求婚。皐月さんも二人で送る新たな人生のスタートポイントに立つことを肯った。近郊の古城でささやかに挙げた結婚式に私も参列させてもらったけど、あんなに可愛らしい皐月さんの笑顔は初めて見た。その笑顔で私に向かって、
「おかしいなあ?男にも誰にも係わらず、頼らず一人で生きていくって誓ってたのになあ。そんな”決めつけ”の鎧が誰かさんのせいで剥げ落ちていて、そこを彼の愛の剣の一撃が刺し貫いたってとこ?あ~、自分で言ってて恥ずかしくなってきた‥‥」
頬を染めながらそう語りかける彼女の純白のウェディングドレス姿は忘れられない。そして私もその時決心したんだ。
「古橋さんもお元気なんですね」
「もちろん!本社の人事課長様のご活躍ぶりは海を越えて轟いていますわ。海外現法のスタッフへの新しい人事評価制度導入について、ついこの間もテレビ会議で散々に詰められてタジタジでした。そうそう彩香があなたにおめでとうって伝えてって。これでネックレスはあなたのものよともね」
首元にそっと手をやる。ディスプレイの向こう、皐月さんの後方の壁にもこのネックレスを身に着けた私が微笑むのが遠めにわかる。実は古橋彩香さんと直接お会いしたのは一度きり。私のあの絵が描かれてから二年後、私の卒展に皐月さんといっしょに来てくれた。
「初めまして、そしてご卒業おめでとうございます。これは私たち二人から」
ピンクの薔薇の大きな花束を私に差し出した後、薔薇と同じ色調のエレガントな膝丈ワンピースに身を包んだ古橋さんは、その日も私を飾ってくれていたネックレスをじっくりと眺め、それが彼女の手から離れたものであると認めて、百年に及ぶ来歴を静かに語ってくれた。ただ、なぜその由緒あるプラチナの鎖が今私の首に掛けられているのか、つまり古橋さんと長田先輩の接点についての言及は一切なく。私が後ろ手に留め金を外そうとすると、古橋さんがふわりとしかし素早く右手で私の手の動きを制した。
「ちょっと待って。私が皐月さんからこのネックレスが描かれた絵があるってお聞きしたのってかなり前ですよね?」
「そうだね。かれこれ一年半くらいになるかな‥‥」
長い脚を包むスキニージーンズに黒のタートルネックニット、同色の革ジャンを羽織るいつも通りの凛々しいいで立ちに反し、言い淀み自信なさげな表情の皐月さんを眼近にしたのはあの日だけ。
「そう聞いてきっと自分のものだって思った。だけど同時に忘れてしまいたいもの?出来事でもあったの。だから皐月さんにもへえ~って失礼な態度を取ってスルーしてた」
「それは違う、私がおせっかいだっただけだよ」
私は一言も差し挟めず、二人の視線を浴びたネックレスが熱を帯びて私の首を絞めつけてくるような錯覚。長田先輩の卒業個展のあの日と同じ。しかし次の瞬間、何の感情をも表していなかった古橋さんの顔に変化が訪れた。
「そんなことないですよ。気持ちが変わらなければ、ネックレスの彼女に会わせてくださいなんてお願いしません。自分の意志を持たずにふらふらしていた私の人生に、でっかい一石を投げ入れてくれたのがあの出来事。そのきっかけを掴んで自立への道を歩みつつあるんだとようやく確信が持てたんです。人生最大の汚点が人生最高の転換点となってくれました」
口角を上げて朗らかにそう語り始めた古橋さんの笑顔が、後ろから光が差し込んでいるように眩くて。
「だからこれ!」
もう一度首の後ろに手をやる。その手をまた古橋さんが止める。
「それとこれとは別。百年数世代女たちの首元を飾り、希望を与えてきたこのネックレスはこの先も受け継がれ愛され続けるべきもの。それには一族だとかどうとかは関係ない。だからそのことについて決着がつくまで多治見さんが着けていてくれると嬉しいわ。あっ、この企画には皐月さんも込みですからね!」
「ちょっと待って、私も?」
そう言うと自らの鼻先を指さして絶句。“鳩が豆鉄砲”っていう例えがよく解る皐月さんの固まった表情。
「そう、ネックレスの正式所有権はこの三人の女のうち、次の世代を最初に産み出したものに帰属するものとします」
「本当にそれでいいんでしょうか?」
「私はそれでいいと思うよ。ネックレスは彩香にとって生涯忘れられない役目を既に果たした。次になすべきことをあなたに託したのよ。そのネックレスが」
「古橋さんじゃなくて、ネックレスが?」
百年の時を超え、戦火を掻い潜り、何人もの女たちを飾り愛でられて、美しい姿形を留めてきたこれは、最早ただの金属製品ではなく自ら静かなる意志を持っていたとしてもおかしくない。そう思うと首元がほんわか温かくなった気がする。私のこと気に入ってくれてるのかな?違うか、心配してくれてるんだね!
「そうよ!この私だってあなたたちやネックレスと巡り合ったおかげでご覧の通り人生が変わったと思ってる。そうそう会社へ現法に完全移籍したいと希望を出したんだ。本社籍だといずれ日本へ帰らなきゃならなくなるでしょ」
「それじゃあ皐月さんのこの先のキャリアが‥‥」
その瞬間お代わりのお茶碗をもったアルベルトさんが後ろを通り、皐月さんの振り向きざまハイタッチ要求におずおずと手を合わせ、またこちらを向いて優しく微笑む。カメラに向き直った皐月さんも満面の笑み。きっとこれが答え。
「あなたもうちの旦那や彩香とおんなじこと言うのね。自分のライフスタイルを犠牲にして得られるキャリアって何だろう?私だけ帰国して逆単身赴任なんて今の私には考えられない。こっちにいても積み上げられるキャリアはきっとある。私はうちの会社で前例のないことをずっとやってきた。また新たなチャレンジをするだけよ。そもそもそんな心配あなたにされたくないわ!いったいあなたこれで何刀流なのよ?」
「ばれたか~!でも、望むと望まぬとに拘らずこのような状況になっていて‥‥」
そっとお腹に手をやる。皐月さんは下ろしていた黒のトレーニングタイツに包まれた両脚を椅子の上で十字に組んで、私に向かってシューティングポーズ。
「バカね。そう思うなら自分の心配を先ずしなさい!」
左胸に充てた両手をパッと広げてのけ反る。
「やられた~!アハ、お後がよろしいようで」
大笑いしながら皐月さんとのネット接続を切って振り向き、彼女から預かっているもう一枚のネックレスを掛けた美女の絵に目を留める。あれから十年も経ったなんて夢のよう。あの頃の私は、憧れの人たちの生き方に魅了されるばかりで、あっちへフラフラ、こっちへフラフラ大海に漂う海藻みたいだった。彼女たちの真似をしようとメイクやファッション、言葉遣いや仕草まで秘密のノートを用意してつけてたっけ。やがてそんなコンブの切れ端も何とか海底に自分の居場所を見つけてしがみつき、根をはり、いくつかに枝分かれして、命を育むケルプの林となりつつある。でも私はやっぱり海藻であって森の針葉樹ではない。天に向かって一直線にすっくと伸びるのではなく、潮目に揺らめきながら、これからもいろんな可能性をあれこれ試していきたい。また皐月さんに呆れられそう。さあさあ先ずは、夫と二人で楽しむ晩ご飯の支度だ。
「ただいま」
「お帰りなさい!」
チノパンにダークグリーンのポロシャツ、愛用の何でも出てくる大きなショルダーバッグを抱えた夫がリビングに入って来た。
「ベビーの具合と個展の準備はどう?」
「どっちも順調よ」
「あっそう言えば今日は編集さんから次回作の初稿も返ってきたんだっけ?」
ひとそれぞれの人生には非常に多くの分岐点が存在し、ifの選択肢の先には今眼前で進行する現実とは異なる数多のパラレルワールドが展開していると思っている。叶わぬ夢に縋りつき大量の売れない絵を抱え込んで路頭に迷う私、やりたいことが見つからず親のコネで入った会社でOL制服を着てひたすらダイレクトメールの封入をする私、天賦の才を何一つ持たない私にとって、ちょっとしたボタンの掛け違えで有り得た別世界の私たち。そうじゃない今歩む道へと私を導いてくれた大切な人々、二人の長田先輩、皐月さん、そして目の前で優しく微笑む夫。もしあの時出遭えなかったら?と思うから、さっきのネガティブワールドの私たちばかり脳内に投影されるんだろうな。遭ったこともない人々のことを想像してポジティブワールドを創作することが簡単に出来たら、初稿がこんなに真っ赤っかにはならないって!
「プップッ!」
両手で口元を押さえる。
「どう、したの‥‥あ~また妄想の世界に入り込んでたでしょ?」
「そんなことないよ。あなたの質問に、あ~私って文才ないなあって思ったら吹き出しちゃったんだよ。リアルリアル」
そう、このリアル?パラレル?ワールドで私はなぜか文筆活動を生業の一つとしている。彼が私の書き散らかした駄文に興味を持ってくれて、美術雑誌に連載枠を設けてくれたのが全ての始まり。そこから小説執筆を奨められ、キュレーターとしての興味の赴くまま勢いで書き上げたつたない作品を寝る間も惜しんで下読みしてくれて、小説雑誌新人賞に彼の会社のプリンターで印刷して応募してくれた。実は内緒だけど作品に添付した梗概も彼の筆。大賞受賞を小躍りして喜んでくれ、桐山さんがついてくれてプロデビューしてからは、一切口を挟まず時々こうやって気遣いの言葉をかけ温かく見守っていてくれている彼に、さっきの発言は不適切だったな。
「でも、大丈夫だよ。きっと良い作品に仕上げてみせる。さあ、晩ご飯にしよう。今夜はあなたの大好きなミートソーススパゲティだよ!」
「お~、ミート、ソ~~ス~!」
右手を宙に突き上げ子供に戻ったかのような顔中の笑み。こんなことでしかお礼できないけど、ありがとうね琢也。こんな最愛の夫を私のところへ送り込んで来てくれたのも長田先輩なんだよなあ。脳内のパラレルワールドの私たちが電燈の紐を引っ張るようにパチンパチンと消えていく。
“喜多見心新刊発売記念サイン会”
入り口に丁寧な文字で手書きされた案内板が掲げられた、渋谷のスクランブル交差点に面した小さな書店。文字通り猫の額ほどの土地に建てられたビルの地下一階から地上二階には所狭しと商品を並べているのだが、三階はフリースペースになっていて、不定期に小説家他本の作者のサイン会やトークショーといった催し物が行われている。ここにも常時本を置いて売った方が?という気もするが、”街の本屋として常に読者と著者のインターフェイスでありたい”とのお店のオーナーさんの気概の表れなのだろう。毎日曇りか雨の長かった梅雨がようやく明けた途端、強烈に照り付ける日差しに、あれほど待ち望んだ青空をうんざり顔で見上げながら交差点をあっちへこっちへと行き交う人々の隙間をすり抜けて、マリンブルー地にトロピカルフラワーのプリント入りのノースリーブワンピースにかざしたオフホワイトの日傘をくるりと畳む。
「喜多見先生、暑い中ご足労頂きありがとうございます」
店名が胸に入ったエプロン姿の小柄な店長さんがペコリとお辞儀してくださる後ろには、桐山さんがいつものパンツスーツを身に纏い、”暑い?何それ?”と訊ねれば答えそうな無表情でご到着済み。”喜多見心”、デビュー当時の本名を巧くもじった筆名を考えてくれたのも桐山さん。つまり作家としての私の母。私、一年前にリアルお姑さんが出来たんだけど、彼女と会う時こんなに緊張しない。真逆の立場の仕事もしてるけど、もしそちらの相手にこういう感覚を持たれているとしたら?見習うべきか見習わざるべきか‥‥
そんな私の心のつっかえは置き去りにしてサイン会は始まる。私はデビュー作からこれまでキュレーターとしての経験をもとに内外の著名な画家或いはその特定の作品を題材に、母校美大の図書館に通い詰めては資料を掻き集め、時に美術館や展覧会で実物と対峙しつつ、彼らの家族他縁者や作品の背景にまつわる愛憎劇を、女性目線でフィクションに再構成して記してきた。今日のお客様たちが手にする新作の主人公はそのもの”おんな”、炎の女流画家上村松園。”同じ日本画家だし弓月先生と生き方が重なる部分もあるんじゃないかな?”との夫琢也の奨めに従い書き上げたものだ。既出の昭和の名作がある主人公なだけに今の時代にマッチした新しい解釈で書くことに腐心し、執筆中キーボードが進まなくなった時は、ここで弓月紫乃だったら?と脳内場面に先輩に立ってもらうと不思議にまた指が動き始めた。
お店の三階はファンの方々で溢れ返り、購入頂いた拙著を差し出すお一人お一人と言葉を交わしつつ本の見開きにペンを走らせる。
「デビュー作から全部読んでます」
「生きる力をもらってます」
「この間電車の中で涙が止まらなくなって‥‥」
お店が設えてくれた台上にプレゼントが次々と並ぶ。
「先生の大ファンです。これお読みください!」
高校生風の女の子がピンクの野ばらとかすみ草の可愛らしいブーケと一緒に震える手つきで手紙を差し出す。私もあの方にやったなあ。
「どうもありがとう。後で読ませてもらいますね。返信先は書いてくれてますか?」
「はい!」
彼女がパッと頬を染め、目を潤ませて回れ右。おっ、なかなかスジがいいぞ。私の作品のファンは女性がメインだけど、
「完全アウェイ覚悟で来ました。美術になんて無縁なはずなのに、なぜか自分の過去をふり返らされる作品で‥‥」
と既出作の書名を挙げて面映ゆく微笑む中年男性に、
「男性にそう仰って頂けるととっても嬉しいです。これからもよろしくお願いします」
と言葉を返し右手を差し出すと、掌をチノパンにゴシゴシ擦りつけてからおずおずと握り返してくれた。
お店が整理券を配っているので、百名ほどサインをしたら列の終わりが見えてきた。うん?最後尾で私の本を両手で胸元に抱え込んでいる薄いブルーのボストンフレームサングラスの女性は正しく!突然立ち上がった私に、テーブル上のプレゼントを整理していた桐山さんが怪訝そうにこっちを向く。女性がゆっくりサングラスを外して結い上げたナチュラルブラウンの髪の上に載せる。
「新刊上梓おめでとうございます。喜多見先生」
「は、はい、ありがとうございます!お、お久しぶりです」
心拍数が一気に上がり、首元が熱くなる。
「皐月さんに自分で言いなさいって言われて。今日も着けてくれていてありがとう。あれからもう十年、私が祖母から受け継いで持ってた期間を越えちゃったね。つまりこれは当然の帰結。これからも愛でてあげてね」
見た目の優しそうな笑顔は何年か前にお会いした時と変わらないんだけど、その時は身体全体から湧き立つようなこんな何かを感じなかった気がする。この感覚はあの方のあれ、迷いなく目標に向かって突き進む人特有のもの。古橋彩香と弓月紫乃、行き先は違っても今や同じ境地に立ってるんだな。
「はい、これからも大切にします。それとご報告があります。先週の検査で女の子と判明しました」
「ほんと!」
さっきの女子高生のような無邪気な笑顔が弾ける。
「ねえ、お腹触らせてもらってもいい?」
「はい喜んで!」
机の横に出てお腹を突き出すと、ひょいっとしゃがんでいたずらっ子のように手を伸ばして一触りし、それからそっと耳を近付ける。
「私はネックレスの伯母さんよ。いつかまた会いに来るからこの声覚えていてね」
そう囁いて私のお腹に投げキッスすると、夏らしい白とエメラルドグリーンのバイアスストライプワンピースの背中がむくりと起き上がり、すっと息を吸い込む。
「ふ~ん、この子に休日出勤する元気もらえた。じゃあまた。あっ喜多見先生、もしよろしければアドレスを交換して頂けませんか?」
ニッと笑顔。こんなに表情豊かな人だったんだ。
「もう彩香さん、こそばゆいから先生は止めてください」
互いのスマホをかざし終わり、颯爽と肩をそびやかせて階段に向かう後ろ姿はもう一人のあの方のそれ。どさくさに紛れて初めて彩香さんって呼べましたよ、皐月姉さん。
「今の方は?」
なおも訝し気に目を眇めて彩香さんの背中を見送る桐山さん。彼女が私の周囲にいる人にこんなに注意を払うのは珍しい。
「ああ、私の大好きな三人の姉の真ん中です」
ネックレスに手をやる。
「へっ‥」
素の呟きを発し珍しく困惑した表情の桐山さんに、心の中で小さくガッツポーズ。
日盛りの渋谷から銀座に移動して画廊”ウェルウィッチア”へ。あのギッコンバッタン昇っていく古風なエレベーターは既になく、というか建物自体が老朽化により築百年を目前に建て替えられて、カルチャー&アートビルとして開業したのが半年前。外壁のくすんだタイル貼り、コンクリート打ちっ放しの階段と木製の手摺り、そしてエレベーターのジリジリ動く目盛り式位置表示盤など随所に旧ビルの特徴をノスタルジックに再現していて、オープン直後から美術愛好家のみならず外国人観光客まで多くのお客様で賑わっている。
「荻島さん、遅くなってごめんなさい」
「よお~、その様子じゃサイン会は盛況だったってことだろ。よきかなよきかな」
デニムの膝上ショートパンツにピンクのダンガリーシャツ、年より十は若く見える我が恩師。大学卒業を控え、自分の進むべき道に迷っていた女子美大生に、”やりたいことが見つかるまでうちで働かないか?そろそろ一人じゃ身体がきつくてな”と手を差し伸べてくれたのが、ウェルウィッチアのオーナー荻島さんだった。ありがたいお言葉に一も二もなく飛びついた私は、荻島さんの教えのもとキュレーターへの道を歩み出した。もともと絵が大好きで美大付属に入ったし、大学では自分の画作そっちのけで先輩のモデル兼押し掛けマネージャーをしてたこともあり、荻島さんのご指導よろしきを得て割と短期間で画廊の展示を取り仕切れるようになった。そんな日々を文字に残したくなって仕事の傍ら目を擦りつつ文章に綴り始めてしばらく経った頃、夫琢也が長田先輩目当てでうちに取材に訪れ、ちょっとしたドタバタの後、彼の美術雑誌に連載を持たせてもらえるようになった。やがて彼の奨めと自らの興味が一致してフィクションを手掛けるようになり、そうなると持ち前の”見てみて!癖”が頭を擡げて、いくつかの出版社の新人賞に作品を応募するうちに今現在の仕儀に至る。
「やっぱりいいなあ‥‥」
掛け終わった六号の作品を前に思わずつぶやきが漏れる。
「当り前さ。普通ならもううち辺りで個展開く画家じゃないんだから。おっとそれじゃオーナー様に失礼か?」
ウェルウィッチアは本日休廊。明日から始まる一大イベントへと作品の掛け替え作業中。このビルの建替え計画が持ち上がった際、商業ビルとして利便性の重視と再建築コスト捻出のため、一室六畳ほどに細かく区切られていた賃貸スペースを統合し数倍に拡張した設計図が提示され、既存テナントが優先再入居する場合であってもその負担すべき賃料や保証金は跳ね上がった。やむなく撤退する同業者が続出する中、デベロッパーから提示された金額に眉根を寄せ思案気な荻島さんに、私はこう提案した。
「保証金は全額私が出します。今のお家賃との差額も私が払います。新ビルにウェルウィッチアを残しましょう!」
「おいおい、そんな大金どうやって‥‥ああ!でもいいのかい?小説で稼いだ金こっちにつぎ込んで」
その頃の私は小説デビュー後数作のろくすっぽ計算根拠も解らず振り込まれた印税という名のお金を、ほぼ手付かずに普通預金口座に放置していた。
「生み出される過程を乱暴にすっ飛ばせば、書き上がった小説はただのデジタルデータです。新人小説家はネットを使えば自作をいくらでも読者に供することが可能です。でも肉筆絵画は究極のアナログデータ。新人画家が丹精込めたたった一つの作品を世に出して評価を受けるには、興味を持つ多くの人々が集まるリアルスペースが必要なんです。これからは思いだけじゃなくてお金も使わせてください」
一気にまくし立て少し潤んだ私の瞳を、荻島さんがいつも通り眼鏡の奥の優しい眼差しで覗き込む。
「実は俺このビルとともに引退しようと思ってた。こう見えてももう七十だしな。でも気が変わった。こんな心強い、洒落じゃないぜ、共同オーナーがついてくれるのに辞めるのはもったいないや。俺も日本画が大好きなんでね。てわけで、やるからには新生ウェルウィッチアにかかる経費は完全折半だ。俺にももうしばらくいい恰好させてくれや」
差し出されたしみの浮かんだ掌を両手で包み込むと、荻島さんの情熱の熾火は未だ消え入ることなくパチパチと盛んに爆ぜていることを、その温かさから感じ取ることができた。
“「天女の帰還」弓月紫乃個展”
夜までかかって二人で全作品の展示を終え、エントランスにサインボードを置いていると、コツンコツンとゆっくりとしたヒールの音が背後から響いてくる。振り向かなくても誰だか分かる。背筋をピンと伸ばして回れ右。
「いらっしゃいませ、弓月先生。たった今展示作業完了しました。内覧チェックお願いします」
ペコリとお辞儀した先には、素足にデニムのショートパンツ、純白のTシャツの上に黒に大ぶりな花柄のシースルーロングガウンをさらりと羽織った先輩がゆらりと佇む。黒のベースボールキャップを目深に被り大き目のサングラスに覆われているとは言え、露出した頬はこけていて廊下のLED照明を浴び紙のように白い。
「お加減いかがですか?」
「まあまあよ。だいぶ髪も伸びてきたの。マニッシュショートって言えるかな?ほらこれ」
先輩がさっとキャップを脱いでサングラスを外す。女性っぽく帽子から零れ落ちる髪はないが、眼前に現れた小顔短髪の儚げイケメンに息をのむ。
「もともとベリーショートでしたから、これなら違和感ゼロ。新たなファンもできるかも!」
「よかった。ボブのウィッグ用意してたんだけど、このまま行こうかな?」
「全然イケてます!でもあまり無理して在廊して頂かなくても大丈夫ですよ。ファンの皆さんも展示のメインテーマの意味合いは解ってらっしゃると思いますので」
弓月紫乃こと長田京先輩は女子美術大在学中にプロデビューし、めきめき評価を上げ数年で若手美人日本画家のトップランナーとなった。こんな私をモデルにしてさえも、作品の号単価が展示を重ねる毎にうなぎ上り。当時駆け出しキュレーターの私が”自らモデルをする若き画商”として、絵画雑誌に連載枠を持てたのは後の夫琢也の推しもあるが、その大前提として弓月紫乃人気があってこそだった。しかし好事魔多し、二年前彼女の体内に巣食う異物が見つかる。彼女の双子の妹の命を奪ったがんが、子宮頸部の細胞に憑りついていた。それでも娘を失った両親の強い勧めと、血と遺伝子を分けた妹の遺言に従い毎年検診を欠かさなかったおかげで、比較的早期のステージでがんは発見され、一年余りの抗がん剤治療を受けて弓月紫乃は画壇に帰ってきた。
「よお~、いらっしゃい紫乃ちゃん!具合どう?」
荻島さんが片手を上げてギャラリーの入口で出迎える。
「今晩は、荻島さん。これくらいの絵は描けるようになりました。明日からよろしくお願いします」
踵を僅かに前後させ両手を重ねてすっと腰を折る。私がいつもお手本にしている優雅なお辞儀。
「なら大丈夫だな。年寄りは夜が早くてな。明日からは詰め掛けるお客さん対応でてんてこ舞いだろうから、俺はそろそろ失礼するよ。心ちゃん戸締りよろしくな」
先輩と私が直接会うのは久しぶりだと知っていて、二人と絵だけの空間を用意してくれる気配りの人荻島さん。大学入りたての長田先輩の才能を見いだし手塩に掛けて世に出した彼は、ほんとは他の誰よりも先輩のことを気遣っているに違いない。彼から学ばなければならないことは絵の目利きだけじゃない。
「お疲れ様でした!」
後ろ姿の右手が上がった。
ギャラリーの壁に掛けられた二十点ほどの作品を二人で巡り、一つひとつ細部までチェックしてキャプションボードに記載された価格を確認していく。
「アレンジを変えた方がいいとこありますか?」
「う~うん、これでいいと思う。これあなたのアイデアよね?お客様の視線の上げ下げ、立ち位置の遠近に変化を持たせて、さあ~っと通り過ぎないようにしている」
先輩が楽しそうに腰を上下させたり、サンダルをコツコツと前後させたりしてくれる。いつまでたっても私はプライベートでは彼女を”先輩”としか呼べないでいる。中学生の私が偶然出会い、やがて熱烈に憧れた”先輩”は長田雅さんだった。でも、高校に上がっても”先輩”はいなかった。彼女の消息を聞いて呆然とした。大学のキャンパスで”先輩”を再び見かけた時、幻覚を見ているのかと我が目を疑った。彼女が雅さんの双子の姉の京さんだと知っても、私の心のざわめきは収まらなかった。たった今私の横で笑みを浮かべている人は戸籍上は長田京さんだと頭では解っていても、その名を呼んだ瞬間私の心の奥に佇む雅さんがどこかに行ってしまいそうで、やっぱりそう声に出せない。
「先輩、ありがとうございます。お店の床面が広くなって一度にお入り頂けるお客様の数が増えたので、最近はこういう展示を心がけています」
「やっぱりプロのキュレーターさんは違うわね。実はねあなたが私のモデルをしてくれている時から、この娘はきっと私より大物になると思ってたんだ。創り出す人じゃなくて、演じる人としてって予想は大外れだけどね。喜多見心先生!フフフ‥‥」
自分の顔がサッと上気していくのがわかる。この才気あふれる美しい一人の女性は私にとって永遠に二人なんだ。
「もう、誰にも何も教えてないですから、先生は止めてください」
「心もさっき私のことそう言ったよ」
いたずらっぽい笑みを浮かべた先輩の頬に少しだけど紅がさしたような気がする。
「先輩は私の先生だからいいんです!」
「何それ?私だってあなたに何も教えてないわ。まあ教えてもお絵かきは上手にならなかったでしょうけど」
「あ~、ひど~い!」
二人だけの静かなギャラリーに遂に大爆笑が弾ける。ちょっと待ってこの大笑いって‥‥破顔一笑する先輩の中にはやっぱり雅さんが住んでるんだ。京と雅二人で一人、やっぱりそうだ。私の独り善がりじゃなかったんだ。嬉しいことがあると無意識に首元に右手が行く。
「今日もそのネックレスなのね」
「昼間私の新刊サイン会にこれの本当の持ち主がいらっしゃって。お会いするのは二度目で‥‥」
先輩は心持ち顔を上げて遠くの方を見る仕草。
「その方はお元気なの?」
「はい、ビジネスウーマンとして大活躍です。ネックレスが私の首に巻かれることになった出来事が人生最高の転換点だったって、七―八年前初めてお会いした時に仰ってましたけど、今日お会いした彩香さん、あっ、それがその方のお名前です、彼女は自信に溢れキラキラ輝いているようにお見受けしました。だからまた私に、いやこのネックレスに会いに来られたんだろうなあと」
訊いてはいけない禁断の質問が続けて口から零れ落ちそうになるのを必死に押し止める。
「あ・や・か、そう。結局ウィン・ウィンだったってことか‥‥」
後半は声にならないつぶやきだったけどそう先輩の口が動いたように見えた。
「そして今日このネックレスをこの子が受け継ぐことになりました」
そっと両手をお腹に添える。
「女の子なの?」
「は~い!」
果断の人にしては珍しくおっかなびっくりといった様子で、血管の浮き出た透き通るように白い右手を私のお腹に充てる。
「ネックレスを着けたこの娘をモデルに絵を描くには、私あと何年生きなければならないんだろう?」
「ねえあなた、生まれる前からまたファンが増えたよ。美人に育つまで元気でいてね伯母さんって、二人でお願いしよっか!」
「お・ば・さ・ん‥‥」
これまた滅多に見ない困り顔の頬に再び赤みがさす。帰ってきてくれた。本当によかった!
「そうそう、SNSで展示情報リリースしてからお問い合わせが引きも切らず。初日完売間違いなしですよ!」
ぐっと拳を握りしめる私を見て、先輩がまたくすりといたずら笑い。
「もしそうなったら、サプライズで公開ドローイング即売なんてしてみようかな。久しぶりに心をモデルに」
「えっ、私?だめですよ、こんなおばさん。それに会期中店番しながら新作のゲラに手を入れなきゃならないんですから。お澄ましして先輩と向き合う暇はありません!」
自分を指さしてから両手をブルブル振る。とっくに退いたと思ってたモデルとしての私への突然のオファーに、取って付けたような言い訳を並べるのが精一杯。
「ポージングなんていらないわ。普通にお仕事して頂いていて結構。もう一つ新たな命を身に育む女の顔には、とても柔和で自然な優しさが染み出てきてるんだもの。この瞬間残さない手はないわ。ねえ、こ・こ・ろ‥‥」
そう囁きながら先輩が私の頬をそっとひと撫で。思わず両頬に手をやってしまう。私の右頬で重なった二人の掌(たなごころ)。すべすべで冷んやりした先輩の手の甲がスッ~と先に抜けていく。やっぱりモデルの気持ちを上げて、のせていくのが巧いなあ。
「ならやってみますか。でもほんとに売れますかね?」
あれ?ひょっとして私と桐山さんの関係って、先輩と私の関係とおんなじなの?いやいやそんなはずは‥‥自らの推しが売れることに生きがいを感じ、その目的のためには何でもする。桐山さんの気持ちが少し理解できた気がした。
「大丈夫よ。そんな喜多見心先生の、読者から見て違う一面を描けば、きっと飛ぶように売れるわ。あなたにもあなたの作品を愛する多くのファンがいることを忘れない方がいいわね」
「も~お!」
顔から火が出てることを隠すために先輩に抱きつく。少し力を入れたら壊れそうな骨ばった身体に早くお肉がついて、私の娘をきっと描いてくださいね。
「では明日からよろしくお願いします。でも無理は禁物、ご体調最優先で」
「ありがとう」
黒のガウンをひらりと翻し私に背を向けお店の出口をコツンと一歩踏み出したところで、先輩のサンダルが止まる。
「ねえ、ここは?」
先輩が指さす先、新装なったうちのギャラリーには廊下に向かってちょっとしたショウウインドウがある。磨き上げられたガラスの向こうブラックバックの壁には銀色の掛け金だけ。
「そこにはとっておきを用意してます。明日をお楽しみに!」
一つ頷くとコツンコツンと小気味よい足音が遠ざかっていった。
「さてと」
バックヤードからシャンパンゴールドの縁の薄い額に入れた一枚の絵を抱えてきて、ガラス扉を開く。掛け金にそっと吊るし、”個人蔵・非売品”そう記したキャプションボードを虫ピンで止める。扉を閉めてカチャリと施錠。これで全ての展示が完成。細いプラチナの鎖が連なるネックレスを着けた先輩が、あられもない裸身に得も言われぬ官能の表情を浮かべる。この表情が女のどの瞬間を映しとったものなのか今の私にはよく解る。これぞ稀代の美人画家弓月紫乃が表現した究極の一枚。この展示の成功を改めて確信する。以前先輩はこの容顔(かんばせ)は自分のそれではないって言っていた。じゃあ誰の?その答はきっと‥‥そんな一枚の絵にまつわる物語をいつか書きたいと思う。
我が家の六枚の繪(おんな) ちょっぴい @kuzuhiko
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