男たちの証言②(美術誌ライター 棚橋琢也)

 フレームサイズ横7cm×縦36cm。いわゆる短冊形。七夕を意識した展示コンセプトに、様々なジャンルの画家たちが限られた変形スペースに思い思いの技法とストーリーを込める。数十点の作品の中で筆者の目を惹き付けたのは“Strawberry”。純白のバックの頂きから突き出た指が苺を手挟み、次々と落とす。空間には種のブツブツまで丹念に描き込まれた赤い実と緑の蔕があちらこちらと向きを違えた苺が三粒、ポロリポロリと零れ落ちていく。短冊の底では艶めかしく開いた唇が四粒目をまさに咥え、口元から血と見紛うような紅い果汁がタラりと滴る。写実に優れ瑞々しさと妖しさを同居させた良作だが、作者の仕掛けはこれで終わらない。このフレームには約3.5cmの厚みを施し、短冊というより大きな箸箱といった形状として、四側面全てを表現域としている。背伸びして上から覗き込むと指に挟まれた苺の蔕が緑鮮やかに目に飛び込み、横に視線を移すと苺を受け取った唇から連なる鼻梁の先に夢見心地に閉じられた瞼が垣間見える。制約あるスペースを立体化して二倍以上に拡げ、白地部分が多いにも拘らずインパクトの強い作品に仕上げている。額に嵌め込まずラップで包んで玄関先に掛け、家の出入りで異なる趣きを眺めるのは如何だろうか。

          ♢

 「はい出来たと」

読み返し三回。脱字やてにをはを修正して送信ボタンを押す。原稿の行き先は美術雑誌”美の起源”編集部。僕はそこの契約ライター。絵を観るのが大好きという単純な動機で大学の文学部でも珍しい美学・芸術学専攻を卒業したものの、就職氷河期にもろにぶち当たり博物館学芸員資格など見向きもされず四回生の秋までスーツ姿で街を彷徨い、ようやく東京の小さな美術系出版社に職を得た。駆け出し編集者として美術書の出版に携わったものの、折からの出版不況の荒波に呑まれ三年目で会社は倒産。事態がよく呑み込めず解雇辞令を貰った翌日も人影疎らな会社で準備中の原稿を整理していると、昨日みんなの前で頭を下げていた社長その人が自分の机の傍らに立っていて、”これからもこの道で喰っていくつもりなのかい?”と訊ねる。よく考えもせず頷くと、今の仕事を世話してくれた。いわゆる非正規雇用って身分だが、元の会社とは比べるべくもない業界でも大手の出版社なので、美術館から街の画廊まで様々な展示レポの仕事をコンスタントに回して貰えて、生活には困らない収入は得ている。しかしこの仕事、多少の美に対する感性があれば僕じゃなくても書ける。三十路を前にしたフリーライターが言われたことを淡々とこなしていては、やがて次から次へと現れる才能ある若者に取って代わられて路頭に迷うのが関の山。自らネタを仕立て上げて出版社に売り込める立場にならなければ。”え~?大学選びから始まって気の向くまま適当にやってきた趣味人が今更何悩んでるんだよ。突然人生設計なんて考えようとしたって無理だよ。感性の帆を風に任せて漂っていくのが吉だって!”覗き込むディスプレイの向こうから聞こえるもう一人の自分の囁きに肯いそうになり、慌てて首を左右にブルブルと振った。


 「あの、すみません。この画家さんはレセプションパーティーに出席されるって聞いたんですけど?」

横浜駅にほど近いこの画廊は、床面積が銀座のそれらの数倍はありそうで、大通りに面した一階で間口も広く、昼間は自然光が入り明るいのだろう。今は夕闇時、朝から降り続いた雨も上がり、オレンジ色の残光が入り口ドアの取っ手のシルバーに淡く反射する。

「失礼ですがお客様、ご招待券はお持ちですか?」

サマージャケットの内ポケットから編集部でもらったチケットを取り出し、名刺といっしょにスタッフに差し出す。相手の顔つきが変わる。やはり”カンバン”って大切だ。

「ようこそいらっしゃいました。先生はご都合で少し遅れるとのご連絡を頂いています。あちらにお飲み物を用意しております。お飲みになりながら作品をご覧ください」

広々としたスペースに日本画、洋画、版画取り交ぜて数十枚の作品がゆったりと展示されている。共通テーマは”女”。プラカップなのはちょっと残念だが、スパークリングをスタッフからもらい喉を潤しながら、描かれた一人一人と対面していく。若手画家が中心なので筆力はまちまちといった印象だが、彼ら彼女らの世に出たいという熱気は伝わってくる。ジャンルに幅があるので、岩絵の具、油、アクリル、更にはデジタル画像に絵の具で着彩したり切り絵を貼り付けたりした最近注目のミクストメディア作品まで、各々のファンが新たな魅力を発見する一助にもなりそう。よい展示だと思う。そして再びこの絵の前に立つ。六号サイズにお尻から上、半身に構えた背中を晒して腕組みする裸婦がこちらに横顔を見せる。顔の後ろから大きな満月が雲を従えて煌々と照り、額から鼻梁、顎へかけての美しい輪郭線を際立たせ、周りには白い彼岸花が闇を切り裂いて咲き乱れていて、抜群のシェイプの裸婦の身体を見え隠れさせる。本展示のフライヤーのトップを飾っている作品なのに既視感がないのは、岩絵の具の煌めきが創り出す実物の迫力がデジタル画像を簡単に凌駕しているからだろう。しばらく彼女を睨めていると、渇きのような何かを感じカップのスパークリングを無意識に流し込んでいて、冷たい液体の体内通過にドキリとし、揺り戻しの溜め息をつく。

 「じっくりご鑑賞頂きありがとうございます」

絵の中に沈没していた僕の意識が、不意に耳元に響く囁き声に画廊の床に木偶のように立ち尽くす自身の抜け殻に引き戻されて、機械人形のようにぎこちなく振り返る。

「素晴らしい作品です。申し遅れましたが‥‥」

「”美の起源”の棚橋様、本日はお越し頂き誠にありがとうございます。この作品を描きました弓月紫乃と申します」

ベリーショートの黒髪にフレームレス眼鏡、薄いアイボリーのタイトスカートスーツを纏った画家が名刺を差し出す。こちらの名刺も渡し、スタッフが新たに持ってきてくれたドリンクでお近づきの乾杯。

「不躾ですが、絵の中の彼女が目の前で動くのって不思議な感覚です」

「そんなに似てますか?最近実物は劣化が気になっていて、他にモデルを探さなきゃって焦ってますのよ」

そう言われると確かに身体のボリューム感は実物の方が乏しい気がする。でも着痩せでは?

「いやいやそんなことは。美しき女流画家さんはやっぱり有利ですよね。ポージングも表情作りも自由自在じゃないですか?」

「仰るとおり何でもありですが、画家としての自分の要求もどんどん過激になるので、モデルとしてのもう一人の自分の、作品化されて許容できるかの判断が大切です。それとその瞬間は自分では写し取れない表情もありますわ」

眼鏡の奥の瞳がいたずらっぽく揺らめいて、口角が僅かに上がる。鏡の前でポーズしても自分では写し取れない表情とはどんな表情なんだろう?想像を巡らしていると。

「ではごゆっくりお楽しみください」

丁寧にお辞儀して彼女のつま先の方向が変わろうとする。

「ちょっと待ってください。もう少し僕に時間をください」

仕事で“僕”はだめだと心がけているのに、焦ると単語変換不能となる。

「何でしょう?」

「今回も初日開幕直後に出展三点全て完売になったと聞きました。号単価が他の出展者の数倍いや十倍近いにも拘らずです。弓月紫乃は既に若手画家ではなく、女流美人日本画家の先頭集団を走っていると僕は思います。今度うちの雑誌で先生の特集を組みたいんです。そこには先生の生い立ちから始まりここに到達するまでの軌跡を綴ったロングインタビューが必須だと考えています。どうか日を改めてその機会を頂けませんか?」

彼女は表情を変えず僕が喋り終わるまで待ってくれた。そしてクスっと吹き出す。

「先ず最初に”先生”はお止めください。私は”先生”と呼ばれる種族は苦手でして。さてご本題についてですが、私は昔語りは好きではありません。今の私は裸になってここにこの壁に掛かっています。美術鑑賞を生業にされておられる棚橋様であれば、お汲み取り頂けるのではないでしょうか?」

静かなしかし痛烈な拒絶の言葉。

「仰っていることは解ります。しかし、ゴッホやユトリロ、ルソー、上村松園、巨匠には名作を生み出すバックグラウンドがあったんです。それを本誌の読者にも知ってもらい弓月紫乃のファンの裾野を広げたいんです!」

「お言葉痛み入りますが、私にはそんな大それた背景はありません。私の経歴はWEBページに掲載されていて、それ以上もそれ以下もありません。どうかご容赦を」

発する声のトーンに何ら揺らぎがない。しかし、既読の彼女のプロフィールには生年月日、美大卒の経歴と、幼少期からお絵かきに親しみ云々との一文しかない。だからこそここに来て直接呼びかけてるんじゃないか。

「初対面なのにマスコミ根性丸出しの不躾なお願いをしてしまいました。申し訳ありません。でも僕は諦めません。さっきは読者って言いましたが僕自身がきっと知りたいんです。観る者を魅了し溜め息を吐かせる作品が生み出される出発点を。ですがストーカーにはなりませんのでご安心ください。また次の展示のご機会にでも、改めてお願いしにうかがいます」

僕、僕、僕。自らの感情の昂ぶりにいたたまれなくなって一礼して踵を返そうとする僕に、優しいいやそれは僕の主観であろう声が掛かる。

「インタビューは無理ですが、有名美術誌で記事にして頂くのはありがたい限りです。その際は銀座のウェルウィッチアという画廊に一声掛けてくださいませ。そこには記事のヒントが転がっているかも知れません。そうそう古来彼岸花には毒があるって言いますわね。それに囲まれているのが私だとすれば?フフ‥‥今夜は楽しい会話のひと時をありがとうございました」

2Dの彼岸花と3Dの不敵な笑み、湧き立つダブルの毒気に当てられ気の利いた言葉の一つも返すことが出来ないまま、もう一度頭を下げて画廊の出入口に向かう。再びクスっとした笑い声が背後で聞こえた気がした。


 横浜での完敗から数日は何も手に付かず放心状態で過ぎて行った。僕は弓月紫乃にあらゆる方向から打ちのめされていた。創造する作品の構図、表情、岩絵の具の煌めき。彼女自身の儚げな容姿、湧き出る知性の泉、それらとは相反する絵への激しいまでの情熱。同世代それも自分より少し年下にも拘らずこの画家としての完成度の高さ、そう結論付けようとしたのも一瞬、いやそうではない。会話中も僕を見透かし遥か遠くを眺めるような彼女の視線の先には、無限の大地の広がりあるいは彼方に聳える高峰が見据えられているのではないかと思うと、彼女に二物を与えた天に怨嗟の声を浴びせかけたくなる。しかし、安易に天賦と片付け我が身を慰めるのもまた誤謬ではないかとはたと気付く。もう一度彼女のWEBサイトの経歴を読み返す。芸術家二世ではなく、幼少時にお絵かきから始めて絵に親しみ、高校では美術部、美大に進み日本画を専攻、在学中にプロデビューし現在に至る。28歳。

”好きで絵を描いてたらこうなっちゃいました”、そんなベタなストーリーしかここからは読み取れない。違う、やっぱり違う。行間に何か隠れている。それも重大な何かが。脳内に彼女の眼鏡の奥の澄んだ瞳、微笑を浮かべた口元、飾り気のない白い指先が再現され、やがて各パーツがグルグルと混ざり合った先で像が結ばれ彼岸花に囲まれた裸の弓月紫乃が艶然とお辞儀をする。僕は知りたい。彼女のことをもっと!それは職業意識を超越した激しい情動。彼女の創り出す作品世界に飛び込みたい。そしてそこにある何かを掴み取りたい。僕は作品中の彼女がスライドショーで次々妖しく微笑みかけるPCのスイッチを切って街に出た。


 「いらっしゃいませ、こんにちは!」

ファミレスみたいなグリーティングに思わず入り口横の店名プレートを見返してしまう。

”ウェルウィッチア”、間違いない。銀座の只中にある古色蒼然としたれんが造りの双子ビル。ここには得意とするジャンルの異なる二十数軒の画廊がひしめき合い、若手芸術家の登竜門とも言われ、美術愛好家にとってもちょっとした名所となっている。元は集合住宅だったそうで細かく間取りされた部屋の一つが、画家弓月紫乃の原点とも言える画廊”ウェルウィッチア”。号単価の上昇著しい彼女の絵が最近ここでお披露目されることはほぼないが、本人の示唆を頼りに薄暗いコンクリート剥き出しの廊下へ向かって開け放たれたドアをくぐってみたのだった。

「”銀座女子校”へようこそ。若手作家の自信作をどうぞごゆっくりご高覧ください」

「じょ・し・こ・う‥‥」

意表をつく言葉のつらなりに、思わずつぶやきが漏れる。どうやら現在の展示会名らしく、壁ではセーラー服他スクール制服ルックの少女たちが笑顔を振りまいている。そんなバーチャルスマイルに一歩も引けを取らない満面の笑顔に澄んだ声、深くお辞儀した後頭部で反り返ったオレンジブラウンのポニーテールが揺れる。再び上がってきたスタッフの顔に既視感が。

「あの、どこかでお会いしませんでしたか?」

「どうでしょう?私は初めてお会いすると思いますが‥‥」

怪訝そうな表情がパンという手拍子とともに晴れ渡り、右手の人差し指をふわりと天井に向ける。

「ひょっとして私を見かけたのは二次元!最近なら横浜では?」

「二次元?横浜?あ~!」

こっちは慌てて彼女のポーズの真似。相手は掲げた指を二三回左右に揺らす。

「あ~!!どうやら当たりみたいですね~」

「あなたは弓月紫乃さんの‥‥」

「は~い、あの展示では裸の先輩の向って右隣でおすましして花束を抱えていました。その節はご高覧ありがとうございました。コレクターの方ですか?」

作品と同じポーズをとって、作品とは違う満面の笑み。

「あっ、いえ。実は私こういうものでして」

咄嗟に”僕”を封じ込められた。僕が差し出した名刺をしげしげと眺め、彼女も部屋の端に置かれた古い木製机の引き出しから慣れた手つきで名刺を取り出す。

”キュレーター・モデル

多治見心”。

 「ライターさんなんですね。本日あいにく画廊主荻島は留守にしておりまして。ただ今回の展示は私の企画ですので、コンセプトや各作品、作者のご説明は承れますよ」

「あっいえ、今日はこちらの展示の取材ではなく‥‥」

迂闊だった。弓月紫乃の作品はセルフポートレイトが過半数を占めるが、残りは数人のモデルを描き分けている。中でも最も弓月作品に登場することが多いのが目の前の彼女。廊主が今も弓月紫乃の展示の仲介をしているとは聞いていたが、まさかモデルの彼女が店のスタッフだったとは。いや、スタッフは失礼だろう。小さいとは言え画廊の展示コーディネーターの仕事は多岐に渡る。お客が悦び出展画家が集まる(画家との信頼関係構築)テーマ出し、主客ウィン・ウィンとなる販売価格設定(慣習として展示期間中のディスカウントは不可能)、そしてDM他前宣伝と店での売り込み(客の好みをいち早く見抜いて、さりげなく相手の心の琴線を刺激する推し)等々。ひょっとして弓月紫乃が言っていた”ヒント”とは彼女のことではないだろうか?

「実は先日の横浜で弓月紫乃先生に特集企画向け独占インタビューのお願いをして、見事に断られまして‥‥」

「あら」

何気ない合いの手で僕に先を促す。やっぱり話し上手。

「その際、”私のことが知りたいならウェルウィッチアにヒントがあるかも?”とのコメントを頂いて」

「ここに、ですか?」

彼女の唇が少しほの字に開き、人差し指がフローリングの床を差す。

「ここではしばらく弓月先生の作品は展示していませんし‥‥」

下向きだった指を今度はこめかみに充てて僅かに首を傾げ、眉間に皺を寄せる。表情豊かな人だなあ。さすが弓月紫乃のモデルさんだけある。その辺りから入ってみよう。

「弓月先生の専属モデルをもう長く務めてらっしゃいますが、先生のポージングに対する要求度はかなり高いんじゃないでしょうか?」

「いえ全然。もともと長田先輩いえ弓月先生は私の中学生時代からの年上の憧れのひとで、大学生になってもしつこくストーカーしてたら、”そんなに私の傍にいたいなら、そこに座りなさい”ってキャンパスのベンチに座らされて、先輩がスケッチブックを取り出したんです。それからコンスタントに先輩のモデルをやらせて頂いてますが、その日のポーズを決めると微調整程度で、”心のナチュラルスマイルが好きよ”って盛り立ててくれるんです。一度血迷って裸になってみたいとお願いした時も、”お嫁入前のお嬢さんが気軽に脱いじゃだめよ”って窘められました。ご自身はバンバンヌードになってるのに。ひょっとして凹凸の少ない私の肉体じゃ売れないって思われてるのかも?これでもジムに通ってシェイプアップに励んでるんだけどなあ。キャハハハ‥‥」

次から次へと流れ出る言葉の洪水に押し流されそうになり、堪らず両手を上げて降参ポーズ。

「ちょっと待ってください」

 ちょっと待ってくれ、どこかが変。彼女の言葉の奔流をもう一度巻き戻し竿差してみる。うん?何か引っ掛かったぞ。そうかここか!反撃開始。

「多治見さんは美大は付属中からですよね?」

「そうですが」

「美大の付属中学や高校に美術部ってありましたか?」

目つきを変えて想定外の質問をする僕の変化に一瞬怪訝そうな表情を浮かべたものの、彼女は予期した通りの答えを返してくれた。

「うちの中高では同世代コンクールへの出品は部活としてではなく、カリキュラムの一環、課題みたいなものですから。それに毎日毎日授業で制作しているのに、それを更に部活でやろうって人はいませんよ。美術部なんてありません。私は中高ダンス部でした!」

片足を上げ右手を突き上げてランニングマンの決めポーズ。おざなりの拍手を三回してからやにわにショルダーバッグからタブレットを取り出し、弓月紫乃WEBのプロフィールページを開く。

「これ弓月先生の経歴ですが、”高校では美術部に所属”と記載されてます。今の多治見さんのお答えと合わせると、弓月先生は付属高の出身ではないことになる。ですが彼女は多治見さんの中学時代からの憧れの人。なんかおかしくありませんか?」

僅かな間だが彼女は僕の指摘に確実に動揺したはずだ。軽く俯いてほんの少し舌を出したんだ。しかし、出した舌でチェリーピンクの口紅が引かれた上唇を左から右へペロッと一舐めすると、キリっと顔を上げる。

「弓月先生の記されたプロフィール、私のさっきの弓月先生いやここでは長田先輩と呼ばせて頂きますが、彼女についての発言、棚橋さんにとっては証言なのかな。それらに嘘は一つも含まれていません」

「いやいや矛盾が発生してます。それは‥‥」

素早い出足で彼女が僕の言葉を遮る。

「矛盾?私と長田先輩は運命的な出会いをして、弓月紫乃先生はこの世にたった一人!そこにどんな矛盾があると仰るんですか?」

彼女の前後が繋がらない、でも自信満々の言葉の連なりに気圧されて、さっきまでの確信が揺らぎ今度はこちらが俯いて考え込むことに。不意に彼女がタブレットを僕の両手から取り上げて、弓月紫乃のポートフォリオにページを遷移させると、多治見心自身がモデルの作品をピックアップしてゆっくりとワイプさせながらこちらに見せる。

「ほらほら難しい顔をするのはお止めになって、先ずは私をとくとご覧くださいな」

確かに笑顔のことが多いが、喜び、憂い、恥じらい、戸惑い、そして誘惑。実にバリエーション豊富だ。これが弓月紫乃の言うとおりナチュラルに出せているのだとすれば、多治見心のモデルとしてのポテンシャルは相当高そうだ。ヒョイっと僕の隣に彼女が立ち位置を変えて僕の両手にタブレットを戻し、自らも画面を覗き込む。隣にある彼女の横顔の近さにドキリ。あれ?さっき感じた矛盾って何だったっけ?

 「あっ、若っか!懐かしいなあ。こん時二十歳なんですよ。私のお気に入りの作品です」

ディスプレイを滑る白い指が止まる。茶色地に青いにチュリーップ柄のワンピース姿でワイングラスを手に、あどけない、いやそうではない何とも蠱惑的で印象深い笑みを湛える。首元に上品に輝く細身のシルバーネックレスが良いアクセントになっている。あれ?この既視感は‥‥ハッとした僕は画面と生身のそれを交互に指差す。距離感を誤り人差し指が彼女の白い首筋に直に触れそうになって、慌てて引っ込める。

「このネックレスってこれですよね?」

「正解です!何だか探偵さんみたいですね。さっきから」

彼女のクスクス笑いが、空気の震えとともに僕の耳朶をくすぐる。

「これ銀ではなくてプラチナなんですよ。それもかれこれもう百年物のアンチークです」

極小の鎖で細緻に編み込まれたそれは確かに少しくすんで鈍色に近い見た目だが、室内灯の光を浴びて時折キラと輝く。ただ、既視感が完全に解消された気がしない。このネックレス他でも見ている。

「お気に入りの一品なんですね。どこで手に入れられたんですか?」

彼女が今までとは違う意味あり気な笑みを浮かべる。そうだあそこだ!

「実はこのネックレスは弓月先生からの頂き物で‥‥」

「やっぱりそうだ!」

手を叩いて勢い込む僕を”まあ慌てなさんな”と眼で制した彼女が続ける。

「でも今はある方からお預かり中の品なんです」

彼女がすっと首元に手をやってプラチナの鎖をやさしく摘む。

「それは弓月先生ではなく?」

「はい」

では百年物の精緻なネックレスの持ち主はいったい誰で、なぜ多治見心に弓月紫乃の手を経てそれを預けているのか?次々疑問が湧き起こり、これだけで記事が一本書けそうだ。

「あ~、楽しくてしょうがないってお顔になってますよ。棚橋さん!」

「ダメだな僕は。表情のバリエーションが多治見さんみたいに多くなくて」

頬をさする。あっまた”僕”‥‥

「弓月先生の過去に続き、ネックレスの謎を嗅ぎ付けましたね!は~い、では本日のご取材はここまでということで」

「えっ、どういうこと?なぜ?」

「ちゃ~んと、先生から連絡来てますよ。棚橋というライターさんに気を付けろって!」

彼女が両手で口元を押さえてプッと吹き出す。

「ひどいなあ。解っててこの対応ですか」

横浜で見た弓月紫乃とそっくりな背中の角度15度のお辞儀。上がってきた顔には口角と頬だけの営業スマイル。

「申し訳ございません。でも先生が棚橋さんにお約束した通りヒントはお出ししましたよ。ここまでの私の発言にとても大切なキーワードが含まれています。お家に帰られてICレコーダーを慎重に聞きなおしてくださいね」

ここで右目でウインク。うわ、ばれてたのか。

「あ、そ、それはその‥‥いいんですか?」

「棚橋さんのお仕事熱心に免じて!」

今度はさも楽しそうにまた微笑む。一見師弟関係に見えるが、孤高の画家弓月紫乃と敏腕キュレーター多治見心の違いはこのフォローの差なのだろう。開き直りの猶予を与えられ、一つ息を吐いて茫然自失の池の底から這い上がる。

「あとはやっぱりご本人に訊けってことですね」

「でもしばらくは無理ですよ。先生入院中なんで」

彼女が声のトーンを落とし少し俯いて顔を曇らせる。今日初めての表情。

「入院?」

「心配はいりません。定期検査入院ですから。ご親族の遺伝性疾患の関係で年一回受診されてらっしゃいます」

横浜で会った時セルフポートレイトより痩せてると感じたのは、そのせい?いや検査だと彼女は言っている。残念に思うと同時に新たな取材意欲が頭を擡げる。かねがね感じていることだが、ライターって稼業は地頭なんだ。地頭、そう鎌倉時代のあの地頭は、貴族の荘園を管理すると称してそこから如何に上前をはねて懐に入れるかを常に考えていたと言う。弓月紫乃の取材に転んでも土を掴む。そう言うと多治見心に失礼なのだが、たぶん失礼と思わないくらいに、目の前の女性にも魅力を感じている自分がいた。

 「たった今”ポージングする画商”って題名の記事が浮かんだんですけど」

リアクションなくボ~っと佇む僕に心配げな視線を送っていた彼女が、意表を突く僕の言葉に文字通りポカンと口を開いた。

「気鋭の画家弓月紫乃の専属モデルを務めつつ、画廊を切り盛りするキュレーター多治見心。貴女自身がモデルを務めた弓月作品と、これから撮影する貴女のお仕事ぶりの画像を載せれば、”美の起源”の四ページ、いや構成によっては六ページはいけそうですよ!ご入院中だとしても作品画像の掲載許可くらいは弓月先生から取って頂けますよね?」

何でも出てくるショルダーバッグからそそくさとデジカメを取り出すと、彼女がモジモジとパンツの上に出したヌードピンクのブラウスの裾を意味もなく繰り返し引っぱる。

「ちょっと待ってください!今日は普段着なんで‥‥」

釣れた釣れた。相手が着衣やメイクの心配を始めたら、突撃取材はほぼ成功。

「あの、私自分のこと何も話してませんけど‥‥」

「たった今十分うかがいました。貴女がとても魅力的なキャラだということを」

ぽっと紅のさした顔を両手で覆う。

「どうしよう‥‥」

しかし待つこと数秒、両手の扉が左右に開いた時、彼女の双眸は落ち着きを取り戻し、むしろ何かの含みを持っているような不敵な視線をこちらに向けていた。

「お申し出ありがたくお受けしたいと思いますが、正式のお返事は明日廊主荻島の了解を得てからとさせて頂きます。た・だ・し!一つ条件があります」

彼女が再び、しかし今度はキリっと人差し指を立てて天井に向ける。あれ?完勝のはずが。

「は、はい、何でしょうか?」

「私、多治見心は美大日本画科卒にも拘らず卒業と同時に絵筆は折っておりますが、代わりにペンを持つ楽しみを覚え、一年ほど前から画廊の日常を日記風の文章にして日々綴っております。というわけで棚橋さん、文章書きのプロと見込んで私からの条件というのは、私の文章を読んで公にできるレベルかどうかを判定して頂き、叶うことなら発表の場を与えて頂ければと」

「今ここで読ませてもらえますか?」

間髪不要。このひとの著わしたものなら是非読んでみたい。

「はい、こちらへ」

さっき名刺を取り出した机の広口の引き出しを引いて、ノートパソコンを机上に置きスイッチを入れる。やがて立ち上がったデスクトップ上のフォルダを彼女が開けると、月別に几帳面に区分けされたサブフォルダがズラり。その一つをクリックし最近の日付のWordファイルが開く。

「どうぞお掛けになってください」

中腰で操作していた彼女が緊張した面持ちで僕を振り返った。言われるがまま机と同じ木製の椅子に腰掛けて千字ほどの文字を一瞥。断りなしに別のデータ、そのまた次。行動記録のようなものを想定していたが、なかなかどうして現在の画壇や個々の作品、画廊経営に関して自らの意見が的確な日本語で明示されていて、うちの雑誌の読者層に歓喜をもって受け入れられそう内容。どうやら僕は大当たりを引いたようだ。

「どう、でしょうか?」

無言で次々ファイルを開く僕に、いたたまれなくなったのか彼女が声を発する。

「面白い!」

反射的に言葉を返し、親指を立てて彼女に向ける。

「ほんとに!」

「え~、本当に」

迸り出る満面の笑み。絵でも生身の今日これまででも彼女は様々な笑顔を僕に向けてきたが、これほど意図が解りやすいのはなかったなあ。

「”ポージングする画商”は企画変更。僕が導入を書いて、そこから”二刀流女画商の日記(仮題)”として毎月連載にしましょう」

また”僕”、だがそれも仕方ない今の僕の気分。

「ほんとに!」

「え~、本当に」

プッと同時に吹き出してディスプレイから目を上げ、一方向から双方向に視線を切り換えて改めて微笑み合う。才知溢れ、チャーミングな女性にお引き合わせくださり感謝いたします。まさかこれがそもそもの女神様の意図ですか?いや、まさか‥‥退院されたら貴女自身の謎の答えといっしょに教えてください。弓月紫乃様‥‥

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