接吻

 我が家のリビングに掛かる絵の中で最も小さな作品。SMサイズ、22㎝×16㎝の狭い画面を押し広げるように、少女が自らの存在をアピールする。白地に鴬色の胸当てと、襟と袖に同色のラインの入ったセーラー服を纏い、ナチュラルブラウンのセミロングの前髪を眉の高さで切り揃えた女子高生は、ほんのり紅に染まる瞼を下ろした夢見心地な瞳を薄く見開き、唇には大輪真紅の躑躅がまるで口元から花開いたようにして咥えられている。左手でふわりと髪をかき上げ、右手を咥えた花びらの先に添えていて、背景スペースは頭頂部の左右以外に存在しない。その僅かなスペースから金箔が絵全体にハラハラと舞い、躑躅の花芯が一つ二つと花弁の先から零れ落ちる。上気した少女の表情からは、この先の人生に対する希望しか読み取れない。しかし同時に、この絵が狭いスペースを一杯に使い、過度なまでの奔放さと無邪気さで観るものに訴えかける印象は、作者からモデルの少女への精一杯の思いやりと祈りの感情の表出ではないかとも想像してしまう。


          ♢

 「ねえ、”最後の一葉”ってお話知ってる?」

病室の窓の外では濃い黄色に色づいた銀杏の葉が、時にビュンと吹きすさぶ木枯らしに舞い立てられ、やがてハラハラと視界の下へと落ちていく。今の私には葉っぱの落ちていく先を確かめる術はない。

「あのお話のは蔦の葉だよ、これは銀杏」

そう博識ぶってフレームレスの眼鏡の弦を上下させながら、鴬色のプリーツスカートに白地にスカートと同色のストライプの入った見慣れたセーラー服姿の私が答える。

「そんな講釈はどうでもいいから、早く一葉をスケッチしろ~!それと何度言ったらコンタクトにするの!」

私の癇癪にびっくりしたような私が、リュックから色鉛筆の缶を取り出して、いつも持ち歩いてるスケッチブックにシャカシャカと何本かの鉛筆を取っかえひっかえ走らせる。

「これで‥‥どう、かな?」

私が差し出したスケッチブックをしげしげと見つめる私。

「よし、上出来!そこの壁に貼っとけば、私は死なない」

ハッとした顔で私は私を見つめ、”そうだね”と声に出さずにつぶやきながら、ベリベリとその絵を切り離して窓枠に立て掛ける。そんなはずないと分かっていても、私に向ってぎこちない手つきでサムアップする。

「あっ、このお話の結末は蔦の葉を壁に描いた画家は死ぬんだった。ダメじゃん!」

おどけたように二人の私は笑い合うが、

「いいよそれでも‥‥」

私に顔を近づけてきたもう一人の私は、眼鏡の奥のつぶらな瞳を濡らしながら私の耳元に唇を寄せてそうつぶやいた。知っててこのお話を振った自分に対する嫌悪感と、知ってて描いてくれた私の思いやりへの感謝の気持ちが綯い交ぜになる。

「バカ!」

精一杯の力で頬を張ったつもりだが、涙にほんのり上気した私のほっぺたを最早撫でることしかかなわず、私の掌はそっと私の冷んやりとした両手に包み込まれる。あなたは私、私はあなた、物心ついた時から私はいつも私の顔と向かい合って生きてきた。両親でさえ私たち二人を私の右目尻にあるいわゆる泣き黒子の有無で見分けていたらしく、小学生の頃私の片割れの目尻にマジックで黒子をいたずら書きしたら、母親に死ぬほど怒られたっけ。それくらいそっくりの二人だった。でも今の私は、目の前の生気に溢れ、目尻から涙を溢れさせるこの娘とは似ても似つかぬ顔をしているのだろう。痩せ細り涙も枯れた蒼白の表情。鏡を見なくてもそんなことくらい分かってる。私は私、あなたはあなた、私、雅(みやび)と、あなた、京(みやこ)の同一性は間もなく永遠に失われる。銀杏の落ち葉のように消え逝く私がこの世に残せるものは、やっぱり私しかないのかな?


 「ふ~、終わった終わった!」

拳を握った両手を突き上げる。

「お疲れ様、生徒会長さん。送辞完璧だったね」

「最後目尻に手をやったのは演出かな~?」

私が私であることの唯一のアイデンティティの印に人差し指をあてる。

「もうやだ~、この黒子が時々痒くなるのよ。生理現象!」

キャハハッとひとしきり三人で笑い合う。美術大付属高校の卒業式で先輩たちを送り出し、後片付けを終えて生徒会仲間の佳奈と千花といっしょに校門へと向かう。見上げると今年も早々と三分ほど咲いた校庭の桜の間から漏れてくる光も既に眩しいと感じる高さから差し込んでいて、ネイビーブルーのブレザーの肩をほんのりと温めてくれている。

「入学式の歓迎の言葉で、生徒会も引退だね。私たちエスカレーターで美大に上がるから受験勉強もないし、この先一年何しよっか?雅」

「そうねえ‥‥あっ!」

人差し指を軽く俯いた顎にあて眉間に皺を寄せて考えるふりをすること数秒、ポンと手を打つ。

「恋でもするか!」

「何その論理の飛躍」

「何でなんで、全然飛んでないよ。芸術家にとって恋愛とセックスは制作の肥やしでしょ!」

「セ、セックス‥‥」

そうつぶやいて絶句する千花、ポカ~ンと口を開いて無言で頬を染める佳奈。

「あ~、中等部から純粋培養のお嬢様方には刺激が強すぎたかしら?ごめんあそばせ」

「も~、雅のバカ!」

二人から頭と背中を同時にはたかれる。防御のため屈めた身体を起こし縮こまった首を伸ばすと、校門を塞ぐように並んだ三つのシルエットが目に入る。午後の陽光を背にして顔立ちははっきりしないが、セミロングの髪や背格好はコピーみたいに同じ、一歩前に出た真ん中の子の両横に寄り添うように立つ二人は彼女の影法師みたいで、思わず吹き出しそうになる。来たか‥‥

「あのネクタイ、中等部の子たちね」

「きっと雅狙い」

真ん中の子が二つの影を背負って小走りで私に近付いて来る。

「ごきげんよう。高等部の長田雅先輩でいらっしゃいますね」

「いかにも」

発声可能な一番下のオクターブで応え、胸を反らせ両腰に拳を添えてみた。私の後ろでは吹き出し笑いが起きたが、当の本人はたじろいだのも一瞬ですぐさま本題に入る。

「私、中等部三年の多治見心と申します。前から先輩のファンでした。学内作品展で拝見する作品も素晴らしくって‥‥来月から同じ校舎に通わせて頂くことになり、一言ご挨拶して覚えて頂ければと」

ガバリと頭を下げる。

「面を上げられよ」

私につむじを見せるこの娘にはボケは通じないらしい。いや時代劇言葉が通じないのか。

「雅、可哀想だよ」

外野から囁かれ、オクターブをチェンジ。

「え~っと、多治見さん、顔を見せてくれないと覚えられないよ」

「あっ、はい!」

おずおずと上がった彼女の色白の顔は、各パーツの造作は小ぶりなもののトータルバランスは整いとってもチャーミングで一度で覚えられそうだ。向うの外野が潤んだ目元でしきりに頷くのを見ると、きっとこっちの後ろも同じことをしてるんだろうなあと想像がつく。

「あの、ここに私の先輩への気持ちを書いてきました。お時間があればお読みください」

両手で差し出された桜色の封筒には、やはり整った可愛らしい字で私の名前が書かれている。

「ありがとう。後で読ませてもらうよ」

「ありがとうございます!これからもよろしくお願いします」

上気していた頬をさらにピンクから紅に変えた彼女は、再度一礼しピンと背筋を伸ばすと右脚を後ろに引き鮮やかな回れ右をして、校門を駆け抜けて行く。影法師たちも慌てて私たちに頭を下げると彼女を追いかけて行った。一陣のつむじ風が吹き過ぎて手元には手紙が一つ。

「これで何人目?」

「モテる女はつらいねえ。あの子についさっきの雅の発言聞かせてやりたいわ。きっと卒倒するよ」

大笑いの二人に苦笑を返して、ロングボブの額にかかる前髪を所在なくかき上げた。


 私には同じ日に同じ母親のお腹から生まれ、便宜上姉と呼ばれるもう一人の私がいる。でも彼女はこの学校にはいない。いっしょに通っていた中学から上の高校に上がらず、私一人がここ美大付属高へ飛び出してきた。双子だからって見た目は同じでも、感性や才能が全く同じってわけじゃない。小さい頃から姉の京は能力の発露や興味の対象を見つけるセンスが明らかに私より早くて上だった。絵本を持ち出して母親に読み聞かせをせがむのも、幼稚園のジャングルジムに取り付いて登っていくのも、そしてお絵かきも。しかし京はただの決め事だけの姉なのに、姉の自覚は実際年の離れた姉妹以上に強かった。二人揃って母親に絵本を差し出すようになるとさっと自分のを下げ、幼稚園の運動会のかけっこでもすっと私に抜かせてくれた。もちろん京と正反対に一度取り組んだことにがむしゃらで負けず嫌いな私は、妹根性丸出しに姉に負けまいと背中を追って追い抜こうとがんばったんだ。小学校の写生大会で並んで画板を提げて描いてると、京が私のをチラチラと見てるのがわかる。

「お姉ちゃん、私の見ないでよ!」

画板に身体を被せる。

「だって雅の絵、この辺りのタッチとかとってもキレイなんだもん」

絵筆で私の描いた公園の池の水辺のキラキラを指して、優しい声で褒めてくれる。私は金賞、京は銀賞。

「おめでとう、雅」

素直に”ありがとう”が言えず視線をそらす。その言葉が年齢を経るごとに嘘くさく感じるようになっちゃったんだ。中学でも美術部に入って画作を続ける京、私は”移り気な雅は絵なんて興味ないよ”って装ってダンス部へ。京とガチで闘いたい。それにはいっしょにいてはダメ!中三になって親が二人の部屋を分けてくれたのをきっかけに、京はおろか親にもないしょで受験勉強を始めた。

 「ごめん、あなたは京じゃなくて雅よね?」

困惑の表情で母親の目線が私の泣き黒子を確認しているのがわかる。

「そうだよ。雅は美大付属に入って美大に進み、画家になる!」

偶々帰ってきてリビングに入ってきた京がドアから廊下に後ずさり、通学バッグを抱えたまま呆然と立ち尽くしているのに気づいていて、それでも私の感情の迸りは止まらない。

「私はお姉ちゃんに実力で勝ちたいの。いっしょにいたらいつまでもそれを証明できない」

「何よ突然。雅は雅、京は京。私もお父さんもあなたたちを比較したことなんてないわ。それに中等部のある美大付属に高校から入るのって、定員的にすごく大変だと思うよ。今の学校は内部進学申告期間を越えると、受験に失敗したからって入れてくれないのよ」

「わかってるよ、そんなこと。落ちたら公立に行くよ。それくらいの準備はもうしてるから」

いつも私たちの好きにさせてくれて、大概のことを認めてくれるエプロン姿のお母さんも、降って湧いた修羅場に答えを詰まらせているようだった。

「雅、ちょっと。とにかくお父さんとも相談しよ」

ドアの向こうで京が二歩三歩四歩と玄関際まで下がっていくのを感じる。この姉は今自分が口を出してはいけないことをちゃんと察している。現時点ではやっぱり勝てないんだ。目の前の母親にではなく、やっぱりドアの向こうのもう一人の私にいらついて捨て台詞。

「もう決めたこと。誰にも変えられない」

母親に背を向け自室に飛び込もうとした刹那、もう一人の私がしゃがみ込んで顔を手で覆う気配を感じた。ごめんね、京‥‥


 そうして飛び出した私は、今ここにいる。高校に進んでからは姉とは必要以上のコミュニケーションはしていない。別にギスギスしているってわけじゃなく、きっと彼女もはねっかえりの妹との距離感を弁えてくれているのだろう。さっき多治見さんと言う子にもらった桜色の封筒を開けると同じ色の便せんにびっしりと私への思いが書かれている。この娘は年上の先輩への単純な憧れだけだと解りしばしホッと。この間のはかなりヘビーな内容で、ノーマル/アブノーマルで片付けてはいけない世の中であることを念頭に、やんわりそちらではないことを返信で表現するのに苦労したんだ。

“多治見心様

前略 先日は突然のことで驚きましたが、お気持ちありがとうね。これからは同じ校舎で授業を受けるわけだから‥‥”

あれ?何か変。えっ、停電?目の前が真っ暗だよ!この時ドサリと私が椅子から頽れる異音を耳にして妹の部屋に駆けつけ、迷わず救急車を呼んだのも姉だったそうだ。まったくもう!


 次に気が付いた時には、天井も壁も真っ白な部屋に寝かされていた。ジーコジーコと耳障りな音を発し数字やランプを光らせる機械と何本かの管で私は繋がっていて、傍らには心配そうに私の顔を眼鏡越しの澄んだ瞳で覗き込むもう一人の私がいた。病院の診断はステージⅣの卵巣癌。少し前からご飯の後でもないのにお腹が膨れているような感覚があり、時々どんよりと痛んだり、熱っぽかったりしてたんだけど、元々生理が重い方なので気にしないようにしてた。その間も病気はどんどん進行し他臓器にも転移していて、こうして担ぎ込まれた段階では最早手の施しようがなく、保ってあと半年の命とのことだったようだ。その衝撃的かつ最悪な情報を当事者を含めて家族全員に共有してくれた両親にはとても感謝している。聞かされた時はもちろんショックだったよ。三日間くらい眠ったふりして誰とも口をききたくなかった。何で私なの?私だけなの?あまりの空しさに涙さえも出なかった。このまま死んだら私は何も世に残せない。何とか私が生きた痕跡たりとも残して逝きたい。藁にも縋る気持ちで結局思い浮かべたのは、もう一人の私の顔だった。

 「ねえ、京!」

サイドテーブルの花瓶にピンクのカーネーションの花束を生ける学校帰りのセーラー服がこっちを振り返る。甘える時はお姉ちゃんって猫なで声、何かを強制する時は名前で呼び捨てる。いつも通り嫌な妹。枕元に戻ってきた姉はしばらくぶりに口を開いた私の次の言葉に集中すべく、眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げる。

「眼鏡やめてコンタクトにしなよ。きっとその方がもてる」

「えっ?」

ポワっと彼女の口が開く。この期に及んで姉をからかいたくなる自分の性格の悪さに呆れつつ本題に入る。

「今のはあなたの先の課題。今私が京にして欲しいことは、私の肖像画を描くこと。私の大好きな岩絵の具で」

“目を瞠る”ってこういうことを言うんだって分かるほど、京の眼球が一瞬にして膨れ上がる。

「私、日本画なんて描いたことないよ」

「私だって二年の後期になって授業で使い始めたところ。三年になったら選択科目は絶対日本画って決めてたんだけどなあ」

「雅‥‥」

ついさっき全開状態だった二重瞼が萎れるように閉じ、また眼鏡の奥がウルウルしだした。

「岩絵の具はね、地球の欠片たちなんだ。和紙に載ったその一粒一粒が地球を造り育んだ太陽の光を浴びて、思い思いに大地の色をキラキラと輝かせるの。私はそんな地球の恵みに彩られてこの世に存在した証しを残したいの」

「そんな大切な絵、私みたいな素人じゃ‥‥」

蹲るように折り畳み椅子に腰を落とし頭を抱える京。代わってカーネーションたちが賑やかに私の視界に顔を出す。”美しいしぐさ”‥‥花言葉のまんまだね。

「大丈夫!京のドローイングが抜群なのは悔しいけど認めてあげる。そしてあなたは他の誰よりも私のことを知っている。だってあなたは私なんだから。さあおつむを上げて私を見て」

条件反射のように京が顔を上げる。

「ほら、あなたでしょ!」

私が私をじっと覗き込む。

「そう、だね‥‥」

「岩絵の具の使い方なんて、そうネットを叩けばいくらでも出てくるよ。それでも困ったら私のPCに講義ノートがあるから。じゃあ、制作は次の私の外泊許可日、家でね」

またまた京が目をまんまるに見開く。

「それってもう再来週じゃない。絶対無理ムリ!」

「私はあのカーネーションたちと同じでもう切り花なの。萎れてしまう前のピチピチ活き活きとしている私の姿を、遺影として写し取って欲しい。それには今しかないの!」

「イ・エ・イ?」

聡明な京がこの言葉に漢字を充てはめられないわけがないじゃん!

「私の葬式に飾るんだから、上手に描いてよね」

病室のリノリウム張りの床にがっくり膝を落として両手で顔を覆い、嗚咽に背中を上下させるもう一人の私。ごめん、ほんとうにごめんね。

「長田京ファンの最期のリクエストが分ったなら、さっさと準備をなさい!」

窓の外では逢魔が時に昇る朧ろ月が優しい光を放ち始めていた。


 「どこにも行かないでずっと家にいるなんて、何を二人で企んでるのか知らないけど、二日間無理はしないでよ」

父の運転で病院を出た車中で母が心配そうに話しかける。直前の検査数値が芳しくなくて、外出許可が出るかギリギリだったようだが、娘たちの得体の知れない強い決意を感じ取った両親が主治医に頼み込んでくれたようだ。そんな優しい配慮にも素直になれない自分への居心地の悪さも手伝い車窓にふっと目をやると、春も終わりに差し掛かった街の景色が流れていく。その時真っ赤な連なりが視界をよぎる。

「お父さん止めて!」

え!って口をして振り返った父だったが。前を向くと慎重に車を路肩に寄せてくれた。

「どうしたの、雅!」

母が呼びかけた時、既に私は車を降り歩道の生垣にズンズン進んでいた。

「これだ!」

そこには朱色の花をたわわに付けた躑躅が整然と植えられていた。

「ごめんなさい、私の最期のお願い。どうか私を飾って!」

しばらく吟味して岩絵の具の緋とも紅とも見える一塊の花枝をポキリと手折り、心配そうに見守るドア口の母のもとに小走りで戻った。衝動に任せての行動だったが、たったこれだけでも胸の鼓動が早鐘のように鳴り吐き気が込み上げる。やっぱりこれが私にとってラストチャンスなんだ‥‥


 「おかえりなさい!」

車が家の前で止まる音を聞きつけて、元気なもう一人の私が犬ころのように玄関先に走り出てきた。

「お~、見た目はいっぱしの画家さんだね」

「そう、かな?これお母さんに教えてもらって自分で縫ったの」

素足にスリムデニムの上に、ボタンで留めた前開きで腰の高さの両側に大きなポケット付き、サンドベージュのスモックをダボっと着た京が、恥ずかしそうに頬を赤らめ両手首に手をやって袖ゴムを無意味に伸び縮みさせている。今の私の顔にはあんな風な可愛い天然紅は差さないだろう。チークとリップ、必須だな。それとこの子たちも。左手に持った緋の躑躅の一枝にそっと触れる。

 久しぶりにリビングで家族揃って紅茶とケーキを楽しんだのも束の間、早々に二人で二階に上がり姉の部屋のドアを開くと、色彩の海が私の視界を遮った。部屋の対角線に張った洗濯ひもに十数枚の和紙が無造作に洗濯ばさみで吊るされている。一枚毎に同系色の岩絵の具がグラデーションを形成し、吊るされた紙の上から下へ流れ落ちるようだ。きっと着彩の練習をしてたんだね。京の両目元の小さなくまの原因はこれだったんだ。

「ごめん、散らかってて」

慌てて洗濯ばさみを緩めて、京が色とりどりの和紙を外していく。

「どう、やら、私を描く準備は万端なようね!」

「どう、かな、私ちゃんと雅を描けるのかな?」

「つべこべ言わずに、さあ描いた描いた!これ借りるね」

カーテンレールに掛けられた中学時代私も袖を通していた京のセーラー服を身に纏う。

「あ~!ちょっとお姉ちゃん太ってませんか~?」

「えっ‥‥」

またまた京の頬が紅いに染まる。違う違う、私が痩せ細っちゃっただけだよ。でも生と死、私とは歴然と異なるお肌の反応にまたも愕然とする。

「冗談だよ。はい、さっさと鉛筆持って!」

「う、うん」

姉の勉強机の椅子に腰かけてポーズを取る。雲肌和紙を張った木枠をイーゼルに置いて、京のドローイングが始まる。躑躅の花枝を両手で捧げ持ってみたが、何だか物足りない気がしてきた。メイクで人工的に色付けしても隠し切れない青白い顔が、薄いクリーム色の和紙の上で取り澄まして作り笑いを浮かべていてもちっともキレイじゃない。こんなの私じゃない。こんな私を世に残したくない。

「待って!」

京が怪訝そうな顔を上げて、私の次の言葉を待ち構える。一瞬”何かこの部屋暑くない?”とでも言って気遣わし気な姉を安心させようかと思ってみたものの、やっぱり本音が口から零れ落ちるのを止められない。

「この構図じゃダメ!」

手にした花枝からいっとう大きな花をちぎり取って花芯から唇に咥え、空いた両手を左で髪を掻き上げ、右手を花びらの先端へ優しく添える。天然紅の強いインパクトが構図の中央に入り、私の顔に生気を蘇らせる。よし!

「これでお願い」

唇に異物が挟まったことで、声がくぐもる。

「でもこの絵は‥‥」

じれったくなって一旦口から花を離す。

「遺影だからって正面向いて畏まっている必要はないじゃない。今この瞬間を生きる私を鮮やかに写し取って!」

唇を噛んで一つ頷いた京が再びイーゼルに集中し始めた。ドローイングの完成を二人で確認し合ったのは日が変わってから。精魂尽き果てお風呂に入ることも歯を磨くこともできず京のベッドに倒れ込み、二人抱き合って眠った。早々に寝息を立てる京のいや私の寝顔がとっても可愛かった。


 カチャカチャと陶器の触れ合う音に目を開けると、京が十枚ほどの絵皿をイーゼルの周りに並べている。ほんわりえぐい膠の臭いが私の鼻腔を刺激する。

「あっ、起こしちゃったね。ごめん。あとは着彩だけだから、寝てて大丈夫だよ」

休み休みとは言え長いポージングの影響で腕や首、背中に強いこわばりを感じるし、何だか熱っぽい。テキパキと岩絵の具を膠で溶いていく京の姿を、布団から顔を出してぼんやり眺めていると、自分がこれから絵を描こうとしているように感じる。ひょっとしたら私が死んで肉体が滅びても、私の魂は京の身体に乗り移って二人で絵を描き続けられるんじゃないか、そんな幸せな夢想に沈み込んでいきそうになる。だめだめ、今京に同化しちゃ!ぶるり首を左右に振ってベッドを抜け出し、腕組みして批評家の視点でイーゼルと向かい合う。

「この色はどうやって出すつもり?」

デスクに置いたグラスに生けた躑躅の花枝を指さす。京が指で掻き混ぜていた絵皿を私に向かって傾ける。

「この岩緋とこっちの岩紅を混ぜてみようと思うんだけど?」

「明るいタッチにして欲しいから紅樺もありかな‥‥混ぜるんじゃなくて花びらに岩紅と紅樺を重ね塗りして、岩緋で花脈を一本一本引いてみたら」

そう私が言い終る前に京が紅樺の瓶をさっと棚から取り出して空の絵皿にあける。

「わかった、やってみる!」

先端を緋色に染めた面相筆が紅のグラデーションを織りなす躑躅の花弁の上をスッ、スッと迷いなく滑っていく様子を、飽きることなく視界に収める。京の筆捌きには一点の曇りもなく、安心感と美しさが漂う。もう、私ごときが口を挟む余地はないなあ。僅かな準備期間でここまで描けるなんて、やっぱり京はこの道を進むべきなんだ。

「ねえ雅、私ね、美大に行こうと思う。来年雅のとこの大学を受ける」

面相筆を筆皿に戻し、ふっと一息つくと京がうつむき加減で口を開いた。

「おっ、やっと決心したか。でもうちの大学なんかいかなくても、京ならもっといい大学に行けるでしょ」

「う~うん、それじゃダメなの。私は雅が歩もうとしていた道を辿って往きたい。雅といっしょに」

「身代わりなんて考えてたら大きなお世話だよ!」

解っているのに言わずにいられない。京が顔を上げて潤んだ瞳を私にぶつけてきた。

「そうじゃないの。今までの私は何にしても雅と同じことをするのを本能的に避けていたと思う。持って生まれたDNAは同じなくせしてね。雅が美大付属へ進んだ時、絵は高校の部活で止めようと思ってた」

「京‥‥」

「でもね、雅に言われてこの絵の準備を始めていく中で、身体の奥底に眠っていた遺伝子に火が着いちゃったみたい。雅がきっとそうだったみたいに。だってこの二週間描いても描いてもちっとも眠くならないしお腹も減らないんだよ!」

いつも控えめで自分のことを多く語らない優等生の姉の、常ならぬ自己主張の圧力に耐え切れず目をそらす。そこには躑躅の花だけが鮮やかに彩られた描きかけの私であり京がいた。囲まれちゃった。

「私は雅と同じ美大に行って、雅と同じ環境にこの身を置き、そこで腕を磨いてプロの画家になる。雅が参りましたって言ってくれる高みを目指す。だから雅、私の傍で私がさぼらないようにお尻を叩き、道に迷っている時は正しい方向を照らして欲しいの!」

これ以上情熱の炎燃え盛るこの娘とまともに向き合っていたら、こっちの熱が上がって倒れそう。

「はいはい、分かったわかった。要は京は私を安らかに天国へと送り出してくれないってことね」

「そう、だよ‥‥」

京が私に抱きついて頬をすり寄せて来る。疲れた両腕に今出せる渾身の力を込めて京の身体を引き剥がし、涙腺が決壊した瞳を覗き込む。

「だったら、先ずこれを完成させなさい!仕上げに散らす金箔は用意してあるんだろうね」

慌ててスモックの袖で目元の水分をゴシゴシと拭った京が、画材棚から”純金箔”と朱印の押された白い紙袋を取り出して、ピンセットで一枚をつまみ上げる。窓から差し込む光を受けて正方形の金箔がキラキラと揺らめく。

「日本画の唯一の欠点は画材が高いってことかな」

私の納得気な表情を確認すると、取り出した金箔を空いた絵皿に大事そうにフワリと載せて、京がそうつぶやいた。

「ならさっさと売れっ子になって号単価上げて、懐を気にしなくていいようになりなさい!」

人差し指を京の鼻先に突きつける。

「その調子だよ、雅。そんな風に‥‥ね!」

私が私に微笑みかける。

「わかった。ずっと傍にいてあげる。逃げるなよ!」

無言で頷く京の瞳からまた零れ落ちる液体を指で拭ってあげて、今度は私が彼女の身体を包み込んだ。頬を寄せ合いそして二人同時に笑い声を立てる。どっちが死のうが生きようが私たち双子なんだ!背中のヒクヒクがいつまでたっても止まらなかった。


 初冬の夕陽はあっという間に落ちていき、病室は人工の光に照らされている。いたずらっぽく躑躅の花芯を咥え生気を溢れ返らせて、岩絵の具の大地の息吹きと金箔の輝きに彩られた私の遺影に改めて目をやる。その作者はベッドの脇で優しい微笑みを浮かべていて、私の視線が向う先に気付くと、一つ肩を上下させてから私に語りかける。

「雅はいつもこの絵のことを遺影って言う。最初は私もそう思ったから慣れない画材で精一杯描いた。でも描き上がって白い壁に掛かるこの絵は、無邪気さと荘厳さを兼ね備えていて、”イエイ”じゃなくて”イコン”だと私は思うの。この先ずっと畏敬の念と希望を、見る者に与え続けるイコンだと。少なくともここに一人この絵に救いを求める迷い子がいる」

つべこべ言わなくてもそんなこと解ってるよ!ここに描かれているのは私にとってはあなたなんだから。私だって祈ってるよ毎日‥‥それでも敢えてあきれ顔。

「はいはいお姉ちゃん、独りよがりのクサイ語りはそれくらいにして!ところで今夜は月は出てる?」

「う、うん、キレイな三日月だよ」

面食らったように立ち上がって窓辺に寄った京が、私にセーラー服の鴬色の後ろ襟を向けて答える。

「私に見せて」

もう一人の私がまたスケッチブックを開いて、それだけ一本他より短くなった色鉛筆を走らせる。

「雅といると黄色の減りが早いなあ。お月様が大好きだもんね」

群青紫に塗られた夜空を背景に、端っこを手で掴んで青龍刀のように振り回せそうな、弓なりに細く、でも眩く輝く月。私はまたいたずらを思いつく。

「ねえ京!私、京がプロデビューした時の筆名考えついちゃった。”ゆづきしの”」

「えっ、”ゆ・づ・き・し・の”?」

首を捻りながらスケッチブックのページをめくって、もう一人の私が私の発した音に漢字を充てはめる。

「”ゆづき”はこれよね」

そう”弓月”。即座に頷く。

「”しの”は‥‥」

「今あなたが描いた夜の色でしょ!」

「これか!」

鉛筆がなぞった先には“紫野”。

「違う!それじゃ名が字画的に重過ぎるでしょ。”の”はシンプルに」

京が”野”にバッテンして、横に”ノ”と書いてニッと笑って舌を出す。

「バカ、ここでボケてどうすんのよ!」

私の突っ込みに満足気な京がノの字に二画足して、”乃” を完成させた。

「”弓月紫乃”か、字画も響きも抜群だね!」

「それがあなたの筆名よ。”長田京”なんて”雅”とセットじゃなきゃ売れない、お笑いコンビの片割れみたいな名前はさっさと脱ぎ捨てて、”弓月紫乃”として世の中に羽ばたきなさい」

「ちょっと言い過ぎだよ。親に悪いよ~」

困惑の笑みを浮かべながらも手はスケッチブックのページをめくり、改めて四文字を清書して私に掲げて見せてくれた。もう満足に動かない身体に力を込めて右手を差し出す。もう一人の私はスケッチブックを枕元に立て掛けると、両掌で私の手を包み込んでくれた。日々膠と格闘しているのだろう指先は、荒れていてザラザラしているけど、その痕跡が却って私の先行きの不安を取り除いてくれる。温かいなあ‥‥

「京と雅、二人は今ここで溶け合い、融合して一人になる。これから私たちは一人、共に歩む。”弓月紫乃”ここに誕生す!」

これ、どっちの言葉だったのかな?ほんとうに空気を震わせたのかな?でももうそんなことどうでもいい。私たちは一人なのだから。

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