余韻

 茶色地に淡い水色のチューリップ柄のノースリーブワンピースを纏い、空のワイングラスを両手で玩ぶロングヘアの女の子と正面から向き合う、構図としてはオーソドックスなポートレート。僅かに開いて前歯を覗かせる口元に笑みを湛え、さほど高くない鼻梁の天辺と軽く見開かれた眼の周りをほんわりと上気させた彼女はとても楽しそうで、これから進もうとする未知の道筋に何の不安もないようだ。しかし更にこの作品に目を凝らすと、フリルに包まれた彼女の首元に細身の銀の鎖が巻き付いていることに気付いた。銀と言うより鈍色。絵全体から受ける明るい印象に投じられた一筋の曇り。改めて目を合せると、天真爛漫な少女と老獪な大人の女を行き来する彼女の意外なしたたかさを想像してしまうのは、些か穿ち過ぎだろうか。


          ♢

 「せ~の!左右のフックに掛かった?」

「こっちは大丈夫」

「あっ、ちょっと待って指挟まれちゃうよ‥‥オッケ~、こっちも掛かった」

「みんな大丈夫だね?手離すよ」

明日からの卒展を前に、大学の広大なギャラリースペースに四年生の作品が次々と掛けられ、或いは配置されていく。私たち下級生は先輩たちの作品を抱え、担いで展示のお手伝い。今学生四人でどうにか掛け終えた絵はP100号、私が脚を伸ばして絵の上で寝転がれるくらいの大作。卒業制作ではみんな大きなのに挑戦するので、その点珍しいってわけじゃない。私だって二年後には描けるはず。きっと?問題はこの広大な雲肌和紙の上に、なぜこのスペースが必要なのかを訴えられるかどうかだと思う。黒群青に塗り込められた夜の背景、左上から垂れ下がるいくつかの紫の房は、風に吹かれているのか右方向へと作品の中央線を越えて流れていく。房につく無数の花々は各々大きさの違う五枚の花弁が精緻に描かれていて、一花ひと花生命を授けられ思い思いに蠢いているようだ。一方、右上奥には篝火が焚かれていて焔を舞い立たせる。漆黒の闇と真紅の炎の狭間に揺らめく藤の花房は、黒から紫やがて風にそよぐ先端は薄紅に染まる。

「キレイ‥‥」

「ちょっと心、画学生なんだから美を表現する言葉に気を遣いなよ」

「だって安っぽい賛美の単語はこの絵には不要なんだもん」

「まったく心の長田先輩推しときたら、それでも特選はあっちだよ」

同級生が指さすギャラリーの一番目立つ場所には男女が躍動する群像画が強い個性を放つ。「美ってなんだろうね?美を点数で評価すること自体無理な気がする」

「あんたここで美大のレゾンデートルを否定してどうすんのよ!卒制提出した時の長田先輩のパフォーマンスの話聞いてるんでしょ。危険危険」

私の目の前で左右に揺れる彼女の人差し指に、学内の噂の拡散の早さを感じて胸がチクチク痛む。

「まだあっちに展示しなきゃいけない作品残ってるんだから、さあ行くよ」

作業用の紺色のエプロンの紐を両手で引いて別の同級生が促す。

「もうちょっとだけここにいたい。先に行ってて」

「もう!」

ぷっと頬を膨らませたり、飽きれたように溜め息をついたりしながら彼女たちが立ち去り、私は暗夜の藤の花と二人きりになる。構図、技巧、色のグラデーション、そしてそこから生まれるストーリー、どれをとっても一級品。普段人物しか描かない先輩が植物をモチーフにすると聞いてちょっと意外に思ったけど、先輩の追求する美は対象を選ばないんだって、この絵の前に立って改めて感じる。

 「設営作業ご苦労様」

聞き慣れた声色なんだけど、やっぱりドキリとしてしまう。振り返るとそこにはグレンチェックのサブリナパンツにベージュのニットセーター姿の憧れの人。

「素晴らしいです!私にとってはこの作品が特選です」

「ありがとう。心みたいなコアなファンがいてくれることが画家弓月紫乃には大事なことなの」

額にかかる黒髪をかき上げる仕草に小さく溜め息。

「あの、この作品を指導教授に提出した時にこれまで銀座で出した全作品のポートフォリオを付けたってほんとですか?」

「そうよ。長田京(みやこ)と弓月紫乃一人で二人、二人で一人、この藤の花で学籍簿に載ってる長田京は終わりにして、これからは画家弓月紫乃一人で生きていく。そんな決意表明の積もりだったんだけどね」

“決意”と口にしたところで、右手を口元に近付けてクスリと笑う。

「先生はなんと?」

「何のつもりだ!ってファイルを投げ返されたわ。売却価格を一点一点書き込んだのもいけなかったのかもね」

艶然と浮かべた微笑に、後悔は欠片も感じられない。でも、そのことが今回の選考に影響していることは覆い難い事実。そんな私の困惑を読み取ったのか先輩が再び語り始める。

「いいのいいの。この国の住環境で100号の絵を掛けるスペースなんてごく稀にしかない。どうせ学校の倉庫で朽ち果てるしかないものにつぎ込む報われない時間。だからと言って手を抜いていないのは解って貰えたようよね。でも私はね、一人でも多くの人に日々私の描く作品と向き合って貰いたいの。これまで購入者のご自宅にお迎え頂いた数十点の作品たちの価値は、この100号と比べるべくもなく大切なもの。美大卒の肩書はどうやら頂けそうなのでそれで十分。アカデミックな美とはこれでお別れ。これからは私の美を追い求めていくことにするわ」

「‥‥」

何の言葉も返せずに私は頷くことしかできない。

「あっ、ごめん心。まだ展示作業中だったね。大切な私の作品たちのモデルをしてくれたあなたには、私の思うところを聴いて貰いたかったの。というわけで日本画家弓月紫乃をこれからもよろしくね」

何の衒いもないホロっとした先輩の笑みにやられて、こみあげてくるものに涙腺がゆるみ切る前に口を開く。

「はい、これからも私でよければ描いてください。先輩のモデルをするようになって、いつでも裸になってもいいようにジムに通ってシェイプアップもしてるんです!」

両腕を横に広げて力こぶを作り、続けて両手を頭の後ろにやり膝を折るポーズでキリっと顔を上げる私に、先輩がプッと吹き出した。

「ごめん笑って。ありがとう心。そろそろ行かなきゃ周りに嫌われるわよ。ただでさえ日本画科のアウトローとつるんでるって思われてるだろうから」

「そんなの関係ありません。私も二年後先輩みたいに毅然として自分の進む道を語れるように精進します。では失礼します。個展楽しみにしてますね!」

少し顎を引いた先輩に、皐月さんに”整然美”と褒めてもらった回れ右をして背を向け画材置き場へと駆ける。振り向きたい衝動に襲われつつも、こちらに背を向け眼鏡の弦に手をやりながら自作のチェックに集中する先輩の姿が容易に想像できたので、手脚の動きを更に速めることにした。この人と知り合い学ぶことで、私の進むべき道はここではないと早く気付けたのは何よりの収穫。でも、いくら非凡の才が備わっているからとは言え、先輩の画作に迷いのようなものを一切感じないのはなぜか?やっぱりあのことが大きく影響しているように思えるけど、口に出してご本人に訊ねるのは難しいだろうなあ。


 「出来ました!”弓月紫乃卒業記念初個展”の図録です」

スポーツジム帰りのいつものカフェで、帆布製のトートバッグから展示告知のポストカードとクリアファイルを取り出して、ビールが出てくる前のテーブルに並べる。

「ありがとう。へえ~手作りなんだね。あれ?この表紙の字見たことあるよ、心」

ブルーのフランネル地に細く赤いチェックの入ったシャツワンピースを羽織り、水泳を終えてしっとりとした黒髪が光る皐月さんが、ファイルを手に取り意外そうに私を見る。とっくに暗くなった窓の外では、細かい雪が街頭に照らされヒラヒラと浮かび上がっている。

「えへ、バレちゃったか。図録と言っても、先輩の意向で一般には配布しないで、作品画像データを関係者に送るだけなんです。なので私が画像を学校のプリンターでこっそり印刷して‥‥表紙の文字もシールプリントすればよかったですね」

ダメだなあ、この”やっつけ癖”。卒業までに多治見心が改善すべき課題帳に書き加えておかなきゃ。

「そうなんだ。却って手間かけて悪かったね。っていうか私も一般人だけど先に拝見して大丈夫なの?」

出てきたビールグラスを私と合せつつ皐月さんはちょっと心配そう。

「ネックレスをした私のポートレイトを是非購入したいと仰る、お世話になってるお知り合いがいらっしゃって!とお願いしたら、OKしていただけました」

「ビジネスのセンスあるね心は」

いたずらっぽい笑みを浮かべた皐月さんに向かってちょっと舌を出してみたが、彼女はファイルの見開き一ページ目にセットしたあのネックレス姿の私と眉根を寄せて向き合っていた。しばらくして無言でページをめくり始める。別の私はスルーか‥‥最終ページで彼女の手が再び止まり眼が見開かれた。

「その作品素晴らしいですよね。もう気付いてらっしゃると思いますが、モデルは画家ご自身です。裸身に浮かべるこの表情。私も実物と対面するのが楽しみです」

やっとリアル私に顔を向けてくれた皐月さんが、ビールを一口呷ってから意外な質問を口にする。

「彼女の首のネックレスって、心のと同じものじゃない?」

「えっ?でもこれは‥‥」

ゴールドという言葉を呑み込んで、皐月さんがこちらへ向けて差し出したファイルに顔を寄せる。

「実物を確認しないと断定はできませんが、元々筆で描かれたのは銀色のネックレスで、それに細かい金箔が貼り付けられているようですね。確かに幅や鎖の形は同じに見えます」

眉根を寄せて何事か思案気な表情をしていた皐月さんが再び口を開いた。

「作品を購入するにはどうしたらいいの?」

「ほんとに買って頂けるんですか!?さっきああは言いましたが、お気遣い頂かなくて大丈夫ですよ」

「いいえ、美しいものは手元に置きたくなる。ただそれだけ」

決断の速さにタジタジしながら、一応訊いてみる。

「え~っと、どの作品の購入をご希望ですか?」

「最初と最後、あなたの並べた通りよ」

バッグについたサイドポケットからスマホを取り出して電卓アプリを起動。

「夏の共同出品当時と号単価が変わらないとして、私のは四号先輩のは七号、これを掛け算すると。え~!二枚合計で最低でもこんなお値段になりますよ?」

先輩はさておき私ごときがモデルの絵がこんなにするんだと改めて驚きつつ、計算結果を示すスマホの画面を皐月さんの目の前にかざす。

「わかった。いつ払えばいいの?」

「あっいえ、このお値段は目安で実際の値付けは確認していませんし、売約は展示期間中早いもの勝ちになります。先輩の作品は人気があるので、初日即完売になることが多いんです。私がモデルの方は大丈夫でしょうけど‥‥」

皐月さんがポストカードを手に取り裏返す。

「三月十一日月曜日一時か‥‥この日時にこの銀座の画廊に行けば買えるのね?」

「はい、たぶん。でも平日ですね」

皐月さんがこんどは黒の大きなリュックサックから取り出したタブレットに指を走らせている。

「銀座なら半休すれば間に合うわ。心、つきあってくれる?」

私と違って“果断の人”だと分ってはいるが、長田先輩の絵を巡るこの件については執着のようなものを感じる。いくら先輩の画力が抜群だとは言え、皐月さんが眼にしたのはプリントアウトされた画像だけ。どうしたんだろう?皐月さんは何にそんなに拘っているんだろう?

「はいもちろん!きっと先輩もオープニングは在廊されると思いますよ」

「じゃあ弓月さんとお話も出来るんだね。楽しみだわ」

トントン拍子に当日の待ち合わせとかを相談しながらも、私の戸惑いの表情に気付いてくれたのだろう。

「ごめん心、白状するね。詳しくは言えないけどこの二枚の絵を見せたいと思う相手がいて、でもこの展示会に連れていっていいものかを迷っていて、なので購入して時機が来たらいつでも見せられるよう保管しておきたいの」

”果断”と”気遣い”が並立しうる皐月さんって、やっぱり私の思った通りの人なんだ。だけど、

「そう‥‥なんですね」

愛想笑いの喉の奥に魚の小骨が引っ掛かったような気分は拭えない。皐月さん自身が私が描かれた絵を心から気に入って欲してくれてるわけじゃないんだなあ。でもそれはそれとしてストイックなスーパービジネスウーマン皐月さん、クールな天才画家長田先輩、私の憧れの二人、更に絵になった先輩と絵になった私が一堂に会するんだよ。この構図から新たな凄い何かが生み出されそうな予感。これは絶対外せないぞ多治見心!この二点何とか個展のオープニング時限定ででも青シール(商談中)にして貰えるように、先輩にお願いしてみなきゃ。

「そうそう、当日はこのネックレスを着けて来てね」

皐月さんがプリント画像の私の首元を指さす。やっぱりキーポイントはそこなんだ。

「もちろんです。絵より可愛く装ってみよっかな」

「そっか二次元と三次元、心の美の競演になるんだね。二次元に負けるなリアル心!」

茶目っ気たっぷりに片目をつぶって私に向かってサムアップする皐月さん。二次元の私はもう何枚?何人も生み出されてるのに、これまでそんなこと意識したことなかったなあ。でも先輩が描いた私もどきの彼女は強力なライバルになりそう。私も精一杯盛って勝負!メインイベントの前座マッチとしてはなかなかいいかも‥‥

「は~い!」

ニッコリ笑って親指を立てた。


 「お待たせ!」

煤けたレンガ造り風の画廊ビルの入口で待っていると、濃いネイビーブルーに細いシルバーのストライプが入ったパンツスーツ姿の皐月さんが、黒のコートと同色のブリーフケースを提げて、春近い陽光を肩に受け小走りに近付いてきた。

「お仕事着の皐月さん初めてです。肩からシュッと腰へ向かうシルエットが際立ちますね。そうかこのためのエクササイズなんだ」

「大人をからかうのはそれくらいにして。そう言う今日の心も大人の女っぽいね」

「そうですか?なら狙い通り、ありがとうございます!」

私はこの日のためにバイト代をつぎ込んだヌードピンクサテン地のロングワンピース。スカート部はプリーツ入りで、V字に深い襟元を大き目フリルがふんわり包む。髪をアップにして目立たせた首元には、例の細身のネックレスが鈍色の艶めきを湛える。画家さんを差し置いて素人モデルの私がこんな派手な装いで画廊を訪れるのはほんとはルール違反なんだけど、今日は特別。皐月さんには敢えて伝えてなかったけど、実は午前中うちの大学の卒業式があったんだ。さっき長田先輩は会場から画廊へタクシーで直行して来て、入口に立つ私を一瞥して頷きながら微笑むと、大きな花束を抱えこのビル名物の古風なエレベーターのガラガラ扉を開けて上がっていった。眼鏡を外しコンタクトにした無敵モードにあのお召し物、後ろ姿に思わず意地悪顔でベエ~って舌を出しちゃうくらい、今日の先輩は憎らしいほどに美しかった。

 「銀座のど真ん中にこんな古風なビルが残ってるんだね。さすがにこのタイプのエレベーターはヨーロッパでもロンドン辺りでしか見ないよ」

ガコンガコンとくたびれた音を出してゆっくりと上昇する籠の中で、皐月さんがつぶやく。ガラガラガチャンと開いてコンクリート打ちっぱなしの床を踏むと、百年近くこの建物に淀んでいたのではと錯覚する独特の匂いを含んだ空気がフロアに沈殿している。皐月さんがちょっと顔を顰める。天井の低い薄暗い廊下の先で白い長方形の光が私たちを誘なう。

「こちらです」

「”ウェルウィッチア”、奇想天外か」

入口横の壁に掛かる看板に目を止め皐月さんが再びつぶやいた。中に入るとLEDライトが白ホリの壁面に反射して、廊下との明るさの違いに一瞬目が眩む。六畳ほどのスペースの三面が絵たちで飾られている。今日はその全てが長田先輩の作品というんだから堪えられないよね。既に先客が二人、熱心に壁に掛かる美女たちと視線を絡ませている。展示面をざっと眺めたところで、

「あれ、ない?」

心のつぶやきのはずが声に出てしまっていた。

「よう心ちゃん。お探しの絵ならあっちだよ。今回点数が多いんで隣借りたんだ。紫乃ちゃんもそっち」

お客さんの相手をしていた廊主の荻島さんが振り向いて、親指を突き出した拳を振った。後ろに皐月さんがいるのを見て、こちらに向き直りお辞儀する。

「ようこそいらっしゃいました。狭苦しいとこですが、掛けられた絵は一流です。ごゆっくり楽しんでいってください。ご挨拶は後ほど」

「ありがとうございます」

デニムにダブッとダンガリーシャツを羽織り、白の割合が多いごま塩の短めの頭髪に口髭を生やした荻島さんに、両手を前に揃えて丁寧に腰を折る皐月さんに声を掛ける。

「お目当てを先にしましょうか」

「そうね」

荻島さんの気さくな笑顔に送り出され一旦薄暗い廊下に戻って三歩、同じく開け放たれたドアから隣室に入ると鮮やかな色の洪水に視線を阻まれた。部屋の中央に置かれた猫脚のアンチークなサイドテーブルに載った陶器の花瓶に赤、黄、ピンクの薔薇を始めとした花々が溢れ返っている。さっき先輩が抱えてた花束だ。しかし、サプライズはこれだけでは終わらない。お花たちの向こうにはもう一輪、大輪の華が佇んでいた。皐月さんが呆気に取られているのがわかる。古代緑青の袴に桜色の二尺袖の着物。履物は黒の編み上げブーツ。大正時代からタイムリープしてきたような長田先輩が、ツイードのジャケットを着た小柄な初老の男性と会話している。

「飛びっきりの一枚を買おうと思って気合を入れてオープニングに来たのになあ。俺なら青じゃなくて即赤にしてあげるんだが」

「島田様、いつもお気に掛けて頂いてありがとうございます。これは身内の特別な依頼でして申し訳ございません。残りの作品はまっさらですので、是非一枚でもお迎え頂ければ」

「一期一会、分かってるよ。絵とはそういうものだ。晴れ着姿の弓月紫乃と話せたのも一期一会。あっちで自分の一枚をじっくり選ばせてもらうよ。但し、万一青が外れたらどちらも私が一番だよ」

男性が長田先輩に向かって人差し指を上に向けて二、三度左右に振ると、私たちとすれ違って出口に向かう。彼のいたスペースの向こうに見える二点のキャプションボードに、青シールが貼られているのを確認して安堵の溜め息をつく。やっぱりそうだよね。この先輩の裸身は今回いやたぶんこれまでの弓月紫乃作品における傑作中の傑作だと思う。え!ということは‥‥私が描かれた作品がそれと並べて掛けられている事実にようやく気付いて、声を上げそうになった。先輩、これは公開処刑ですよ。

「ありがとうございます。お申し出承りました」

作品の傍らで振り向いてお客様にお辞儀をしていた先輩の頭が上がると、無地だと思った着物の右肩にごく淡いピンク色のソメイヨシノが数輪固まって咲いていて、そこから胸と右袖へと花びらがはらはらと散っているではないか。こちらに視線を送るキリっと自信に満ちた顔が載っていてこその儚げな意匠。真似しようとしてもこれは無理かな。

 「お越し頂きありがとうございます。弓月紫乃と申します」

額にかかったショートヘアをかき上げた先輩が優雅に袖口から出した名刺を両手で受け取り、皐月さんが会釈をしながらいつものように滑舌よく応える。

「高宮皐月です。生憎会社の名刺しか持っていませんのでご容赦ください。弓月先生、お目にかかれて光栄です。それにこのたびのご配慮恐縮です」

「先生はお止めください。さあ、多治見さんからお聞きしていた二点はこちらでお間違いございませんか?」

先輩が上を向けた掌で指し示す絵に歩を進めた皐月さんが、僅かに膝を折り一枚ずつ上下左右に視線を動かしてから頷いた。

「はい、間違いありません」

「先輩ありがとうございます」

この二人といると私が透明人間になりそうな気がして、とにかく口を挟んでみる。期待にワクワクしていたこの場面が、自分がお膳立てして実現したというのに、いざそこに立ってみると足元が覚束ないのはどうしたことだろう。あ~、消えたくない‥‥

「どうですか、このマッチアップ!」

どうにでもなれと先輩の創り出した私の横にひょいと飛んで、彼女と同じポーズを取って並ぶ。視線を絡ませていた皐月さんと長田先輩が、同時にこちらを向いて吹き出した。

「いい勝負だね。心」

「二次元は瑞々しい三次元に勝てないわ。あなたの勝ちよ」

やった~、一瞬でも二人の気を引けた!とガッツポーズを作ろうとした瞬間、隣にいる蠱惑的な自分と目が合った。”エレガントな私のイメージを壊さないでよ。まったくガキで困るわ”、二次元の私に叱責されて顔から火が出る。

「どう・したの?」

「大丈夫?心」

あまりにも目まぐるしい私の表情の変化に、今度も二人は同時に怪訝な顔。

「あっ、いえ。何でもありません」

さっきはあんなに消えたくないって思ったのに、今は消え入りたい気分。両掌で真っ赤になっているであろう顔を覆って、一歩二歩後退りしてもう一人の私から離れる。”お後がよろしいようで”ってきっとこういう場面で使うんだな。

 「ご本人たちを前に言うのも何ですが、どちらも表情豊かで美しいですね。多治見さんの方は私も知ってる彼女の魅力的一面が的確に描かれていると思うんですが、ご自身の作品の浮かべる表情は今こうしてお話している弓月さんからは想像がつきません」

顔の覆いを少し開けると右手の親指と人差し指を顎に付けた皐月さんが首を傾けていた。

「お目が高いです。この表情には別のモデルさんがいて、彼女のそれを借りて私の顔に張り付けたのです。セルフポートレイトって鏡に向かってポージングするのですが、そうなると自分がイメージする表情を却って作りづらいケースがあります。これはその典型。だからこその自信作です」

先輩は私と違い自然な動きで二次元の自分の傍らにこちらを向いて立った。さっき”いい勝負”って評された通り私と描かれたもう一人の私に印象の差は感じられない。一方、今私の目の前に並んでいる二人は、あくまでエレガントで理知的なリアルと、狂おしいまでの煽情的なエロスを辺りにぶちまけるようなヴァーチャル。桜舞い散る着衣盛装とネックレス一本のみの裸体、そんな単純な差ではない女という生き物の二面性を見事に表現している。静かに佇みながら先輩は私たちにこの創作の真意を、最も解り易い形で伝えてくれているんだ。

「なるほどこの作品の素晴らしさはよく理解できました。ただ、当のモデルさんとしては自身の表情として直に描いて欲しいと思ってポージングするのではないでしょうか?」

皐月さんが今度は両肘に手をやり腕組みして更に考え込む仕草。

「多治見さんのように実物として描かれることを受け入れてくれるモデルさんばかりではありません。この方もそのおひとり」

なるほどパーツモデルさんってことか。でも手や口元、目は普通でも”表情モデル”っているのかな?ましてやどう表現していいのかこの”顔”をポーズで作れる人って?そこは描く側の創造力と画力があってこそなんだろうな。先輩の自画像の多彩な表情の秘密はこんなところに。

 「ところで一つ不躾な質問をしてもよいでしょうか?」

「何なりと」

「この二枚の絵に描かれているネックレスは、今彼女がしているものですよね?」

皐月さんの掌がこちらを向いて、ドキリと顎を引いて姿勢を正してしまう。やっぱりきた。

「そうですね。たぶん」

「心、多治見さんによるとこのネックレスを弓月さんから譲り受ける際に、”誰かの落とし物”と仰ったと。実はその落とし主は私の知り合いかも知れないのですが、名前はおわかりになりませんか?」

商談をしている時の皐月さんって、きっとこんな眼で相手を射すくめるんだろうな。でも、長田先輩のしなやかさは些かも動じていないように見える。

「さきほど申し上げたように私の部屋にはモデルとして多くの方々が出入りしています。そのネックレスもある日部屋の隅に落ちているのを見つけたものでして、身に着けていた方の特定は難しいかと。それに先に申し上げますが、もし個人名を出されてもモデルさんのプライバシーの問題がありますので存否はお答えしかねます」

首元がチリチリしてきた。このネックレスを貰い受けたことで、私の尊敬する二人を結び付けたんだけど、こんな結果になるなんて。何か言わなきゃ。でも私の浅知恵でこの場を取り繕えると思えない。奇妙で微妙な間が数秒。眉根を寄せていた皐月さんがふっと息をついた。

「そりゃそうですよね。その名を口にしていたら私はきっと後悔していたと思います。お気遣いありがとうございます」

「そんな。後ろめたいことはしてませんなんて、私も決して申し上げられないんですよ。でも、画作にはいつも真剣に取り組んでいるつもりです」

場の緊張がさっと解れていくのを首元で感じ、自然に声が出た。ポンと手を叩く。

「では交渉成立、二作品とも高宮様にお迎え頂くということで!」

「もちろん!この二枚いやお二人を大切にしますね」

「ありがとうございます」

お礼が先輩とシンクロしてしまった。二人の声に高低があってハモリみたい。皐月さんがプッと吹き出し口元を覆う。

「あなたたち姉妹みたいよ」

「いえいえ、私とではなく高宮さんと姉妹でしょ。ねえ心」

クールビューティの二人が楽しそうに笑っている。

「だ・か・ら!三人は姉妹なんです。三段論法ってやつですよ!」

両手を握り抱え込むように上下に振って、勝ち誇ったように主張してみる。

「論拠が破綻してるわ。私理系なんだからね!」

「ばれたか‥‥」

 ひとしきり笑い合った後、皐月さんが居住まいを正して口を開いた。

「いつか本当の持ち主が現れる日が来るかも知れないので、心、そのネックレス誰にも渡さないでね」

「わかりました。大切にお預かりしますね」

首元に右手を添えると、肌に馴染んだツルリとした感触。何だかこの子には感情が宿っているみたい。いいえ、つけている人の心の裡を映し出す鏡の役割をしてくれてるんだ。きっと‥‥

「私の卒業第一作は今の装いの心にモデルになってもらおうかな。とってもキレイよ」

先輩が両手の親指と人差し指で四角い枠を作ってこちらを覗きこみ、いたずらっぽい笑みを浮かべる。結局私的にはネックレスの謎は解決しなかったけど、お二人の間では何らかの結論が出てるんだろうな。皐月さんが改めて先輩を正面から見つめて語りかける。でも今度の彼女の眼差しはいつも私に向けてくれる優しいそれ。

「実はきっかけはお察しの通り別のところにあったのですが、日本画は実物が一番と多治見さんに奨められてここに来て‥‥その精緻な画法の素晴らしさ、煌めく岩絵の具が演出する艶やかさにすっかり魅了されてしまいました。まさにそうファインアート!」

ここで一息ついた皐月さんの表情に少し翳りが差す。

「でも短期間にこれだけ数多くの、鑑賞する者を惹き付ける魂の籠った作品を描かれるのは相当なご負担ではないでしょうか。弓月さんは生き急いでいませんか?ビジネスという違う世界に私はいますが、自分の過去の経験とも被って他人ごととは思えません」

美しく背筋の伸びた角度15度のお辞儀。でもこれが出る時の長田先輩って‥‥

「お気遣いありがとうございます。でもご心配には及びません。私は二人分の人生を生きていますので」

「二人分?」

額に垂れた黒髪にそっと手をやり謎めいた笑顔を浮かべ、これ以上の質問への拒絶を表す先輩。”二人分”、そう長田京先輩は一人しかいないけど、画家弓月紫乃さんは二人なんだ。たぶん‥‥

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