息吹き

 薄い水色のシーツの上に黒のキャミソールを纏い横臥する女性。腰から下と右腕は画角の外にあり、左腕は顔の横に肘を折って投げ出されている。長い黒髪をシーツに広げて上を向く表情はキリリと引き締まり、胸から下を覆う黒と相まって彼女の意志の強さを表している。しかし、なぜか彼女の視線の上空に、ユラユラと黄色がかった尾鰭をたなびかせる青いランブルフィッシュが浮かんでいる。闘魚とも呼ばれ一匹でしか生きていけないこの魚は彼女の心のうちの暗喩なのか。いや、彼女が横たわるのはベッドの上ではなく、水槽の底なのかも知れない。キャミソールの黒、シーツの水色、塗られた岩絵の具の煌めきに目をやるうちに、ふとそう思うと、今度は彼女の表情に強さに混じった息苦しさを感じてしまう。果たしてこの絵における異物は魚なのか彼女自身なのか?


          ♢

 水の中に棲みたいとこうしていると思う。夜のスポーツジムのスイミングプールは、閉店が近づいてゴーグルごしの目に前泳者の姿が映らなくなってくる。自ら水を掻く音と鼻から吐き出すあぶくの音以外余計な雑音が耳に入らないことも、水泳というエクササイズの利点だと思う。地上でなら見たくないものは視線を逸らせば済むけれども、聴きたくないものは手で耳を塞がない限り聞こえてきてしまう。水中を音が伝わるスピードは空気中の四倍超、そんな物理法則は百も承知だけど、実際このプールで同じ目的で同じ行為を行っている人間のたてる音はほぼ同じで、結果自分の耳には自分のたてる音しか届かない。そしてこの時間、視界からも異物が消え去り私はストロークを大きくしてピッチを上げていく。ピッチを上げると息も上がるけど、気持ちも上がる。ラスト五十、前に人がいないのを再確認し、最大ピッチへ。

「ハッ、ハッ、ハッ‥‥」

ゴールタッチして無音の世界から顔を上げ肩を激しく震わせるこの瞬間、ランナーズハイってよく言うけど、それに似た感覚を味わってるんじゃないかと思う。暴れまわる心臓が大量に送り出す血液が激しく血管を巡り、身体や脳にどす黒く溜まった滓を一気に洗い流していく。その後バックでクールダウンする時に見える天井の照明を、自分だけに降り注ぐスポットライトのように感じるかどうかでそんな高みに達したかどうかがわかる。今日は完璧だ。

 ほたるの光をBGMに慌ただしくシャワーを使って身体にぬるつく塩素を落とし、ざっとドライヤーをあてた半乾きの髪がスーツに触れないようアップにして家路に就く。デュッセル(ドルフ)から帰って入会した自宅最寄り駅近くのジムで、会社帰りの平日に週一回水泳、土日のどちらかにウエイト+水泳が私のエクササイズルーティーン。昭和の頃の海外営業担当は時差の関係で連日深夜勤務、時には徹夜が当り前だったそうだが、今はメールで用件を送り、夕刻デュッセルのスタッフ(半年前までの我がポジション)との質疑を終えれば、あとは同地にリレーしニューヨークのオープンまで待つことは偶にしかない。週明けに水着等の道具一式を会社のロッカーに突っ込んでおけば、週一の早帰りエクササイズに何の障害もない。唯一差し障りと言えばこの長い髪。ポツリ‥、毛先から滴が垂れてうなじをゾワリと騒がせる。まただ。間もなく吹き始める三年ぶりの日本の木枯らしに冷たく頭を嬲られるのかと思うと恐怖すら込み上げてくる。スポーツしまくってた高校、大学時代のようにバッサリショートにしたい。しかし、社内パワーバランスを考慮すると、仕事のできる女性総合職のステレオタイプの髪型にするのは得策ではなさそうだ。先輩や同期が次々会社を去って行った、いや耐えられず去りたくなった得体の知れないチカラ、それに首謀者や主体性などどこにも存在しない。どこからともなく沸き立つ逆流を巧みに避けて、うちの会社という老朽化したプールで女子営業職競技の先頭を泳ぐ私には、少なくとも髪を切る選択肢はない。ブレスがきつい。


 「古橋くんちょっと。高宮くんもいっしょに」

加藤課長の指名順に、会議室に呼び出された理由は察しがつく。私の隣を歩くブラウンベースのチェックのスカートに白のブラウス、アイボリー無地ベストの制服姿の彩香の表情にも青みがさしているように見える。

「人事から職掌転換試験結果の内示が届いた。古橋くんおめでとう合格だ」

「あっ、ありがとうございます」

青い血管が浮かんでいた彩香の頬にパッと紅みがさす。人間という動物の感情と身体の分かり易すぎる関連性に驚いたのが先だったので、リアクションが一秒遅れた。

「よかったね」

音の出ない拍手を三回。彩香は俯いて目を潤ませているようだ。だめだめ、会社の男の前で涙を出してちゃ。

デュッセルから戻ってアシスタントに就いてくれた彩香は、語学を含めた業務知識が豊富なのは単なる経験年数だけではなく本人の努力によるものとすぐに解り、事ある毎に総合職転換を勧めていたのだが、

「ありがとうございます。でも私はこの会社にそんなに長くいないかも知れないので」

と言を左右にしていたのが、梅雨時の数ヶ月前に突然、

「次の職掌転換試験受けたいのですが、皐月さん推薦者(この制度の応募には直属の上司以外に一名の社員推薦が必要)になって頂けますか?」

「あ~、もちろん」

彼女の血走った眼に真剣さを感じ取り、あれだけ頻繁に着けていたプラチナのネックレスをここ最近見かけなくなっていた事実と併せ、そうかこの娘は仕事だけじゃなく男にも真面目だったんだろうなあって、彼女のモチベーションのありかに気付いて俄然肩入れしたくなった。そこからは二人三脚、彼女の苦手分野の亀の甲式を特訓するだけでなく、これまで戦略的に愛想よく振舞ってきた社内のコネを総動員した裏試験情報提供まで、文字通り全面的にサポートした。闘え!男どもと。


 「何もかも皐月さんのおかげです。ほんとにありがとうございます」

ランチの和食ビュフェで碁盤目状に仕切りの入った正方形の白いプレートに彩りよく並べた料理に手を付けず、彩香はそう言うとまた眼球を湿らせている。

「ほら、女の武器の安売りは禁物よ。合格は彩香の実力。心強い仲間が増えて、お礼を言うのはこっちよ。さあもう一巡おかわりするんだから、食べて食べて」

「はい、いただきます」

彩香が両掌を合せて箸を手にした。合掌の瞬間連動するように目を閉じる仕草が儚げで、こちらの口元も自然にほころぶ。

「彩香の制服姿もあと少しで見納めか。本音としては強力なアシスタントを失うのは、目先痛手だなあ」

彼女へ正式の辞令が下りるのは年明けで、ほぼ確実に部署異動となる。女性総合職が同じ課で机を並べた例は事務系職種では過去にない。私は帰国してまだ一年足らず、動くのは彩香だろう。

「そうですよね。やっぱり異動ですよね。どこに行くんだろう?」

「総合職研修の時にある程度希望は聞いてもらえると思うよ。いきなり地方支店とかは望まない限りないと思う」

「制服キライ!って思ってたんですけどいざこうなると、私ビジネススーツなんてリクルート以外持ってなくて。次のボーナスはスーツ代で吹っ飛びそうです」

男女雇用機会均等法の隠れ蓑として作られた一般職。それを判り易く識別するために二十一世紀の今も会社が女たちに着せ続ける制服。その姿を眺める男たちだけではなく、それを纏う女たちの大部分も安心感を得ているように感じる。安心と保障をかなぐり捨て制服を脱ぐことを決意した彩香のこの先の道のりは厳しいかも知れない。しかし男に頼らず一人でも生きていける庶民、つまり美貌、芸術、運動そういった特別な能力なしで己の知能と努力のみで自立する普通の女を目指していくには、そんな庶民的男たちが安住するサラリーマンというこの選択肢の門戸を、もっともっと私たちにも広げていく必要がある。

「彩香のことだから手堅く貯金してるんでしょ。ここは奮発して一週間分は揃えよ。ビジネスはカッコからかもよ」

実は人事の課長代理をしている同期から、堅苦しい男社会と見られがちな化学メーカーのイメージを変えるべく、本人の拒否がない前提で今回の職掌転換合格者の一人を人事部に配属して、就職サイトにメインキャラとして起用する計画があると聞いている。彩香の容姿なら選ばれる可能性は高そうだ。彼女が人事にいてくれたら、この先の自分のキャリアにも有利に働くだろうな。ああ打算‥‥


 キュイーン、キュイーンと心地よい響きとともにワイヤーに引かれた二十キロの鉄板が上下する。

「‥‥18、19、20」

規則正しく鉄板を巻き上げるのは私の上腕二頭筋。生成りのタンクトップの下、黒いロゴの入ったオレンジのトレーニングブラの胸元にじんわり汗玉が浮かび始める。マシンを替えて今度は三角筋が鉄板を押し上げる。一人で生きていこうと決めたあの日から、身体の鍛錬は欠かさないできた。

私の父は地方公務員という一見堅い職業に就いていたが、帰宅すると普通に母を殴った。晩ご飯が不味いと、床に糸屑が落ちていたと、夕刊を取り忘れていたと、時には玄関のドアを開けるなり突如無言で。母は父が暴力を振るう兆候を示すと、一人娘の私を押入れに入れて引き戸を閉じた。バシン、バシン、ドス~ン!恐怖に苛まれ扉を開ける勇気を持てず、両膝を抱え縮こまり首を左右に耳を塞ぐ日々。夫の弑逆性が、胸の膨らみがセーラー服を持ち上げ始めた娘に鼠を喰らう猫の視線となって向けられつつあるのを察知した母は、冬のある夜遂に私の手を取って父のもとから逃げ出した。やっとのことで暴力から解放された母子を次に襲ったのは貧困だった。”手に職”のない母は、離婚した父から私への養育費だけが頼りで、それが滞りがちになるとたちまち困窮した。そんな私たちを救ってくれたのは、アパレルブランドを友人と共同で立ち上げたばかりの母の従姉で、母の手先の器用さを記憶していて彼女に洋裁を仕込みデザイン助手として雇ってくれた。母子心中を何とか免れた高校生の少女は、図書館で借りて何度も穴のあくほど読み返した”風と共に去りぬ” の表紙でキリっとこちらを見据えるスカーレット・オハラに向かい心に誓った。

「私は二度と飢えません。そして私は男にいいえ他の誰にも頼らず一人で生きていきます。そのために私は時に嘘をつき、時に人を欺き、時に人から何かを奪い取るでしょう」

 鉄板の重さを増して今度は大腿四頭筋で振り上げる。次に中臀筋で押し広げ、更に内転筋で挟み込むいつもルーティーンを念入りにこなす。足首までチャコールグレーのトレーニングタイツに包まれた下半身の筋肉たちが、悲鳴を上げるように吐き出す乳酸に私もいっしょに酔っている感覚に到達するまで。一心不乱にウェイトに取り組んでるはずが、突然視界にクシャリとひび割れノイズが走る。対面のマシンから私に向かって満面のあどけない笑みとともに左右に振られる小さめの掌。またこの娘か。仕方なく重りを戻して顔を向けると「こ・ん・に・ち・は」と唇が動く。気の抜けた苦笑いを返す自分に内心溜め息。


 「あの~、ちょっとよろしいですか?」

チェストプレスマシンから腰を上げようとしていた時、小柄な少女にのんびりとしたアニメ声で話し掛けられた。筋肉も贅肉もあまり付いていないスリムな体を、ダブッと大きな太ももまで届く何やら文字の書かれた白いTシャツで包み、裾の下からスカイブルーの膝丈のショートパンツが覗いていて、一目でエクササイズ初心者と分る。本来ならジムで最も相手にしたくないタイプだ。そもそもプライベートではできるだけ人とコミュニケートしないようにしていて、彩香始め会社の同僚からの休日遊びの誘いも、習い事、母の仕事の手伝いなど適当に並べ立てて断り続けている。

「このマシンをこう押す時って、どの筋肉を意識されてるんですか?」

私が返事を返さず怪訝な表情をしていることに頓着なく、さっきのフニャっとした笑顔を引っ込め、真剣な目つきで腰を屈め両腕を前に押し出すジェスチャー付きで質問してくる。普段通り”あそこにいるスタッフに訊いてください”で済まそうと口を開こうとした瞬間、

「とっても優雅に、美しく上半身を動かしてらっしゃるのに、ウェイトはしっかりかかっていて、私も真似したいなあって。ここのスタッフさんは男女問わずみんな体育会系で、そういう質問には答えてもらえなさそうじゃないですか?」

何かに憧れる夢見心地の上目遣いの表情から、拳を胸元に引いて歯を食いしばったかと思えば、そのまま思案気に人差し指を立てる。降参降参、何この娘?”目は口ほどに物を言い”リアル版は、これまでの営業ウーマンとしてのビジネスステージでもそうはお目にかかれない。

「チェストプレスって言うくらいで、力の入れどころは腕じゃなくてここ」

両拳で自分の鎖骨寄りの大胸筋をポンポンと叩き、再びマシンに腰掛ける。

「この筋肉に意識を集中して、息を吐きながら胸から押し出す感じで」

「やっぱりキレイです!」

只者ではない少女がすっと目を細めて、パチパチと拍手。ペースに嵌らないように下顎を引き締める。

「はい、じゃあやってみよう」

“目を丸くする”ってこういう眼を言うのかな?自分を指差しながら少女がちょこんと黒いシートに座る。

「腰掛けた時に肘を縮めた拳と肩が同じ高さになるように椅子の高さを調整して。腕はバーに添えてウェイトを支えるだけの積もりで、肩をすぼめながら胸を張り出す感じでゆっくり息を吐きながらバーを押していこう」

「こ・う・ですか?」

「背中はシートにぴったりつけて、俯かず顔はまっすぐ前、胸を意識して。一回、に~回、さ~あん回‥‥十回までがんばろ」

たちまち少女の白い頬に茜色がさし、息を吐くたびにその領域が広がってていく。見た目の体格から想定されるウェイトに鉄板一枚おまけしたから。こんないたずら心を起こしている時点で、少女の無意識の術中に既に取り込まれているんだろうな。

「ふ~、ありがとうございます。何となくコツが掴めた気がします。お時間取らせてすみませんでした。でもまたここでお見かけした時は、他のマシンの使い方教えていただけますか?」

バーを戻して一瞬俯いた後、最初のフニャっとした笑顔が上がってきた。”もう話し掛けないで”なんて言葉が出てくる隙を与えてくれない。

「ああ、まあ」

三十五歳にもなって何ドキドキしてるんだ私は。

「ありがとうございます!私、たじみこころと申します」

エア名刺を両手で差し出す仕草に、無意識に左手で受け取り右手で差し出してしまう。

「た、高宮皐月です」

返された形のない名刺を名刺入れに丁寧に仕舞う仕草が板についている。そしてニッコリと微笑む。

「たかみやさん、これからさつきさんって声掛けさせてもらってもいいですか?」

「あ~、もちろん」

あれ?口が勝手に動いてる。

「やった~!今日はありがとうございました、さつきさん。それではダンスクラスに出るので失礼します」

一礼して体育の授業のお手本のような回れ右、ナチュラルブラウンヘアのポニーテールが駆け去っていった。いろんな気持ちの入り混じった不思議な溜め息をふっと一つ。突然空から舞い降りてきた天使に頬をひと触りされ、次の瞬間には背中の羽をはためかせて優雅に飛び去る姿を遠くに見つめているような、そんな心とのファーストコンタクトだった。


 「ジムが終わったら、カフェでお茶でもいかがですか?」

黒のトレーニングタイツとライトブルーに黒の縁取りのスポーツブラ、純白のタンクトップの組み合わせ。この娘ったら各パーツ色は違うけど完コピってやつだ。

「そのカッコで寄らないでよ。姉妹みたいじゃない」

「やった~!皐月さんにそう見られるなら大成功。因みにシューズもオソロなんですよ。ミニ皐月!た・だ・し、姉妹じゃなくて周りの人には母子に見えてたりして‥‥」

右手を口元に充て小首を傾げてぷっと吹き出す。

「もう心にはマシン教えてあげない!」

拗ねたふりをしてみるが、いたずら天使に私のハートはガッチリと掴まれたまま。

「見た目は女としての成熟度の差ですよ~。褒め言葉と受け取ってください!エクササイズのやり方だけじゃなくて、今日は皐月流大人の女の嗜みを教えていただきたいなあって」

“人間”ではなく“女”という表現に少なからず抵抗を感じたものの、そんな違和感を穴埋めしてお釣りのくるこの娘の邪気のない笑顔が私の最近のお気に入り。人差指を立てて左右に振るのはただのポーズ。

「心君、ビジネスの世界ではアポなし訪問は嫌われるんだぞ。家からふらっと歩いて来てて、思いっきり普段着なんだから。まあ、見た目母子関係解消にはそれもありか。私この後一時間泳ぐけど、大丈夫?」

「はい私もダンスクラスに出ますから、ロッカーで会えなければロビーで待ってます。この間見つけた駅の向こう側のちょっと入り組んだところにある素敵なお店です。なのでここからいっしょに行きましょう」

「ところでそのお店ビールは飲めるの?あっ、心は未成年か!」

「多治見心は今年二十歳。ストイックイメージ満載の皐月さんの意外な性癖発見!お酒の飲み方指南もお願いします。ではのちほど!」

さっと右手をこめかみにつけて敬礼し、いつも通りきれいな回れ右でスタジオに向かう後ろ姿を微笑を浮かべて見送る。その笑みの正体は十五も下の小娘に心まさぐられている我への自嘲か、それとも‥‥


 「かんぱ~い!」

初冬の早い夕暮れ時、こじんまりとした民家風カフェの窓際席に着いて、メニューをあれこれ思案し合った時には心の白い頬にオレンジの夕陽が反射して眩しいなって思ったのに、乾杯のビールが出された今は窓の外が概ね闇色に支配され、人工物と空の境い目がぼんやりとした琥珀色の残照で縁どられるだけ。

「憧れの皐月さんとお酒なんて、私幸せです」

心の頬がさっきの眩いオレンジ色からほんのりとしたピンク色に変わる。

「無理してお酒つきあってくれなくていいよ。大丈夫?」

「お酒は友達と何度か飲んでますけど、美味しいか?って言われると‥‥」

「そうだよね。私もあなたの年頃ではビールって苦いだけで、美味しいとは思わなかったな。

デュッセル行って、他に飲むものなくて毎晩口にしてたら習慣化しちゃって」

トマト一個を丸ごとモッツァレラチーズでくるんだ本格的なカプレーゼがサーブされ、真っ白な大福に戸惑う心を手で制して、ナイフを入れて取り分ける。オリーブオイルのベールの向こうの純白の壁が開くと、目に鮮やかな真っ赤な具がジュっと滴を湧き出させる。

「わ~、トマトの赤がキレイ!ところで皐月さん、さっきおっしゃったデュ、デュ‥‥」

「デュッセルドルフ、ドイツの商業都市で去年まで三年間仕事で住んでたの。ドイツって政治とビジネスは完全にセパレートされてて、首都は政治都市ベルリンだけど、経済はデュッセル中心で回っていて、日本企業の多くがそこに拠点を置いてるの」

駐在時の話をしながらカプレーゼをたいらげ、次に出て来たフィッシュ&チップスにモルトビネガーを垂らす頃には私は白ワイン、心はシードルを口にする。心が美大生だと聞いて、意外となるほどがほぼ半々。

「絵描きの卵のあなたがなぜジムでエクササイズをしているの?」

「あっ、絵描きなんて。日本画科にいるのは中高大エスカレーターの偶々で、私には絵で食べていく技術も才能もありません。学科に皐月さんのような憧れの先輩がいて、その人のモデルをさせてもらってるんです。だからシェイプアップをきちんとして、先輩の溢れ出る才能の発露の場、つまり私を描いた作品がより多くの人々に評価されるようにって」

今の彼女の語りと、フライドポテトを突き刺したフォークをひょいっと口に運ぶ目の前のあどけない少女の表情とのギャップに驚異を覚える。

「実は前からロッカーで皐月さんの裸、チラ見してたんですよ。肩から腰への背中のシェイプとか、腰からお尻、太股へのラインとか、筋肉がきっちりついて引き締まっていて溜め息もので。私、学校の授業でヌードデッサンのモデルさんを何人も見てるんですけど、皐月さんの裸はその誰よりも素晴らしくて、こんな下手くそ画学生の創作意欲をも掻き立たせるんです」

「ちょっと!絶対ダメだから」

反射的にボタンを外して羽織っているシャツの襟をかき寄せてTシャツの胸を両腕で覆う。アルコールでは色の変わらない頬が上気しているのがわかる。

「あっ、違います違います!気を悪くされたのならごめんなさい。モデルさんになって欲しくて声掛けたんじゃないですから」

心は私以上に顔中真っ赤になって右手を左右に必死に振っている。

「そ、そう。そりゃそうだよね」

またこの娘に心揺さぶられている。

「説明が後先になって、びっくりさせちゃってほんとすみません。私が皐月さんみたいな裸を手に入れたいんです。痩せっぽちな私がどうしたら美しい筋肉をつけられるか知りたくて」

「プロのモデルを目指しているってこと?」

私が落ち着きを取り戻したことに安堵したのか、心はふうと一息ついた。

「いえ今はそこまでは考えていません。っていうかこの身長じゃファッションモデルは無理ですよね」

自分の頭頂に手を充てる仕草が可愛らしい。感情表現のボディアクションが巧みだと感心してしまう。

「皐月さんもそんなキレイな身体を持ってらっしゃるのに、会社で働くスーパービジネスウーマンじゃないですか」

「スーパーは言い過ぎだよ」

心は静かに首を左右に振って続ける。

「私がモデルをさせてもらっている先輩も、実はご自分をモデルにした作品が大部分の超美人で、なおかつ知性溢れる女性です。私ってラッキーなんですよ。皐月さんやその先輩みたいな素晴らしいお手本が身近にいらっしゃって。お二人とも選択肢がひとつじゃないんですよ。そこから最適な一つを選んで大活躍。私は自分に持って生まれた才能はないので、凄いと思った方の真似をして、人生の選択肢を増やしたいんです」

「そう、なんだ‥‥」

馬鹿みたいな反応しかできない。

「皐月さんに教えて頂いて完璧ボディが手に入れられたら、思いっきり脱いでセクシー女優の道を歩むかも?あっ、この選択肢も二十歳スタートじゃ遅いですね。アハハ‥‥」

口元を押さえていた両掌をポンと打つ。

「そうだ!こうして更にお近づきになれたので、これからはボディシェイプだけじゃなくて、ビジネスについても是非教えてください!」

ニッコリ笑みを浮かべる心の考えは、私の人生に対するアンチテーゼにも聞こえる。生まれ育った環境の違いはあるにせよ、一つの道を決めつけて一人で歩んできた私は、しなやかにそして野心を持って生きる二十歳の心に圧倒されてしまっている。

「私がその対象としてどうかはわからないけど、他人(ひと)を頼りにする。そういうのもありなんだね」

ほっとしたような表情で心がシードルのグラスを一気に空にする。彼女の喉の上下に微笑ましく目をやったその時、フリルの付いたワンピースの襟元の鈍い輝きに反応して、私は強烈なデジャヴュに襲われた。

「ねえ、そのネックレス年代物に見えるけどプラチナだよね?」

「あっ、これですか。さっき話した先輩からの頂き物なので材質はわかりません。アンチークな風合いが気に入ってよくつけてるんです」

心が指で摘んで弄ぶと、鎖の一つ一つがリレーをするように煌めきを移動させる。今の仕草、彼女もよくしていた。一瞬、目の前に座っている女性が誰だか分からなくなる。

「あなたの先輩はそれをどこで手に入れたのかな?アンチークショップとか?」

「しばらく前にモデルをした時、先輩のジュエリーボックスで見かけて、”古いけどいい感じですね”って言ったら、”我が家を訪れた誰かの落とし物なんだ。気に入ったならつけてあげて。心がつけて歩いてくれたら持ち主がわかるかも?”って」

「ちょっと見せてもらってもいい?」

心が首の後ろに両手をやり、紐状となったネックレスは私の掌に収まった。少し掌を上下する。細身なのでズシリとまではいかないがしっかりとした重み、間違いないPtだ。鎖を伸ばし意匠を確認するふりをしてからそのまま心の両手に返す。心がもう一度窮屈そうに首裏に手をやった。

「そうそうこれをつけてる私の絵もあるんですよ」

そんなはずはないと、細身のアンチーク調のプラチナネックレスなんていくらでもあると、だからきっと偶然だと、そう思いながら質問が止まらない。

「その絵はどこかで展示されるの?」

「はい、先輩の卒業個展用の一点なので年明けには銀座の画廊に掛かると思います」

顧客に難題を突き付けられた場面を思い浮かべ、胸中の動揺を気取らせない営業スマイルを顔に貼り付ける。

「絵になった心を是非観たいし、あなたをモデルに選んだ先輩にもお目にかかりたいので、その折は招待してね」

心の表情がパッと華やぐ。自分の作り笑顔との差に湧き起こる罪悪感。

「わ~、嬉しいです。もちろんきっと!先輩の筆名は弓月紫乃って言います。WEBページもあって私の絵もアップされてますから、よければ検索してみてください」

弓月紫乃、心が尊敬する女性というだけではなく、ひょっとすると。このことを彩香に伝えるべきなのだろうか?彼女はあのネックレスをとても大切にしていた。しかしある時を境に彼女の首元から消えて、今別の女性を飾っている。そんな馬鹿な‥‥きっと私の思い込みだ。いやしかし‥‥”落とし物”、事実だろうか?若き才能溢れる画家弓月紫乃にともかく会ってみたくなった。

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