男たちの証言①(画商 荻島悦史)

 長い脚を細身のブルージーンズで包み込み、Tシャツに羽織った白と緑の縦縞柄のブラウスの裾を臍の辺りでくるりと結んだ痩身色白の女が、ライトグリーンのパンプスでフローリングの床をコツコツ言わせて店に入って来た。企画展示の最終日の夕刻、うちの画廊は売約され見納めとなった作品との名残を惜しむ一般客、今回購入した絵をいち早く持って帰りたいコレクター、そして出展画家が入り交じりごった返している。売れ残った絵の作者は、一発逆転はないかと何気ない様子で辺りを見回すが、やがてこそこそと自作を壁から下ろす。売れた絵はこちらで預かるのでその必要はない。ある意味公開処刑のような残酷な時間。

「弓月先生、ですよね?この作品をお迎えするものです。よろしければ絵と一緒に記念写真を撮らせて頂けませんか?」

スーツに黒縁眼鏡、サラリーマン風の中年男性が、緊張した面持ちで彼女に問いかける。

「お迎えありがとうございます。もちろんです」

「とんでもない。こちらこそありがとうございます。では絵の隣にお願いします」

意気込んでスマホを掲げる彼を、女が優しく右手を上げて制する。

「せっかくですからご一緒に如何ですか?荻島さん、シャッターお願いできません?」

「はいはい、ただいま。スマホお預かりしますね。バーチャルとリアル、二人の美女に挟まれるお気持ちはどうですか?さあ、男前に写りましょう。はい、チーズ!」

購入作品の傍らで満面の笑みの男性と優雅に口角を上げる画家が背にするのは、売れ残った二枚の絵。持ち帰り用の大きなトートバッグを手にした絵の作者は、少し離れた場所で居心地悪そうに俯いている。今回初めてうちの画廊に出品してくれたのに、隣のせいで気の毒なことをしてしまった。”あの娘の隣は止めてね”、”同じ壁面はいや”などとネガティブリクエストが多く、アレンジメントにも一苦労。壁から下ろし梱包した作品を大事そうに抱えた客を送り出し、彼女がこちらを向く。

「ご覧の通り今度も完売だったよ」

「ありがとうございます、荻島さん」

言葉とは裏腹に客以外にはニコリともしない新進気鋭の日本画家、弓月紫乃。”クールビューティ”、こいつのためにある言葉。美大の四年に上がって間もないが、既に絵を売り始めて三年が過ぎ、彼女の名声はその号単価が示す通りうなぎ上りで、今年に入りうちの店で企画する共同展示で作品を掛ければ、初日でシールが付かなかったことが記憶にない。鏡に映る自分の姿を写し取るだけで”美人画”が出来上がるアドバンテージはあるにせよ、ここ最近はカワイイ系のモデルも見つけたようで、硬軟織り交ぜた展示作品構成にお客の幅が更に一段広がったように思える。足掛け三十年を超える画商人生で、確かに”これは天才だ!”と思える画家に何人かは出遭っているが、鏡の中の自分しか描けなかったものは残念ながら消えていった。ポートレイトは究極の具象であり抽象。創作の裾野を広げていくには、新たなモデルを見つけ出すか、想像を絶え間なく逞しくしていくしかない。どうやらこいつはその両方のファクターをクリアしているようだ。

「この娘がモデルの絵も人気なんだよ。大学の後輩なんだよな?」

さっきの客がセルフポートレイトを持ち帰ったので、白ホリの壁を独り占めするように掛かる笑顔の少女を指さす。

「はい、彼女”ココロ”って名前なんですけど、その名の通り相対する人の心が読めるんじゃないかと思うくらいポージングが巧いんです。今度ご紹介しますね。きっと荻島さんなんてイチコロですよ」

自らの顎に優雅に人差し指を充てる仕草。目は笑っていないって判るのに、やっぱり両頬が下がる。

「いやいや、イチコロ結構!近いうちにどうぞよろしく」

そう、目の前のこの娘が三年前のこの季節にうちの店に初めて現れた時も、俺はイチコロだったんだよな。


 「あの、こちらでは絵を売ってらっしゃるんですよね?」

大きな紙袋を両手で提げた眼鏡の少女が、スニーカー履き黒のロングスカートに純白のブラウスで店の入り口に立って、うかがうように中を覗き込む。うちは日本画ポートレイト専門なんで、この様子だと客ではなさそうだと解る。

「そうだけど」

とりあえず素っ気なく事実のみで返す。経験に基づく初期対応。

「見て頂きたい絵があるんですけど」

「うちは美人画画廊だから、キレイな娘なら掛けてあげるよ。その袋の中身見せてくれるかい?」

微かに頷いた少女が少し震える手つきで、紙袋から取り出したフレームに巻かれたエアキャップを外す。SMサイズの小品だが一輪の花を大胆に配置した構図に、薄く目を閉じ幸せそうな少女自身が活き活きと浮かび上がる。だが、目の前の実物と何かが違う。たった今会ったばかりとは言え、この娘が絵の中の少女のような翳りのない笑顔を作り出せるとは思えない。外したエアキャップを不必要なほど丁寧に畳みながらこちらの反応を窺う眼差しには、背負った荷物に圧し潰されそうな切迫感を漂わせている。

「これ自分を描いたんじゃないよな?」

少女は弾かれたように顔を上げ、一瞬俺を凝視してすぐ目を伏せる。答えはない。待つこと五秒、ついと顔を上げて、

「私を描きました。もう一人の私です」

力強く言い放った。しかし、震える語尾に動揺は隠しきれない。

「もう一人‥‥」

耳に届いた言葉の意味を反芻する。少女は投げ掛けられるであろう次の問いに複数の回答を用意して、唇を噛みしめて身構えているようだ。フレームを抱え上げ作品の少女を改めて眺め、続いて生身の彼女の眼を覗きこんで三秒。込み上げてきたこの娘キレイだなあという思いが、脳内に渦巻いていた疑問をきれいにかっさらっていき、ふっと息をつくと口元が弛んだ。

「なら結構。画家として合格だ。これどこに掛けるかな?」

俺といっしょにほっと肩を下ろしたのも束の間、唐突な俺のオファーに頬を赤らめ両手を胸の前で広げ左右に振る。こうまで狼狽えた彼女を見たのはこの時が最初で最後。

「あっ、これはサンプル、いや習作、あ~えっと非売品です!」

「おいおい作品を売りに来たんじゃないのかよ?」

生来のいたずら小僧が頭を擡げる。

「こっ、こんなに簡単に認めて頂けると、おっ、思ってなくてその‥‥」

「おっと舐められたもんだなあ。俺には絵を観る眼も人を観る眼も人一倍あるんだぜ。もっとも人の方は上辺だけかも知んないけどな!はっはっは~」

肌の火照りに自分でも気づいたのか少女が両手を頬に添える。

「ところでお嬢ちゃん、見たところ美大の学生だよな?」

「はい女子美大の一年です」

「画学生が在学中にこんなとこで大っぴらに絵売ってるとどういうことになるか解ってるかい?」

「学校の成績面で不利になると先輩に‥‥」

「解ってるならどうして?俺の鋭い観察眼的にお嬢ちゃんは”いいとこの娘”で、カネに困っているようには見えないんだけどな」

「はい、両親は応援してくれています。でもそれは‥‥」

顔全体を両手で覆い俯いてしまった。またまた五秒。今度は顔が上がらない。

「それは?」

俺の手持ちの中で最も優しい声音が呼び水になったのか、少女は両手を下ろして体側に付け、自らを奮い立てるように顔を上げ胸をそらせて俺の目を見る。

「一日でも早く一人前の画家になりたいんです!それがあの子の”イシ”、あっいえ私の”イシ”だからです!」

“イシ”って“意志”だよな、”あの子”って”この子”?

「う~ん?なんか今の日本語おかしくないか?」

まさかと思いつつも小さな疑念が湧く。

「もう一回訊くぜ。この絵はお嬢ちゃんが描いたものでいいんだな?」

ハッとした表情で質問の意図を察したのか、紙袋からスケッチブックを取り出して広げ始めた。正面、横顔、多彩な表情を浮かべた目の前にいる彼女がパラパラとめくれていく。

「この娘も、こっちも全部私が独りで描いたものです!どうか私の作品を売ってください。そして私に売れる絵の描き方を教えてください!」

スケッチブックを胸に抱き直角に腰を折ってお辞儀する彼女。こりゃ勝てんわ。

「それはさっきも言っただろ。これを売っちゃダメならいつまでに何作持って来られるんだよ?」

パッと明るくなった顔が上がる。上げたり下げたり、紅くなったり白くなったり、思いつめたり、微笑んだり、ほんと忙しい娘だな。

「再来週の今日、二作いえ三作持ってきます」

「じゃあ、お嬢ちゃんのデビュー展示は決まりだな。来月の”誘うセルフポートレート@銀座”だ。鏡に映る自分を描くならちょっと練習すりゃ誰でもできる。そこにはいないもう一人の自分を描いてこそセルフポートレイトさ。映った通りを描くときは丹念に繊細に。そうじゃない時は大胆さを付け加える。まあお嬢ちゃんはもう実践できてるみたいだから余計なお世話だろうがな」

「そんなことないです。アドバイスありがとうございます」

またペコり。幼気な少女を言葉攻めする下卑たオヤジになってないか俺?いやいや心配してんだって!

「余計なお世話ついでにもう一つ。画家は客に媚びちゃだめだ。ツンツンしてろって意味じゃないぜ。微笑みの向こうにどこか超然とした、謎めいた雰囲気を醸し出せれば一人前。お嬢ちゃんは真面目過ぎるみたいだから、客の前ではさっきみたいな受応えはよしにしなよ」

頷いた彼女が右足を僅かに引いて左踵に寄せて背筋を伸ばすと、両掌をお腹の下で重ね15度腰を折りお辞儀する。

「画廊主様、含蓄に富むご示唆痛み入ります。お教えを胸に今後精進して参りますので、ご指導のほどお願いいたします」

文字通りポカ~ンとする俺に、ニッコリ笑って片目をつぶる。やられた~、労わってやってるはずが、完全に手玉に取られてたってわけかよ。この小娘の身体には二つのキャラが同居してんだな。あの時”天性の絵描き”、そんな言葉がよぎったっけな。

「ところでお嬢ちゃんの名前まだ聞いてなかったな」

「ながたみやこと申します」

「字はどう書くんだい?キャプションボード用意するんでな」

ポケットからメモ用紙とペンを出す。受け取った少女がさらさらとペンを走らせる。

「うん?これは日本語的に”ながたみやこ”とは読めないよな」

「はい、”ゆづきしの”です。筆名ということであればこれでお願いいたします」

再度15度のお辞儀。

「弓月紫乃‥‥けっ、何だよ。俺にはネームライツはねえのかよ!」

「申し訳ございません。これは二人の決め事でして」

「うん?また”二人”かよ。へいへい、お好きにどうぞ。但し、弓月紫乃は向う一年ウェルウィッチアの専属だ。浮気はご法度だぜ。それでいいかい?」

「よろしくお願いします!」

またあどけない少女の表情が戻ってきた。

「ほんじゃ目一杯売らせてもらうわ!」

上辺そんなこと言いつつも、このままじゃ終われねえと最後の一矢を考えてたんだ。

「もう一つお嬢ちゃんにアドバイス」

「はい、何でしょう」

「なるべく早めに、”おとこ”を知っとけ。きっと創作の幅が広がるぜ」

「お・と・こ‥‥もう、何ですかそれ!でも、それは言われてて‥‥」

少女の頬が本日最紅潮。おかっぱ頭のてっぺんを数回掻きむしると、そそくさと広げていた物を紙袋に収める。

「とにかく、今日はありがとうございました!では再来週」

再び一礼して少女は駆け出すように店を出て行った。

「あ~、待ってるぜ。弓月紫乃ちゃん」

ざま~見ろ!一本取ってやったぜ、この女ジキルとハイド!


 あの偶然の出遭い、俺にとっての僥倖から三年が過ぎ、幼気な少女は大人の女流日本画家となって目の前に佇む。いつの間にか展示の撤収が終わって、きれいさっぱり片付いた白ホリには、こいつの絵が一枚だけ。

「荻島さん、ノスタルジーに浸るのはまだ早いですよ」

「こいつは参ったなあ。紫乃ちゃんには何でもお見透しってわけか」

「だって荻島さんが回想モードに入ると、視線の角度が上がるんですもん」

三年で精神年齢が追い越されちまったようだ。それでも一見悪ぶってはいるが、この娘はあの時の俺との約束を律儀に守り、作品を俺の知らない場所に出したことは一度もない。

 

 「荻島ちゃん、うちの次の企画展で弓月紫乃を目玉にしたいんだけど、彼女につないでよ」

と電話口の近しい同業者。

「は~?俺はあいつのマネージャーじゃないし、好きにコンタクトすりゃいいだろ」

「ダメダメ、”ありがたいお話ですが、展示オファーはウェルウィッチアさん経由でお願いします”って、取り合ってくれねえんだよ。払うものは払うから何とか頼むよ」

「わかったよ。言ってはみるが、多作じゃないので点数は揃わないと思うぜ」

「いいんだよそれで。”弓月紫乃”ってキャプションボードが付いてる絵が一枚あるだけで、お客の入りが全然違うんだって。全く荻島ちゃんどうやってあの娘誑しこんだんだよ」

受話器を持つ手が汗ばむのが分かる。

「誑しこむって何だよ!あいつが勝手にうちの店に現れてここに絵掛けてくだけだぜ」

「へいへい、荻島ちゃんも隅に置けないねえ」


 そう、勝手にうちの店に押し掛けてきて、それ以来定期的に数点の作品をうちに置いていく。犬や猫は人間の数倍の成長速度で大人になるって言うが、こいつのここ三年はそんな成長期だったんだろうな。おかっぱ頭にスニーカーの少女は、やがて客あしらいも、そして多分”おとこ”も?覚えて、ベリーショートとかいう俺的には奇抜なヘアスタイル、時には目のやり場に困るミニスカートを履いて、ハイヒールの踵をうちのフローリング床にコツコツと打ち鳴らす。描き出す作品の幅は際限なく広がり、爽やかなものは限りなく透明度を増し、妖艶なものはどす黒いまでのエロスを湛える。ネットでは”白弓月と黒弓月、どっちが好き?”なんて論争も巻き起こされているらしい。恐ろしくて見てないけどな。

「私、来年卒業なんですよ」

そんなことは解ってる。もちろん仕掛けも考えてる。

「ほお~、もうそんなになるのかい。ほんでも銀座の下卑た画廊でこんなに暴れ回ってて、ご卒業は認めていただけるんでしょうか。お嬢さん?」

腕組みした彼女がプッと吹き出す。

「担当教官やチューターの院生たちにはことある毎にチクチク言われてますけど、私実は学科の成績は優秀なんですよ。心理学とか」

今度はこっちが吹き出す番だ。

「画学生長田京の実技の評価は低いってことでしょうか。弓月紫乃先生?」

「そうですね。長田京ちゃんは学校の課題が下手くそなので。もう少し真面目にやった方がいいと思うんですがね」

来たぞジキルとハイド、今はどっちなんだ?時期的にもう冗談で流してられない。言うしかないよな。久しぶりにこの娘の瞳をまともに覗き込む。

「学位、ほんとに大丈夫なんだろうな?」

「そんなに心配させてたんだ。私を卒業させなかったら、ネットで暴れてやります。私には多くのファンがついていてくれることを敵も承知してますわ。卒制の構想も出来てるんですよ。アカデミックの塔の皆様用の美少女が出てこないやつ」

腕組みをほどいて右手の人差し指を顎に充て小首を傾げる得意のポーズ。

「じゃあ、やるか?」

「はい、やりましょう!」

主語も述語も目的語も何にもないのにお互いだけは解ってる。

「卒業式の日にちを教えてくれよ。それがこのイベントの初日だ」

「さすが敏腕画廊主、儲けの勘所はしっかりと」

「あ~、しっかり儲けさせてもらって俺んとこもそれで卒業と行こうや!」

何年かぶりだな、こいつの瞳が揺らぐの見るの。

「やだよ」

空気を震わせたかどうか定かじゃないが、唇はそう動いた。

「嫌はねえ!才能ある画家にはステップがある。これ以上場末の画廊主の俺は巨匠弓月紫乃の面倒は見られない。俺の仕事は弓月紫乃を発掘すること、また次の弓月紫乃を探すとするさ」

「やだよ!」

今度ははっきり聞き取れた。彼女の頬にはらりと水滴が垂れる。これ何だ?

「だから、嫌じゃねえ!その気持ちを目一杯絵にぶつけて、俺を銀座のクラブで姐ちゃん侍らせて飲めるくらい儲けさせてくれや。ハッハッハッ‥」

「そんなの私の展示じゃ一回きりだよ」

「いんや、冥土の土産に一回でいいんだ。やみつきになって弓月紫乃先生におすがりしたくないんでな」

「バカ!」

拳が俺の胸を叩く。あ~、何て心地いいんだろう。

「最高の出し物にしような!」

「うん、今までにない美女を精一杯描き上げる!」

「”精一杯”って単語は、弓月紫乃には似合わねえな」

「もう、このくそオヤジ!」

今度はグーの正面パンチが三連発。こいつは効くぜ。おいおいこっちの目ん玉にも温かい液体が上がってきやがった。もう、しょうがねえなあ‥‥

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