夜を待ちわびて
全体に暗いトーンの作品である。それはもちろんほとんどが鉛筆の線の濃淡で描かれていることにもよるが、横顔をこちらにわずかに振り向ける女性の眼差しや僅かに開いた唇に憂いや後悔が観てとれるからではないだろうか。中央に描かれた彼女の後頭部の更に後ろ、構図の左上端にはぼんやりとした赤い鋭角三角形。実は画廊で本作に向き合った時、私は迂闊にもそれが何を表しているのか気付いていなかった。偶々その際傍らに立ってくれた同時出品の他の画家から、”その東京タワー幻想的でいいですよね”と声をかけられ、ハッとして眼を近付けた三角形の中ほどと、そこから頂点へと細まっていく途中に赤い着彩の途切れを見つけて、題名の表す本作のコンセプトが理解できたのだった。何かを失い酒場で酩酊する彼女の後ろにぼんやりと紅い光を放つタワー、その輝きの飛沫が彼女の頭部を通り越して眼前にも点々と血走るように明滅する。表情が示す彼女の抱えるわだかまりとは何か?それが知りたくてこの絵の購入を決めた。
♢
いったい私は何をしているんだろう‥‥自分の行動の理解に苦しむ自分。初電から何本目かの土曜早朝の私鉄車内は、職場に向かう勤勉な乗客と昨夜の宴の名残に沈む酔客とが混在する不思議な空間。私は残念ながら後者として、微妙な隙間のある座席で隣席と身体が触れ合うことを厭いつり革にぶら下がる我が姿を、飛びすぎる都会の景色をバックにぼんやりと見つめていた。疲れ果てた脳が、イタリアンファミレスのテーブルに置いてある子供向けの間違い探しシートを何気に手にした時のような違和感をキャッチする。何かが足りない。やにわに目を見開いて脳内イメージの私と今目の前のガラスに映る私を照合した結果が導き出された。それは首元。ない‥‥
「どうして?」
“どうして?”、疑問の源泉は一週間前のあの出来事、いやそれよりずっとずっと前から発露していたことに、私が顔をそむけていただけなのだろう。
「この間話してたヒューストン行きが正式に決まったよ。俺たちこのままじゃ難しいと思うんだけど。彩香はどう思う?」
丸の内の会社で一時間ほど残業して更に二時間カフェで時間を潰してから新橋へ移動し、いつものホテルの高層階、多忙を極める商社マンとキャビン風バーで落ち合うと、顔馴染みのバーテンダーが出してくれた乾杯のシャンパンの透明な泡が消え去る前にそう切り出された。男の視線はカウンター奥の棚に並んだ酒瓶のラベルを一本一本確かめるように前を向いたまま。デザイナーズブランドのスーツを着て、黒革のブリーフケースを提げるようになっても、後ろめたいことを話す時の仕草は学生服着てリュック背負ってた頃と変わらない。そうこの男はいつもそうだ。つきあい始めた時も、ファーストキスも、初体験も。
“俺たちつき合ってるってことでいいよね?”
“キスしていい?”
“いいのこれで?”
???ばかり。ボールはいつも私の掌の中で行ったり来たり。でもそこに答えは一つしかない。今回もサインを出したあの男が構えたミットに、お誂え向きの直球を投げ込むことになるのかな。昔の大ヒット曲のように十三歳で二人は出会い、以後十数年間些細なことから大事なことまで常に同意を求められて来たんだ、???。
「‥‥」
カウンターに両肘をついてシャンパングラスを捧げ左右に二回。即答じゃいけないかなと敢えてボール球。
「急に言われてもだよな。申し訳ないと思ってる」
申し訳ない?
“俺、東京の大学を受けようと思うんだけど、彩香はどうするの?”
“若いうちは脇目もふらず仕事に打ち込みたいと思ってる。それでいいかな?”
渋る両親を説得して東京の大学に進学し、就活では早々と総合商社に内々定をもらったこの男のために、どこだって仕事の内容は同じなのに、”御社が第一志望です”と何度も何度も同じ台詞を吐き、ブラウスの背中を汗でベトベトにしながら四年の夏まで一般職採用を探し歩いた。期待に答えて来たんだけどなあ‥‥ちょっと待って、”期待”って誰の期待?本当にこの男は私に何かを期待していたのだろうか。これまでこの男の口から零れ落ちてきた夥しい数の?マークには特段の意味合いや感情はなく、その場その場で私が必死に考えついた正解が導き出す未来にタダ乗りしてきただけなのかも知れない。もし私が投げ掛けられた?の一つに別の答えを提示していたら、その先に存在する私のいない未来の川の流れに、溜め息の一つくらいは吐いてから身を委ねて揺蕩っていったのだろう。
「どうだろう?彩香」
相変わらず視線は前を向いたまま、次の一球のサインが出る。最近のこの男の発言や行動をまとめたスカウティングレポートから、促されなくても投げるべき球は解ってるよ。今回海外トレイニーに推薦してくれた有力上司の家におよばれに行ったら、お見合いの場だったんだよね。上司の一人娘の弾くチゴイネルワイゼンが心の琴線に共鳴したんだよね。絶対嘘!だって出会ってから十数年二人の会話に一度たりともサラサーテ、いやクラシック音楽の話題なんて上ったことないんだから。私たち二人のラブストーリーがドラマとして放映されてたとしたら、この男より私に非難が殺到するんだろうなあ。こんな台詞を口にしたら。それでも次の投球動作に入るのを止められない。指先の震えを気取られないようシャンパングラスを見慣れた四角形のコースターに静かに置いて溜め息一つ。
「じゃあ私帰るね。さようなら。今までありがとう」
スツールから腰を上げバッグを手にする。男はこちらを向いたようだったが、足元を気にするふりで下げた視線を上げられない。今夜は一度も目を合せなかったなあ。万に一つの引き留められる可能性も潰えて、新橋駅へと向かうヒールの足音がコツンコツンといつも以上に心に跳ね返ってくる。昔読んだ”永すぎた春”って小説の結末ってどうだったっけ?ハッピーエンド?バッドエンド?あ~、私の頭の中にこれまで大量に投げ掛けられたいろんな?が渦巻き、やがて首まで?に埋め尽くされていく。
あの瞬間、それまでの私は文字通り崩壊した。夥しい?マークに呑み込まれ、どうやって帰ったかも記憶にない自室のベッドでのた打ち回り、とにかく男以外の何かに縋りたくて採った昨夜の愚かな行動と、その当然の帰結としてネックレスのない自分の首元とに吐きそうになって見知らぬ駅で降り、目の前にあったベンチに腰掛けて蹲る。ひと気のないホームを流れる湿り気を含んだ生暖かい風が身体に纏わりついて、絶望感を助長する。”通過電車が参ります。ご注意ください”、チャイムとともに流れる無機質な電子音声を合図に腕に、肩にそして頭の天辺についた糸が引かれ、壊れたマリオネットと化した私はホームの端へと一歩二歩。
「死んじゃおうかな」
大半の飛び込み自殺者の行動は無意識かつ衝動的だという。こんなベタな台詞を声に出して呟いている私に、”そんな度胸もないくせに”とあざ笑うような軽い警笛を吹き鳴らしながら特急電車は通り過ぎ、車体が切り裂いた空気の波が糸の切れた操り人形をベンチへと押し返した。ドスン、戻ってきちゃった。どす黒い衝動の支えも失いクシャっと俯いて髪がだらりと垂れて湿った風が無遠慮に撫で回す露出した首筋に手をやる。やっぱりない。いつ外したんだろう。記憶がない。なくて当たり前のことをしてたから。古びていて細身だから手にした人も気付かないだろうけど、銀じゃなくてプラチナなんだよ。私にとってとても大切なものだった。このタイミングで私の手を離れたのは、やっぱり未来への暗示なのかな?
「彩香、ちょっとこっちへおいで」
高校を卒業してあの男と手に手を取って上京間近のある日、同居していた今は亡き祖母が自室へ招き入れる。
「これを受け取って欲しいのさ」
彼女の髪の色によく似たシルバーのネックレスを両手でふわりと捧げ持つ。春の陽光を受けて鈍色のそれがキラと輝いた。
「銀?」
「プラチナなんよ。銀とは重さが二倍ほど違うんやけど、こう細いとわからんよね。でもこれ大正時代のものなんよ。日本製のプラチナ宝飾がまだ珍しかった頃やね」
「大正?おばあちゃんは昭和生まれだよね」
「そうよ。これは私のおばあちゃんの形見。婚約の証しとして私のおじいちゃんがそれこそ大枚をはたいておばあちゃんにプレゼントしたそうよ。それからおばあちゃんは肌身離さず身に着けて、戦争中の金属供出も畳の裏に隠して潜り抜けてきたものなんよ」
老眼鏡の奥の灰色がかった瞳が優しく私を見上げる。
「そんな大切なもの私もらえないよ」
「同じことを高校生だった私もおばあちゃんに言ったわ。”戦争のどさくさの後、お前を産んですぐ逝ってしもうたお前の母さんにはこれを渡せなんだ。東京でオリンピックをやるような平和な世を、私と一緒に苦労してきたこれに少しでも長く見届けさせたいんよ”、おばあちゃんはそう言って私の掌にこれを押し込んできた」
その場面を再現するように祖母はネックレスをぎゅっと握りしめた。結んだ拳の端から鎖が垂れる。
「ほら、私は息子三人で年頃の孫娘も彩香だけや。おばあちゃんから孫の私に渡ったものが、また私から孫のお前に渡る。これも何かの縁、この鎖もう少しすると百年世にあることになるんよ。私がつけていてももうこれが見る風景は代わり映えしないけど、彩香がこれをつけてくれたら、違う世界、次の世をこれに見せてやれる。そして願わくはまたお前の孫に渡れば‥‥」
私のちょっとした戸惑いの表情を、賢い気配りの人は瞬時に察したのだろう。
「ごめんねえ。そんなこと言って渡したら、十字架になってしまうね。新しい時代の女の幸せはいろいろ。輝きも褪せて古くさいものだけど、時々身に着けて変わりゆく外の景色をこれに見せてあげてくれたらそれでいい。さあ‥‥」
留め具を外して左右に広げる小柄な祖母に向かって私は膝を折った。
「ありがとうおばあちゃん。大切にするね」
田舎娘の私にはそれが人生初ネックレス体験だったのだが、首元に異物感はまったく感じられず、心から嬉しそうな祖母の眼差しを受けて、私の気分も高揚していくのを感じた。我が家の血の繋がりを大切にしていきたい。春のそよ風が優しく首元をくすぐる窓辺でそう思ったんだ、その時は‥‥
出会い系アプリにログインして会話履歴にある昨夜の相手のアカウントをクリックする。リンク切れ。どうやら彼女はアカウントを削除したようだ。
「どうして?」
拒絶。次はないと私に告げているのか?突然部屋を飛び出していって、頭のおかしな奴認定をされたからか?そんなおかしな奴はもちろん相手と連絡先交換もしていない。ネックレスを取り返すにはまたあの部屋に乗り込むしかなくなった。
地下通路を改札を素通りして反対のホームへ。十数分後さっき逃げ出したばかりの駅に、ゴクリと酸っぱい液体を体内に飲み下しながら降り立った。この駅で会って夜道を連れて行かれ、朝ただ記憶していた駅の方角に向かって一目散に駆けてきてしまった私は、改札を出て腕組みする。え~っと、南口を出て小さなロータリーを渡り、広めの道路をしばらく行って途中にコンビニがあった。その角を右折。記憶通りのルートを辿るとコンビニが数軒ある。コンビニの看板が何だったかもう思い出せない。散りかけの躑躅の私の嫌いなどすピンク色の花を頼りにたぶんこれだろうと細い路地に入って、右へ左へ曲がって‥‥だめだ。緊張と動転、往きも帰りも脳内に地図を描けなかった無防備でバカな女が、昨夜の狂宴の地に戻れる可能性はゼロのようだ。今来た道を引き返し、それでも諦めきれず次のコンビニの角に向かおうとするが、立ちすくんだ脚は言うことを聞いてくれない。トボトボと戻る駅前にKOBANの看板を見つけ、落とし物の有無を訊こうとするが、”どこで何をしていた時に落としたんですか?”と尋ねられる場面が目に浮かんで、ゾッと身震いし青い看板を遠巻きにして足早に通り過ぎた。
再び戻って呆然と腰掛ける駅のホームのベンチの前を通り過ぎる人の数が増えてきた。揃いのモスグリーンのジャージに身を包んだ高校生たちはこれから部活の試合に向かうのか。ベビーカーを押すお母さんは都心へショッピング。反対ホームにはオレンジ、ブルー思い思いの派手な色合いのウインドブレーカーを身に着けリュックを背負った老人グループが集い、この線の終点にある山へとハイキングだろう。みんな楽しそう。今の自分の心境とのあまりの落差にいたたまれなくなった私は、目の前に停車した電車にのろのろと乗車。車いす用スペースとして椅子のない車両の片隅に窓に向かってぼんやりと立った。
「気持ちよかった‥‥」
不意に唇からこぼれ出た言葉に驚きはない。そう、気持ちよかった。今までのあの男とのどのセックスよりも。最初は痛くて仕方なかったし、痛みを感じなくなっても若さいっぱいの彼はむやみやたらに私の身体を求め、独りよがりに果てた。
”同じ女と三桁もやったら。いくら相手が美人でも飽きるんじゃね”
会社の同期の男が飲み会で泥酔して呟いた心ない一言が耳から離れず、お互い若気を通り越してからは私はひたすら彼に奉仕し、彼が満足感を射精で表現してくれることに性的悦びを感じるように、いやそう感じたいと思うようになっていたんだ。
着の身着のまま連れて来られた女の部屋で突っ立ったままの私は、正直何をどうしたいのか、どうしていいのかまるで分らず、明らかに年下の彼女に肩を抱かれてソファーに座らされ、彼女の差し出すものを飲み干し、彼女の愛撫に身を任せた。
「余計なことは考えず、イッちゃいなよ。何度イッっても終わりがないのが女の特権でしょ。私も射精しないからいつまでも楽しませてあげられるし、楽しませてもらうわ。私に最高のイキ顔を見せて‥‥」
何度目かの絶頂の後は記憶がない。いや彼女の裸体すら今では像を結ばない。下手な小説ならそろそろ主人公が悪夢から醒めるところ。しかし現実の朝の光は見知らぬ部屋のベッドに全裸で横臥する愚かな女に容赦なく照り付けて、呼応するように蘇えった理性が私を叩き起し狂乱と倒錯の宴の跡から追い出した。理性か。それをかなぐり捨てた瞬間のめくるめく快楽と、それを取り戻した瞬間に湧き上がる羞恥と後悔。
「どっちも私。どちらかを選ぶことはできない。人間って巧くできてるんだね」
そう呟いて自らの愚行を無理やり正当化しようと試みる。違う、私の愚行は昨夜の出来事だけじゃない。そこに到った過程の全て。両手を頭に載せて左右に振る。何も入っていない胃袋から酸っぱいものが込み上げてくる感覚に捉われて、膝が緩み頭を抱えたまましゃがみ込みそうになる。心身とも草臥れ果てた女を乗せて電車は停まり、何人かを吐き出しそれより少しだけ多い人を呑み込んで、また走り出す。決められたレールの上を、決められた目的地へ。
「はい、日本ケミカルでございます。イエス、ホールドオンプリーズ。皐月さん、KL(クアラルンプール)のチアさんです」
「ありがとう彩香。ハ~イ、ハウアーユードゥーイング?イエス、アイムファイン。トゥデイ、レットミーイントロデュース、アワニュープロダクツ。アズパープリビアスマイメール‥‥」
皐月さんは先輩いや彼女は総合職なので同じレール上にいる人じゃないから、そう呼んだら失礼かな。半年前に駐在先のデュッセルドルフからうちの課に帰ってきた営業ウーマン。一般職の私はこの課のアシスタント。彼女は国立大大学院出のリケジョだけど化学メーカーの主流派である研究開発職ではなく敢えて営業職を希望して、入社以来十年間日本と海外の行き来はあるとはいえ一貫して営業畑で輝かしいキャリアを積み上げている。
「彩香、お昼空いてる?マレーシアのPCM(ペトロケミカルマレーシア)と新製品の商売決まったんだ。初輸出なんでEL(エクスポートライセンス)申請とかドキュメントで仕事増やしちゃうだろうから、ごちそうさせてよ」
「やった~!最近開店したイタリアンのランチがおいしそうなんですよ」
「彩香のリサーチ能力は公私ともに頼りになるなあ。レッツゴー!」
頭脳明晰、容姿端麗、語学抜群、製品知識の宝庫、皐月さんの誉め言葉を上げていったらキリがない。おまけに日本のオヤジたちに接待で飲み負けない酒豪、そして私たちスタッフ職への気配り、表立って彼女を悪く言うのはおよそ不可能なスーパーウーマンなんだ。
「彩香、そのネックレスよくつけてるよね。シンプルなデザインだから制服のアクセントにグッド!」
アンチパスタの白身魚のカルパッチョにナイフを入れながら気配りの人が本領を発揮する。仕事中は髪をシニヨンにしていて制服のブラウスもオープンカラーなので、首元に目がいきやすい。
「実はこれ先祖代々の品で百年ものなんですよ。だからちょっと古くさくないですか?」
「そうなんだ。ってことはものはAgじゃなくてPtか!」
「えっ?」
「ごめんごめん。化学バカはすぐ元素記号で略しちゃうからな。プラチナじゃなきゃ百年経ってその光沢は維持できないよね」
「さすが!正解です」
慌ただしいランチタイムなのでお皿は次々サーブされるが、会話を自然に続けているのに皐月さんのフォークは既にアンチパスタをクリアして、ミニパスタのワタリガニのリングイネを巻き取りつつある。これもビジネスウーマンとしての才能の一つ。
「まだ時間はたっぷりあるからゆっくり、おいしく。日本のイタリアンいいよね。ドイツじゃイタリアンまで不味かったなあ」
「ドイツってご飯おいしくないんですか?」
「ソーセージとビール以外テリブルってやつ。大移動し過ぎて舌もどっかへ置いてきちゃったのかな?ゲルマン民族」
二人してプッと吹き出して口元を押さえる。グレーのパンツスーツに今日は薄い黄色のハイカラーブラウス。黒髪をポニーテールにしてアクセはつけずシンプルだけど颯爽とした姿に、その仕事ぶりを重ね合わせる私は溜め息しか出ない。この人の弱点って何だろう。
「皐月さん実はドイツに彼氏を残して来てたりして?」
「お~、コイバナってやつかな?でもないない。仕事に運使い過ぎて、男には回らないみたい」
「またまた~、その気になればいくらでも」
一瞬皐月さんの表情に翳りが差したように見えたのも束の間、再びえくぼが浮かぶ。
「っていうか一人が気楽なのかも?もしその気になったら手ほどきよろしくね。彩香先輩!」
「も~、皐月さんったら。それよりもっと私に仕事を教えてくださいよ」
冗談めかしてはいるが仕事は好き。皐月さんのように丁々発止と取引先と直接渡り合うよりは、業務知識を高めて皐月さんたちが活躍し易い環境を作り出すことに興味がある。そのためには‥‥
「は~い、望むところ。総合職転換まだ間に合うよ」
口元をサッと引き締めてサムアップする皐月さんに、ハッと俯く私。きっとこの人には何をしても勝てないよ‥‥一つの完璧は数多の自信喪失の母なのかも。
這う這うの体でアパートへ辿り着いてワンピースを頭から脱ぎ捨て穢れた下着を剥ぎ取って、喉に指を突っ込みゲーゲーと胃液を吐き散らかし、嘔吐の反射で目や鼻から迸り出てきた液体を眼にしてスイッチが入り、思い切り自分のアホさ加減を泣いて泣いて泣き疲れて、気を失うように眠ったらまた夜だった。前夜のアルコールと倒錯が身体をベッドに縛り付けていて起き上がれない。暗がりでぼんやりと開いた目に昨夜から閉めたままのカーテンの隙間から薄明りが届く。
「月夜なんだね‥‥」
のろのろと腕だけを伸ばしカーテンの端を掴んでえいっと引くと、優しい半月の光が裸の全身を照らす。照らされながら今朝私の肢体いや失態を暴き出した眩い太陽光を思い出して一瞬身が竦む。今日ほど自然光を意識した日はなかった気がする。朝に太陽に顔を張られ、宵に月に頬を撫でられ癒やされている。月光に包み込まれ少しずつ身体が自由を取り戻していく。ゆっくりと上半身を起こすと脳に血が巡り始めたようだ。しかし、脳が再起動したからといって犯した事実は変わらない。ともかくシャワーを浴びて身体に付着した彼女と私の体液を洗い流して外に出よう。ここでこのまま頭を抱えていたら気が狂いそう。
髪を乾かし軽くメイクを施して、モノトーン縞のバギーパンツにサンダル、黒のタンクトップに純白のブラウスを羽織ってアパートのドアを踏み出した私の足が、脳より先に向かった先はいつもの新橋のホテルのバーだった。男、理性、常識、そして大切なネックレス、多くのものを失いこんなにボロボロになってしまった私の出発点、いや十数年営々と築き上げてきた惨劇の砂城が筋書き通り崩壊した終着点。どちらにせよそれでも存在する私のカタストロフ後の未来を考えるにはうってつけの場所なのだろう。
「センスいいじゃない私の足」
自虐笑いに頬を引きつらせフロアスタッフに案内されてスツールに腰掛けると、やっぱり胸の鼓動がドクドクと早くなる。
「お一人様ですか?」
いつものバーテンダーは頷く私に表情一つ変えず、
「今夜は何をさしあげましょう?」
囁くような声にホッと一息つくと胸のざわめきも感じなくなった。
「ドライシェリーを」
「かしこまりました」
初めて見るこの人の微かなしかしとても優し気な笑顔とともに、カウンターに滑り出された表面にぶどう模様の施されたリキュールグラスを手にくるりとスツールを回転させると、大きな窓の向こうに紅く煌めく鉄塔が聳え立つ。
「キレイ!」
この塔を始めて見上げたのは高校の修学旅行。あの男と手をつないでだった。鉄骨に塗られた赤色が夜になるとライトを浴びて真紅に変化すると知ったのは、上京して社会人になりあの男とここで待ち合わせるようになってから。
「そうだろ。会社の先輩に夜景がきれいだぞって教えてもらったんだ。ところで彩香、最近仕事はどう?」
「どうって、ただの一般職だから。さすがにコピーとお茶汲みなんてことはないけど、どこのメーカーでも私のポジションに与えられる仕事に大差ないよ。ドキュメント作成にファイル整理、提案書のプリントアウト‥‥あっ、これコピーだね」
「そうなのか。うちの会社のアシスタントはよく働くけどなあ。俺より英語巧い子もざらだし。彩香も自分の仕事に目的を持った方がいいんじゃないかな?」
泡が消えかけた生ビールのグラスを男が煽る。私の抱える悩みの源泉に直接手を突っ込んで無暗にかき混ぜていることに、意識が及んでいないようだ。
「目的か。商社の女の子の目的は違うとこにあるかもしれないよ?」
「違うとこってどこ?」
「さあね‥‥」
私の職業意識、そんなの決まってるじゃない。そっとプラチナのネックレスに手を触れる。
「明日は土曜だしこのままここで泊まらない?よければ部屋を押さえてくるよ」
また???だ。私が思い通りの答えをするとわかっていて訊いてるよね。きっと部屋のキーは既に彼のグレーのスーツの内ポケットの中。だけど私に否はない。やっぱり鎖の呪縛に囚われている?いやそう思いたかっただけだったんだ。
昼間のタワーは途方もなくでっかい赤い無機物なだけだけど、夜になると息づくように揺らめいて独りぼっちで弱い私の心を優しく包み込んでくれるようだ。タワーの右上空には、私の身体をベッドに雁字搦めに縛り付けていた荒縄を解いてくれた半月が、こっちを向いて微笑んでいる。やっぱりここに来てよかった。男に捨てられ、行きずりの女と寝て、他動と自動いやどっちの出来事もたぶん自ら引き起こしたことだと今は思う。そして落ちるとこまで落ちたのは事実だと素直に認めよう。これから私は男に依存することなく、刹那の快楽に溺れることなく、自らの目的地を見定めて、それに向かって一歩一歩進んでいく。皐月さんのようには到底なれないだろうけど、安閑と呪縛にまみれた制服のベストとスカートを脱ぎ捨て、決して絶望せず皐月さんの背中を追い求め、人のためじゃない自分のための人生を再スタートさせる。つらくなったらタワーを眺めに、真紅の光に癒やされにまたここに来よう。苦い想い出が降り積もる墓場と敬遠するか、大切な教訓に満ち溢れる聖地と崇めるか、それはこれからの私次第。少なくともあの男がここを訪れることは二度とないと確信している。
名前も聞かなかった昨夜の彼女にも感謝しなきゃ。飛び飛びの記憶だけど、私を弄ぶ彼女の表情は喜悦に溢れていたと思う。きっと彼女の求めていた何か?聡明そうな彼女にとってそれは一刹那を彩るものではないのだろうけど、その何かを破れかぶれの私が的確に供給したからじゃないのかな?
「いつかまたお互い服を着て会えるといいな」
プッと吹き出しタワーに生命を与えるスポットライトと同じ色のドライシェリーのグラスに口をつける。
「お願いだから私のネックレスを捨てないで、預かっていてね。プラチナ製の百年物なんだから」
十数年の過去を一晩でチャラにしちゃった今の私に、あのネックレスをかける資格はない。人と人が殺し合うことが是とされた世、それに続く混沌としたつらい世を、したたかに生き抜いたおばあちゃんやそのまたおばあちゃんのようになれそうだと確信した時、きっとそれは私の首元に戻ると信じてる。
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