我が家の六枚の繪(おんな)
ちょっぴい
だみえ
我が家のリビングの白い壁には六枚の肉筆画が掛けられている。日本画、洋画、具象、抽象、手法は様々だが、描かれているのはすべて女性。リビングのドアを開け、クリーム地木目のフローリングに腰を下ろして両脚を投げ出すと、正面、横顔、喜び、憂い、希望、不安、六人の女たちが私を囲み、それぞれの思いを投げかけてくる。彼女たちの隔たりは数十センチからせいぜい二、三メートル、お互いの存在を意識しているのか、繋がりを保っているのか。
六枚の中で大きさでも艶やかさでも目を引くのは「だみえ」。キャンヴァスの左下から上へと順に、コンペイトウのような赤や紫の星が泡立つエメラルドグリーンの海、粘土レッドに緑葉が茂る大地、そこから沸き立つ金色の光の飛沫が群青の夜空へと舞い上がる。そんな淡緑の波間に膝から下を浸し、赤褐色の大地に右肘を枕に横臥する黒髪の裸婦。ゴールド輝く鮮やかな色と模様のグラデーションに浮かび上がる裸体の構図が、巨匠グスタフ・クリムトの煌びやかで淫靡なタッチを作者が意識していることは、その題名からもうかがえる。
海の滴を弾き落とすようなプルンと張りのある瑞々しい身体を晒す若い女の眼は薄く開かれ、気怠い覚醒の時を迎えているようだ。
♢
いいえ、私はずっと起きてたわ。でないと彼女を部屋に誘った意味がない。カーテン越しにふんわりと射し込む梅雨入り前の曙光を浴びて今目覚めたのは、私に背を向けシーツにくるまる彼女の方。ベッドにしな垂れ落ちる茶色いロングヘアが覆う後頭部をいやいやをするよう左右にして寝ぼけ眼で辺りの景色を眺めるうちに、そばかすのようなシミが淡く浮かんだ白い背中がピクリと跳ね、やにわにこちらを振り向いた。もちろん私は目を閉じて軽く鼻から息をつく。昨夜の出来事の欠片を搔き集めて愕然と目を見開いているだろう彼女の顔を想像し、夢見心地のような笑みを薄っすらと浮かべてみる。彼女が再びピクリとする気配がベッドに跳ね返る。子供の頃から疑問なんだけど、”目を丸くする”っていったいどんな目なんだろう?想像力の乏しい絵描きとしては、目下の私の最大課題を満たしてくれた昨夜の彼女同様、是非いつか実物にモデリングしてもらいたいものだ。
「どうしよう?」
微かに耳に届いたつぶやきから二秒後、昨夜のパートナーが再び向う向きになった気配に薄目を開けると、ベッドから下りた彼女はフローリングに脱ぎ散らかされた下着を一つひとつ拾い上げながら身に着ける途中だった。この恥じらいに富む後ろ姿も次回作のために取っておきたい構図だ。手にしたワインレッドのタイツを僅かな逡巡の後バッグに突っ込むと、ベージュにオレンジの花柄のワンピースを頭からバサリと被り、襟元からロングヘアを乱暴に掻き出しスリスリという足音で玄関に向かう。ガチャリと開錠音を残して、そっとドアを開閉する気配。
アパートの外廊下を遠ざかる不規則にもつれたような足音を合図にゆっくりと身体を起こしてベッドを離れ、フローリングを一歩二歩。朝の光がローテーブルの上でキラリと反射する。見慣れないシルバーの細身のネックレスを手に取り、全裸の首に唯一の異物として巻き着けてみる。こみ上げる昨夜の倒錯。”女の子限定、お友達になろう!”というサイトで偶々拾った、そう、こういうのが出会い系ってやつで。彼女の意図は私は知らない。私の意図は女のイキ顔を観察したい、ただそれだけ。待ち合わせた駅の改札で不安そうに辺りを見回す彼女の容貌を、駅舎併設コンビニのイートインでカフェモカのストローを咥えてじっくりチェック。ちょっと年増だけどこの手のサイトに集まるある種の女特有の擦れた感じがなかったので、声を掛けてお持ち帰りした。”芸術家にとって恋愛とセックスは制作の肥やしでしょ!”って誰かさんの言葉を真に受けて大学に入って実践してきた私だけど、こういうシチュエーションは初めて。だから私はこれまで私を抱いた男たちがしたことを忠実に再生しただけ。
「さあ、これ飲んでみて。とっても気持ちよくなるよ」
冷凍庫から取り出したトロットロのズブロッカをシャンパングラスについであげたら、私より五つは年上に見える少し疲れた様子の女は、何の疑いも差し挟まず両手で差し上げたグラスを一気にあおる。
「おいしい‥‥」
消え入るような微かなつぶやき。真っ赤に引いたルージュの跡形だけが残るグラスを取り上げて魔性の酒をもう一度なみなみと注ぎ、彼女の痕跡を舐めとるように舌を這わせてから渡してあげたら、一息つくと何かを忘れたそうにまた飲み干す。
「お酒強いんだね」
陶然と半開きになった唇にポンと人差し指を当ててあげて、ハッとした顔に今度はディープキス。そこからは私にされるがまま。きっと女と寝るのは初めてだったんだよね。それは私もそう。二人の差は目的の有無。周到に準備した私の手練手管に彼女は無邪気によがり、喘いで、やがて絶頂を迎えてくれた。何度も何度もイキを重ねる途中から、私が二つ折りにしたスケッチブックと鉛筆をベッドサイドに潜ませていたことに気付いていたかな?イキながら同じ男の名前を何度も叫んでいたのは興覚めだったけど、そこら辺りがギブアンドテイクってことで、ありがとうね。でも、あんなに気持ちよさそうにしてたのに、朝陽を浴びた途端にこのネックレスを置き去りにするくらい狼狽しなくてもいいのにな。そういえばこのネックレス、私が両手の指で作ったフレーム内で彼女を守り威嚇するようにキラついて邪魔をしていたので、取り除けてやったんだった。悪いことしたなあ。電車の窓に映る姿を見て疲れた脳に違和感を抱き、地下路線に入り鮮明となったポートレイトに足りないものがあるのに気付く。黙って部屋を逃げ出して来たのは自らの拒絶の証し。私にコンタクトしたサイトアカウントは消去済み、大切なネックレスを取り戻すにはここにもう一度来るしかない。
「ど・う・し・よ・う?」
昨日の酒に焼けたかすれた声で機械的に発音してみる。つり革に掴まり、そうやってまたさっきみたいにつぶやいてるのかな。さて、彼女は昨夜の記憶と同様に、このネックレスを最初からなかったことにできるだろうか?まあいい、お忘れ物の保管期間は一週間。ネックレスを外してジュエリーボックスの端っこに居場所を作ってあげ、再び一糸纏わぬ姿に戻ると、モチーフとしての絶頂を迎えた女のイキ顔以外のすべての過程やイメージを洗い流すために私はバスルームに向かった。
「これを描きました。弓月紫乃と申します」
いつも相手が絵の前に立ち止まってから十数える。一おつ、二あつ、三っつ‥‥八っつ、九のつ、十、視線をわずかに外しておずおずといった調子で私の作品に腕組みして向き合う中年男性にネームカードを差し出す。戦前にアパートメントとして銀座に建てられたという煤けたモルタル壁の二棟が身を寄せ合う六階建てのレトロなビル。今はそこに一室六畳ほどのスペースの画廊やアンチークショップがひしめき合う。ギシギシと苦し気な音をさせて昇るエレベーターの鉄格子の引き戸をガチャリと開けた先のそんな一部屋、”ウェルウィッチア”の白ホリに壁面スペースを借りて私は絵を売る。若手画家の登竜門とも言われるこのビルで展示を始めて二年。何度かの改定を経て号単価は三倍になった。どうやらこのビル内という限られたカテゴリーで私は売れっ子のようだ。
「この作品のモデルはご自身ですか?」
「あっ、はい。かなり盛ってますけど」
この絵の彼女のように控えめなピンクに彩られた口角を上げて見せる。グレーの膝上スカートに、襟に青赤緑の草花の刺繍の入った白のショートブラウスをふわりと出して、素足にサンダル。作品イメージを損なわない姿の画家が傍らに佇んでひそと声をかける。私の作品の購買層は大部分男性で、かつ上昇した価格的に中高年がメイン。在廊する時はそんなお客様たちの最大公約数的な欲求に叶う姿と所作を心がけている。
「作品の実物を目の前にできるなんて幸せです。何作か見せて頂いてますが、ご自身以外にもモデルさんはいらっしゃるんですか?」
「そうですね。私、想像力が乏しいんで、リアルモデルでしか描けないんです。大学の仲間には3Dモデルソフトを使いこなして、モデルなしで描く子もいて、いつも羨ましいと思ってます」
「いえいえそんなことないです。弓月さんの作品からはご本人を含めたモデルさんと真摯に向き合ってる貴女の姿が滲み出てますよ」
「ありがとうございます。次の機会には是非ご自宅にお迎えください」
踵を少し前後させ両手を重ねて軽くお辞儀して、作品プレートに赤のシールが貼られた絵から離れる。お客が一旦引けて、片隅のデスクで老眼鏡を上下させてノートパソコンを睨んでいた廊主の荻島さんと目が合う。
「紫乃ちゃん絵の腕前だけじゃなくて、客あしらいも巧くなったんじゃない?」
「やだなあ。私がコミュ障なの分かってるくせに」
額に垂れたベリーショートの黒髪をかき上げ、フレームレスの眼鏡を押し上げる。
「それならなおさらツイッターやインスタを始めた方がいいよ。そしたらもっと売れる」
「版画じゃないんだから。もう需要に生産ペースが追いつきませんよ」
私の作品を掛ける壁面を提供してくれて、世に認められつつあるレベルに引っぱり上げてくれた荻島さんから、この間卒業記念初個展のオファーを貰った。来春は卒業。卒制とは別に脳内にイメージした自分が描きたい絵がある。それに必須のピースが女のイキ顔だった。
私が大学に上がる時、制作に没頭したいからといい子ねだりして親が借りてくれた一LDKのアパート。嘘はついてない。私はここで多くの絵を描いた。家や学校では取り扱えないモデルやインスピレーションを得るための場所が欲しかった。玄関を上がってスリットガラスが何枚か入ったドアを開いた十畳ほどのリビングの窓際の角に敢えてベッドを置いた。リビングの右手本来寝室とすべき部屋はアトリエ。ここにはだれも入れない。モデルを使う時にもリビングで下絵を描いて、着彩は独りアトリエで行う。
シャワーを終えて素肌に男物の純白のワイシャツを両肩にかけ、上から何番目かのボタンを二つ三つとめて袖をまくる。乾かす間ももどかしくタオルを充てただけの濡れ髪に手櫛を入れながら聖域のドアを開いた。アトリエの壁の片面は色彩の海。光と色の三原色が整然とグラデーションを形成しつつ百本ほどの小瓶に納まって、各々の色が競い合うように自らの存在と美をアピールして、私の創造欲求を挑発する。この色彩の棚の前だけが、私が幼子のような無邪気な笑みを浮かべ素をさらけ出せる場所。紅辰砂、古代錦、鴬緑青、紫紺末、岩絵の具の原料はこの大地。白い絵皿にこぼしたその粉末に膠を加え、自らの指で念入りに溶いて、筆で麻紙に描き付ける。やがて乾き上がると絵の具は各々が内包していた地球の欠片を、思い思いに煌めかせる。描いた女の頬で、唇で、瞳で。女たちがキラキラ放つ耀輝と陶然と向き合う瞬間が、創造主としての我がレゾンデートル。
思惑通り彼女が私に与えてくれた昨夜の印象が新鮮なうちに、昨日と今日の境い目で描いたラフスケッチを横目に鉛筆でドローイングを起こす。思いつくがままアングルを変えていくつもいくつも。連作にして個展の目玉にする積もりだ。寝食を忘れてって言葉があるけど、今の私はどうやらそれのようだ。昨夜も眠らずずっと彼女を観察してたけど瞼はいっこうに落ちてこないし、お腹も空かない。今日学校でいくつか授業のコマがあるけど知ったことではない。それこそ眠気をもよおすような講義を聞くくらいなら、とにかく描く描く描く。高校三年のあの時、岩絵の具の煌めきに魅入られてから私はずっとそうしてきた。”生れてからどれだけ描いたか。それが画家の一つの評価基準だと思うな”、いつか荻島さんが言っていた。描かなければ才能は表現できない。そして売れない。絵画の世界ってデジタルなんだよ。作品は一点もの。0と1、売れるか売れないか。いくら他に買いたい人がいても私の収入は二倍にならないし、売れなければ当然ゼロ。小説家や音楽家とは違う。だから私は描く。描いて作品を世に問う。
「長田君、助手に聞いたが君は私に断りなく銀座辺りで頻繁に作品を売ってるらしいじゃないか。生活に困ってるようには見えないがどういう積もりかね。学部生には学部生として身に付けるべき知識と技術がある。卒制着手を目前に大衆受けを狙った美人画を描き散らすのは才能の無駄使いではないかね。君の指導教官として憂慮する事態だ」
嫌みな笑いを浮かべる指導助手に声をかけられ教授の研究室に来てみると、後ろに手を組み五月雨にけぶる窓の外に目を向けていた小太りの初老の男が、こちらを向いて私に訓戒を垂れた。
「申し訳ございません」
画廊でお客様にするようにとりあえずお辞儀してみる。銀のミュールにスキニーデニムの上から、アイボリー地にライトグリーンの粗い格子柄のシャツワンピースをふんわり羽織ったこの格好では様にならないと、俯いたまま吹き出しそうになる。
「筆名を使っていればわからないとでも思ったのかね。これで私もそちらの方で顔が広くてね」
助手たちに言いつけて画廊やネットのリサーチをさせて、出展作品も見ずに学生たちを我が手に縛り付けることを”顔が広い”というのなら反論はしない。そもそも隠したいから筆名を使っているわけじゃない。私はとうに長田某という名を捨て、画家弓月紫乃として生きている。
「知り合いに声をかけられ社会勉強と腕試しにといくつか出してみております」
「腕試し?審美眼の欠片もない素人コレクターに、アイドルグループのメンバーばりにチヤホヤされることが評価だと言うのかね。今の君は己の美を固める段階にある。我々の教えのもと大衆に迎合することなく、卒業制作に取り組んでもらいたい。何度も言うが才能の浪費は厳に慎むべきではないかね」
“己の美”、それが確立できなかったからあなたは私の前で熱弁をふるう人になったんでしょ。つまり売れなかったってこと。この男や取り巻きの多くの助手、学校なんて才能の墓場。ただし、才能を売り出すには免罪符があると便利。”〇〇美大日本画科卒”この護符を得るために私はこの学校に籍を置く。そういう意味では私も”才能なきものが教える”美大の特殊性のくびきから逃れられない一人なのだろう。
「ご心配痛み入ります。今後もご指導よろしくお願いいたします」
似合わないお辞儀をもう一度して研究室を後にする。おかげで最近頻繁になった展示の誘いを体よく断る口実ができた。個展までじっくりと作品を描き溜めていくことにしよう。
目覚めるとそこは暗闇。夏に向かい遅く訪れた逢魔が時に引き込まれていたようだ。短い夢を見ていたような気もするが内容は覚えていない。夢は脳内デフラグ現象って言うから、改めて私の脳にログインする。スツールから不自然に屈曲していた身体を起こして電灯のスイッチを入れ、窓際に並んだ朝から一気に描き上げた下絵たちを一つひとつ手に取って眺めて、気に入った一枚をイーゼルにかける。瑪瑙末、桜鼠、そして飛び切り高価な珊瑚を絵皿に溶いていき、麻紙の上の私の輪郭に肌色を塗り付ける。イキ顔を描くのは、実は自分自身の顔面骨格と造作の上。
目にする瞬間や角度によって究極に美しく煌めき、究極に醜く沈み込む、女が後天的に発露させる表情の中で飛び切り妖しくなまめかしい。それがオルガスムスを迎えた瞬間のイキ顔。本格的に女性画を描くようになって、鏡の中の自分や学校仲間のモデルの表情に飽き足らなさを感じていた頃、例の”恋愛とセックスは制作の肥やし”との私を絡めとるあの言葉を頼りに重ねていたセックスの何度目かで、初めてそれを体験した。硬い殻に封じ込まれた自らの感情が曝け出されたような気がして、一気に昇りつめた沸点から脳内温度計の目盛りが下降するにつれ、これこそ至高のモチーフになりうるのではと、女から画家へと切り替わっていく思考回路で考えついた。この表情を記録したい、そして表現したい。インスピレーションを形にしようとして、私はそれまで以上に男と寝た。時にはここで姿見に向かって自慰行為もした。しかし、記録できた表情は美しくも醜くもない中途半端、これと感じた時には記憶が飛び飛びでドロウイングにうまく起こせない。数ヶ月の懊悩の後、ようやく辿りついたのが昨夜の試み。女とは経験不足、いやたぶん初体験で、何かをかなぐり捨てたそうな彼女は、行きずりの私の愛撫に待望の表情を浮かべてくれた。何度も何度も。到達した境地は彼女のストーリーと私のそれの一瞬の結節点。しかし、残念ながら朝を迎え二つのストーリーは結び目がほどけて遠く隔たり、彼女はトラジックな結末を最終頁に書き記して、後悔と絶望を抱えてこの部屋を立ち去った。
「私にはハッピーエンドなのになあ。同床異夢‥‥」
自分のつぶやきにクスリとして、浮かべているのは悦びなのか怖気なのか、忘我の海に弛緩して揺蕩う私の頬に絵の具を塗り重ねる。絵の具が乾くにつれて地球の欠片がキラキラと自己主張を始め、緩んだ表情を妖しく引き締めてくれる。
「長田先輩、こういう感じですか?」
「もうちょっとワイングラスを傾けてみて」
明るい茶色の生地に暗めの水色他控えめな配色のチューリップたちが揺らめき、地色と同じフリルが首元を飾るノースリーブのワンピース。スツールにちょこんと腰掛けて軽く伸ばした背中にかかるナチュラルブラウンのロングヘア、分け目から三割ほど広めのおでこを見せて微笑む。学科の後輩心に、こうしてよくモデルになってもらっている。
「こう?」
「そうそう、OK」
お育ちよく中高付属校から上がってきた心は、何となく日本画科に来ちゃいましたといった内部進学組にありがちなタイプ。デッサンや習作を観る限り、画力面でははてなマークだらけだが、彼女には別の才能があると私は思う。
「私の絵、今度はどうでしたか?」
イーゼルから顔を上げて軽く頷いてみせる。
「やった~!」
ガッツポーズをとろうとして、手にしたワイングラスに気付き、肩を揺らしてもぞもぞしている。
「でも先輩のセルフポートレイトと画廊で並べて展示されてるのはちょっと恥ずかしいなあ。私、たばこの箱?っていうか噛ませ犬?う~ん、そんな何かになってませんか?」
アニメ声でのんびりとした口調。うん、今の戸惑いの口角いただいておこう。手にする鉛筆が気分よさげに麻紙の上を走る。
「どっちも初日で赤シールだったけど、先に売れたのはあなただったって荻島さんが言ってたよ」
「本当ですか!だとしたら嬉しいなあ。三倍盛りしてくれる先輩に感謝です」
心がワイングラスを両手で拝むように捧げ持つ。首元が少し寂しいかな?派手でなくていいので何かアクセントが欲しい。あいにく手持ちのアクセに彼女のほっそりとした心持ち長めの首に合うものがなさそう。着彩する時までにイメージを固めて描き加えるとしよう。
「盛り具合も私と同じだよ」
「またまた~!ところで今度の私はどんなお部屋に行くんでしょうね?」
自分の肖像が不特定の人々それも大多数が異性の目に映ることに抵抗を感じるのが普通で、モデル探しは自ずと同業者間のギブアンドテイクとなることが多い。男性の美人画家が少ないのはこのためだ。しかしこの娘は自分の分身が次々生み出され人口に膾炙していくことを、自らの名の通り心から楽しんでいるように見える。そんな彼女の心の裡はいつだって白い画用紙。描き手の要求に邪心も疑念もなくポーズを取り、載せられた絵の具の色を素直に浮かび上がらせる。ポートレートには描かれている刹那のモデルの気持ちが表出すると私は思う。なのでこの娘の絵が男性コレクターに人気なのは自明の理。
「済んだわ。ありがとう」
「こちらこそありがとうございます。完成したら観せてくださいね」
玄関でロングワンピースの裾を赤いサンダルの踵で器用にひょいと引っかけて、キュッと締まった踝でバックバンドのボタンを留める。何気ない仕草が様になる、観られることを楽しみ、観る側のあらゆる期待に応える。そんな心は創造者ではないが、究極の表現者。心は天賦のモデル、いや女優なのかもしれない。この娘に”イキ顔をして”って頼んだらどういう表情を作ってくれるのか。邪心にまみれた興味は尽きないが、心にその役回りは似合わないなとそっと苦笑いして、彼女がこっちに小さく手を振り莞爾して出て行くのを見送った。
イーゼルにあてたスポットライトの光が薄くなったと感じ、絵から目を上げると窓の向こう側が白い。途端に今まで勝手にさぼっていた耳が鳥たちのさえずりを私に報告する。彼女の与えてくれたイキ顔のパーツの中で、私の心を最も揺さぶった涙を浮かべた瞳を丹念に書き入れていく。眼球から感情の動きにともない体内水分を放出する機能は人類にしかないし、そのメカニズムは生物学的に未だに謎だ。涙粒を一粒描いてみる。いや止めておこう。実際彼女はあのさなかには瞳を濡らしてはいてもこぼさなかった。一筋垂らしたのは何度も絶頂を迎え気を失ったように眠りにつき、閉じられた瞼から。
「可憐だったなあ」
そう私も昨夜一晩、悶え愉悦する女のもたらすインスピレーションの洪水に攫われ、肉体的にではなく美意識的に彼女同様イキ続けていたんだよ。湧き起こるちょっとした罪悪感。涙粒を瑪瑙末で塗りつぶしてから、新しい絵皿に銀鼠を溶く。質感を出したいので膠は多め水は少なめ。出来上がったドロつく液体を面相筆に乗せて、シュッとしまった首と浮き立つ鎖骨の境い目にあてる。右手を黒髪ショートカットの後頭部にあて小首を傾げるセルフポートレイトは一糸も纏っていない。突然かけられた白銀の鎖に絵の中の私が戸惑いの表情を浮かべる。
「やっぱり邪魔?」
イーゼルを背にこちらを睨める彼女の首が自信なさげに更に傾く。
「わかった。じゃあこうしてあげるね」
鎖の上に膠の滴をポツポツと落とし、細かく切り刻んだ金箔をピンセットで一つひとつ丁寧に貼り付けていく。珊瑚を塗り込み上気した素肌に銀一色では昨夜の生身から感じた通り異物感が強いが、金箔が控えめに輝きながら肌色へとグラデーションを導き出して、無愛想な銀の鎖を絶妙なアクセントへと仕立て直してくれた。半開きの唇から吐息の固まりがほわりと立って、絵の中の私は再び忘我の境地へと帰り着いたようだ。これで昨夜の彼女へ罪滅ぼしもできたかな。この子は来春”ウェルウィッチア”の白壁をセンセーショナルに彩ってくれるだろう。絵画は一点もの。売れれば二度と会うことはない、たぶん‥‥なので私は描き続ける。いつもこのアトリエに私の至高の一点を掛けておくために。
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