#01「かずらの世界~The Observer's Eyes~」
わたしはこれまで、神様というものを信じていなかった。
わたしの眼をもってすら、そのような超常的存在を観察したことが無かったからだ。
だけど今は、信じざるを得ない。ソレは、わたしの目の前に居た。
その姿は、現在のわたしと良く似ていて。
だけど決定的に異なる部分が、一箇所だけ在った。
──ソレには、右眼が無かった。
まるでどこかに置き忘れて来たかのように、本来右眼が在るはずの場所にはぽっかりと黒い穴が空いていて。
残された漆黒の左眼が、わたしをじっと観察していた。そこに、感情の入る余地などは無い。真なる観察者が、そこには存在していた。
観察者(ワタシ)を観察する存在(セカイ)。
その存在を知覚した瞬間に、わたしは両者の関係が逆転したことを悟っていた。
──そうだ。わたしは、この世界を観察する。
逆転と言えば。
最近頻繁に、出歩くようになった。昔は頑ななまでに外出を嫌がり、部屋に閉じ篭ってばかりいたものだが。不思議なことに最近では、他人に姿を見られても嫌じゃなくなっていた。むしろ今では、誰かと接する機会が増えたことに喜びすら感じている。どうしてこうなったのか自分でも良く分からないが、これも逆転と言えば逆転と言えるだろう。
現に今も、散歩がてらウィンドウショッピングをするなどして、適当に町をぶらついている。サトーには黙って来たけど、ひなたにはこっそり耳打ちしておいた。尤もひなたは猫だから、返事をする代わりに前足で、痒そうに耳を掻いただけだったが。まあ、だから、その。
きっと今、わたしの居場所を正確に把握できている者は誰も居ない。……神様、以外は。
「神様とわたし。二人だけの、秘密の時間。なんて」
我ながら乙女チックが過ぎたような気がして、独り誤魔化すように笑うわたし。最近はそういう空想というか妄想も、好んでするようになっている。本当に不思議。以前はこんなこと、考えたことも無かったのに。
考えるだけ時間の無駄だと、半ば諦めのように悟り切っていたはず、なのに。
現金なもので。なまじ希望に満ちた未来なんてモノが提示されると、わたしという人間は、途端にそれを追い求めるようになってしまうらしい。
「かずら。こんな所に居たのか」
などと、感慨深くも公園のベンチに座って空を仰いでいると。春の陽気に誘われたのか、ひょっこりとサトーが顔を覗かせた。
秘密の時間はもう終わり。それは少し寂しく思うこともあるけれど、たまにはサトーの相手をしてあげないと彼が悲しむから仕方ないのだ。
それにわたしも、やっぱりサトーと一緒が良い。
わたしを連れて帰る気なのかと思ったけど、サトーはわたしの隣に腰を下ろして、わたしと同じように空を見上げた。空の海を、沢山の白い魚が泳いでいる。一際大きいのは鯨だ。わたしにはそう見える。
でも多分、サトーには別のものが見えているに違いない。わたしの眼は特殊だから、他の人と同じようには見えないのだ。一時期、そのことで随分落ち込んだことがあった。わたしが引き篭もりになった原因の一つでもある。けどそれは本当は、悩む程のことではなかったのだ。本当は誰一人として、同じものを見ている訳ではないのだから。一人一人、モノの捉え方が違うのだから。そういうのを、個性というのだ。
でもちょっぴり、そういうのをサトーと共有したい気持ちもある。だからわたしは大きな声で、「あ、鯨!」と叫んでみた。ついでに指差してみたりもして。
「ね? あの雲、鯨に見えるでしょう?」
どうにもサトーの反応が鈍い気がして、一応確認を取ってみたりもした。
「いや。あれは、かずらだ」
「は? わたし、ですか?」
「ああ。雲だけじゃない。俺には何でもかんでも、お前に見えて仕方が無い」
「………」
サトーの返答は、わたしの予想の斜め上を行くものだった。サトーさん貴方、今すぐ病院に行った方が良いですよ? と、ちょっと本気で心配するくらい、彼は大真面目な顔でわたしの方を見つめている。
うーん。こういう時って、どう答えたら良いんだろう。わたしが対応に困っていると。
「かずらは、俺が見えないのか?」
更なる追撃が、彼の口から発せられた。
「え? ……見えてますけど」
「違う。それは、本当の俺じゃない。幻像だ」
「………」
冗談かとも思ったが、どうやらサトーは本気で言っているらしかった。そんなことは、彼の眼を見れば分かる。一切の迷いの無い、鷹のように鋭い眼差し。ずっと見つめ合っていると心まで見透かされそうな気がして、わたしは彼から視線を逸らした。そういうのは、ちょっと恥ずかしい気がする。
「ここはお前の世界だ。お前が望んだ理想の世界だ。だから俺はこの世界の端々にお前の姿を垣間見える。……そう言った所で、今のお前には分からないかも知れないがな。
一つだけ忠告しておく。かずら、決して自分を見失うんじゃないぞ。お前がお前でなくなった時、世界に飲み込まれるのは本来のお前自身なんだから」
彼が何のことを言っているのか、わたしには良く分からない。唯一つ理解できたことは、彼が本気でわたしのことを想ってくれているという事実だった。
それきり彼は黙ってしまい、わたし達はしばらく無言で空を眺めていた。本当はもっとお話したかったけれど、口を開けばこの関係が崩れてしまうんじゃないかと、不安で。
「帰ろう。もうじき、日が暮れる」
どれくらいそうしていただろうか。先にそう言って立ち上がったのはサトーだった。元々口数の少ない彼だったが、今日はいつも以上に少なくて。
だけどそれを寂しく思うと同時に、どこか懐かしくも感じるわたしが居た。彼の差し伸べた手を取り、わたしは身体を起こす。その時軽い眩暈を覚えて、体勢を崩してしまった。
よろめいた所を、サトーに支えられた。彼の、体温を感じた。
「かずら。お前がこれ以上無理をする必要は無い」
優しく彼は囁いて。わたしの髪を、そっと撫でてくれた。
「お前の世界は俺が護ってやる。だから、お前は──」
あんまり優しかったから。わたしは彼の言葉を最後まで聞くことができなかった。何だか、とても、眠くて。
──ほんの少しの間、わたしは。
自ら、観察者で居ることを放棄した。
「おやすみ。かずら」
ひかげのいと すだチ @sudachi1120
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