ヒナタノイト
#00「プロローグ・満月夜~The Ruler's Eyes~」
セカイが反転した。
何もかもがありえない配役で、ありえない位置に設定し直された。
何故そんなことが起こったのか、当事者ではない俺には見当もつかないが。
──多分きっと、それは彼女の意志なのだろう。
月が、出ていた。
それがあたかも眼球のように見えたのは、きっと目の錯覚だろう。
俺の名はサトー。
本名はちゃんと別にあるのだが、何故か皆にはそう呼ばれている。かくいう俺自身、現在ではサトーこそが、俺という存在を表す端的な単語として理解しているくらいだ。
年齢は便宜上二十八歳ということになっているが、実際は違うはずだ。はず、というのは、実年齢が何歳なのかは俺にもはっきりと分からないからだ。とりあえず見た目から、俺は二十八歳くらいだろうと皆に認知されていた。
職業は……表向きは無職者ということになっている。この国では無職者に対しても「フリーター」などと称して擁護する風潮があるので、その辺を大家さんに怪しまれることも無くアパートを一室借りることができた。現在はそこで暮らしている。
そういう、設定になっている。
「やれやれ。ややこしいことになったものだな」
頭の中で自己設定について何回か反復した後。俺はそんなことを呟き、ゆっくりと目を開けた。以前と現在と、二つのセカイ間に生じたギャップに、そろそろ身体を慣らさなければならない。
まあ、もっとも。俺が何を考え何を実行しようとも、今更作り変えられたセカイが元に戻ることは無いのだろうし、俺自身も元の自分に還ることは無いのだろうが。だから、きっと大丈夫だ。ボロを出す心配は無いし、何も考えずとも身体は勝手にこのセカイに馴染んでいく。じわじわと、真綿に水が浸透していくように。気が付いた時には俺は、現在感じているこの違和感をも喪失していることだろう。
それはきっと、そう遠くない未来だ。彼女と接する時間が他の皆より長い分、俺は彼女以外の誰よりも早く今のセカイに染み込むことができる。
──彼女。そう、俺は独りでこの部屋に住んでいる訳ではない。
「かずら」
布団から身を起こし、俺は彼女の名前を呼んだ。部屋の中に、彼女の姿は無い。また、彼女からの返事も聞こえなかった。買い物にでも行ったのだろうか? そういえば、俺が「出稼ぎ」に出かけて居ない間、いつも彼女はどうしているのだろう?
日向蔓(ひむかい かずら)。彼女とは幼馴染であり、現在の俺の恋人でもある。大人しくて物静かに読書をしている姿が似合う彼女が、俺と同棲するために実家を飛び出すと言った時には心底驚かされたものだ。まあその頃には俺は既に一人暮らしを始めていて、彼女を受け入れる態勢は整っていた訳なのだが。
深窓の令嬢のように見えて実は意外と行動力のあるかずらは、時々俺の知らない場所で彼女なりにこの日常を楽しんでいるようだった。
──誤算だったのは、彼女が俺の予測以上の適応力を見せたことだ。いくら彼女が望んだ形にセカイが再構築されたのだとはいえ、ここまでがらりと性格を変えて来るとは。これでは俺も、どう接して良いのか分からなくて困ってしまう。
「あいつ。幸せ、なんだろうな」
知らず笑みが漏れて、緩んだ口元を慌てて引き締め直す。正直、参った。どうもかずらのことを考える度、俺は普段の俺で居られなくなるようなのだ。いや、その傾向は以前からあったのだが。最近は以前よりも強く、彼女を意識するようになった。どうやらそうなるように、設定し直されてしまったらしい。まあ、当然と言えば当然か。
恐らくこのセカイで一番の幸福を感じているのは、他ならぬかずら本人なのだろうから。
「にゃー」
おっと。もう一人、いや一匹の同居者を忘れるところだった。己の存在を主張するかのように彼女は鳴いて、俺の膝の上で丸くなった。小さな小さな黒毛の塊。俺とかずらにとって、彼女は家族同然の存在だった。
「ごろごろごろ」
左手でそっと背中を撫でてやると、彼女は満足げに喉を鳴らしてみせた。この小さなお嬢様は、誰かの膝の上でこんな風にされることを一番に望む。本来猫という生き物は孤独を好むものだが、気まぐれな彼女においてはどうやら違っていたらしい。彼女は俺達人間と共に在ることを望んだ。だから俺達は、今もこうして、一緒に暮らしている。
ちなみに、彼女が二番目に好きなのは日向ぼっこだ。だから名前は「ひなた」。命名者はかずらで、俺は特に異論も無く賛同した。こうして考えてみると、ひなたは単純に温かい場所が好きなだけなのかも知れない。人肌の温もりと、お日様の温もり。そのどちらも、俺達にとってかけがえの無いものだ。そうだ、俺とひなたは似ている。恐らくは、かずらも。似た者同士、だから俺達は問題無く同居していられるのだろうか?
──推測に過ぎないが、俺の中のかずらに対する殺意が綺麗さっぱり消え失せてしまったのも、その辺りが関係しているものと思われる。
「……さて。そろそろお姫様を迎えに行くとしようか、ひなた」
ひとしきりひなたを撫でてやった後。俺はそう言って、彼女を膝から下ろした。不満そうに鳴いて、俺から離れるひなた。彼女にも分かっているのだろう。本質的な部分での、俺という人間の危険性に。だからこそ彼女は、必要以上の我が侭を要求しない。
右手にはめている黒革の手袋を確認してから、俺は外出する準備を始めた。
かずらの日記には、こうある。
『髪を切った。
特に理由は無い──ただ鬱陶しかったと言うだけ。
失恋したのかと何人かに心配されたけど、そんな事実は無い。そもそも「わたし」には、恋をした記憶が無い。だから、失ったものなど何も無い筈だった。
髪を切るという行為はごく自然な行為である筈だ。伸ばし過ぎて、鬱陶しく感じたから切った。ただそれだけのことである筈。其処に因果は存在しない。
──強いて言うなら。
「わたし」は、それまで「わたし」のものであった髪(モノ)を、自らの意思で手放したのだ。
でもそれで「わたし」の中身が変わる訳でもなく、「わたし」は「わたし」として、これまで通りに生きていくだけだ。
だから、髪を切る行為に意味は無く、結果として何が変わる訳でもない。皆の心配は杞憂に過ぎない。きっと、多分。だから、そう。
「わたし」は何も、失ってはいない。
初めから何も無かったのだから、何を畏れることも無い』
日記の内容は、以前のままだった。恐らく、そんな細かい箇所まで組み立て直すことは、彼女にはできないのだろう。
『髪を切っても、サトーは何も言わなかった。
ただ無言で見過ごし、そのまま部屋を出て行った。彼はまた、誰かを殺しに行くのだろう。それが彼の仕事で、「わたし」はそんな彼の後姿を黙って見送った。
そしてまた、退屈な一日が始まる。
飽き飽きする位に平凡な、「わたし」の日常が続いていく』
あるいは、気付いていないのだろうか? そう言えば最近、かずらが日記を書いている姿を見ていない。以前は俺が見ていようがいまいが、お構いなしに書いていたというのに。
もしかしたら。俺の見ていないところでもう一冊、彼女は日記を付けているのかも知れない。それは一体どんな内容なのか。少し、気になった。
このセカイを望んだのはかずら。それを実現させたのもかずら。
だからきっと、このセカイで一番幸せなのは、他ならない彼女のはず。
……そのはず、なのだが。
何故だか俺は、その点について未だに確信を持てずに居た。
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