平穏なる日々──No One Cry──
恋愛、なんて熱病に浮かされることがあるだなんて。そんなこと、わたしに限って言えば万に一つもありはしないと。そんな風に思い込んでいた時期が、このわたしにも確かにあった。
彼と出逢う前までは。あるいは、彼と出逢って、しばらくの間は──すなわち、わたしと彼とが所謂彼氏彼女の関係ではなく、知人を通したただの知り合いでしか無かった頃は。
彼との出逢いがわたしを変え、やがて営むようになる共同生活を経て、いつしかわたしは自分の気持ちの変化に気付いていた。
それは、ほんの些細な、日常生活の積み重なりによって生じる、一見しては分からないくらいの微少な変化だ。
朝食を作ろうと思ってキッチンに立った時、そこには既に彼がエプロン姿で居て。眠い目を擦りながら欠伸をするわたしのために、笑顔でコーヒーを淹れてくれた。
「おはよ」「おはよー……ふぁぁ」
何気無い挨拶と、朝日に映った彼の横顔。ほんのりと温かいコーヒーをすすりながら、わたしは幸せな時間を噛み締めて。気付いた時には、舌を少し火傷していた。
昼間わたしがごろごろと、何をするでもなく退屈に、でもその退屈な時間がたまらなく愛おしくて寝転がっていると。その時間を妨害するかのように、彼がじゃれついて来ることがたまにあった。彼は彼なりにお気に入りのミュージシャンの音楽を聴くなどして楽しんでいたはずなのだが。
くすぐったくてわたしが文句を言うと、彼は笑ってこう応えた。
「だってさ。何をするにしたって、お前と一緒の方が万倍楽しいんだもんよ」
その後わたしは、彼が前の日に買っていたテレビゲームを一緒にした。結果は惨敗。一度も勝てなくて何度も何度も挑戦している内、わたしは段々コツを掴んで来て。日が暮れる頃になってようやく、わたしは彼に勝利することができた。わたしが胸を張って、どれ彼の悔しそうな顔を拝んでやろうと振り返った時。
「おめでと。はい、これご褒美」
不意打ちの、キスをされた。
夕食の買い物は、彼といつも一緒だ。というのは、二人分の食材を運ぶには、わたしはあまりにも非力過ぎるからだ。か弱い乙女、などというつもりは無いし、似合わないとも思うけれど。それでも彼は優しいから、わたしはついつい甘えてしまうのだ。
買うべきものは予め、メモ書きして持っている。わたしが一つ一つ読み上げていくと、彼はだだっ、と走り出して、瞬く内に全ての食材を揃えて戻って来た。それで本日の買い物は終了。さあ帰ろう──とはいかない。どちらかと言うと、そこから先こそが本番の買い物だったりする。
「他に何が欲しい? ねえ、これは?」
「好き」
「じゃあ買おうか?」
「うーん。やっぱり要らない」
「あ、そう。じゃあこれは?」
こんな調子で、彼は次々にわたしが好きそうな品物を指差していく。わたしは予算の残りを考えながら、それに答えていくのだ。結構スリリングなのは、予算オーバーするぎりぎり手前で抑えようとするためだ。計算ミスが命取り。これがなかなか面白くて、ついつい白熱してしまうわたしだったりする。
「……じゃあ、これは?」
「え?」
「好き? それとも嫌い?」
しまいに彼は、何も無い、空間を指差してそう尋ねて来た。わたしが見つめる中、その指はゆっくりと移動していき。やがて止まった彼の指は、他ならぬ彼自身を示していた。
「……好き」
ざあ。
「………」
不意に。視界一杯に砂をぶちまけられたような感じがして、わたしは思わず瞼を閉じた。
──そして次に目を開いた時。
それまで見えていたモノが見えなくなり、今まで見えなかったモノが見え始めた。
幸せな日々? 彼との生活?
では訊くが、「彼」とは誰だ? そんな人物に心当たりは無いし、きっとわたしには一生縁の無いものだと思う。
何故ならわたしは現在、服を剥ぎ取られ、どう抗っても振り解くことのできない強い力でもって地面に押さえ付けられて。今わたしの上に馬乗りになっている、狐面の男に──喰われようと、しているからだ。不気味な狐の面は、何故か下半分が砕かれていて。月光の下、白銀の鋭い牙と、真っ赤に充血した舌を曝け出している。だらりと垂れ下がった舌先からは、涎のような白濁した液体が滴り落ちていて、それがたまにわたしの視界を汚した。
現実とは、そんなものだ。望み、夢にさえ見たものは何一つとして手に入らず、それ以外の歪んだもの──汚物と言い切ってしまっても構わない、このようなおぞましい光景を目に焼き付けるのだ。ああ。わたしの人生なんてそんなものだ。
──わたしのこの「眼」は、わたしが望む望まないにかかわらず、無秩序に、理不尽に、わたしに様々なモノを見せ付けて来る──
故に。
わたしの人生においては、何一つとして信じられるものなどは無く。たとえ奇跡的に希望の一端が見えたとしても、それが本物であるかどうかはわたしには判別できない。確実に在るのは絶望。希望が偽りであると知る度に味わう、あの例えようの無い絶望だった。
「………」
だが、その人生もようやく終わるのか。喰われることで終わるのなら、このろくでもない人生も、全く意味の無いものではなかったのかも知れない。少なくともわたしの血肉は、別の誰かの栄養分となって初めて価値を得ることができるのだから。それに、一生の終わりは絶望の終わりをも意味している。これでもう、煩わしい「眼」に在りもしない希望を見せられずに済むのだから。
「………」
男が叫んだ。まるで野獣のような咆哮だった。三日月形の笑みを浮かべ、男は溢れ出す力のままにわたしの身体を引き裂いていく。ぶちぶちと千切られる四肢。噴出す鮮血。ぼりぼりと、骨ごと噛み砕いていく異形の男性。血をすすり、肉を喰らい、男はなおもわたしの身体を求めて来る。
「………」
それら全てがまるで他人事のように、わたしには見えた。こうしている間にも、わたしという存在はこの世界から消滅しつつあるというのに……少しも悲しくないのは、何故なのだろう。
ほら。首から下が、綺麗に消えてしまったじゃないか。後は頭を残すのみで、それが消えればこんな風に考えることも無くなる。全てが終わる。完全に、わたしは消える。
「………」
男の、真っ赤に開いた大きな口が、わたし目掛けて迫って来る。それは地獄の門のようでも、天国への扉のようでもなく。
──その先に在るものは、きっと。
「………」
「わたし」は、朝日の差し込む部屋の中に居た。見慣れたアパートの一室。「わたし」が借りて、「わたし」が住んでいる部屋の中だ。
そこには甘い生活も、人肉を喰らう異形の化け物も存在しない。そこには死という絶望が無い代わりに、明日を生きることに対する希望もまた、存在しない。要するに何も無い。ただ淡々と、意味の無い毎日を繰り返すだけの場所だ。そんな場所は、だからこそ「わたし」にとっては心地良かった。何に煩わされることも、何に心躍らされることも無いからだ。
──誰と誰とが恋愛しようと、誰が誰に殺されようと。そんなモノは所詮「眼」が見せた虚像に過ぎないし、「わたし」には全く関係の無い光景だ。
当の「わたし」は、至って平穏な日常生活を送っている。
「………」
根無し蔓(かずら)、という植物が居る。
かの存在は自分独りでは生きていけない。根を持たない為、自らの力では大地から養分を吸い上げることができず、また光合成するだけの葉緑素も所有していない。故に彼らは他の植物の幹に寄生し、そこから栄養分を吸収するのだ。そして遂には、宿主を枯らしてしまう。彼らはただ寄生するだけでは飽き足らず、貪欲に宿主を死へと追い詰めていくのだ。そこには明確な殺意が存在するが、そのことに誰も気付いてはいない。きっと根無し蔓自身でさえ、知らずに生きているのだろう。弱肉強食、自然の摂理などという妄言に惑わされ、真実を見失っているのだ。
生きる為に仕方なく栄養分を拝借しているのなら、何も枯らす必要は無い。宿主が死ねば、根無し蔓もまた滅びる。自身を破滅に追い込む程の価値を、彼らは殺害という行為に見出しているのだ。だからこそ、彼らの存在に意味は無い。
自身を含む全ての存在に害を与えて、それでも生き続ける意味があるのか。「わたし」には分からないし、恐らくこの先も分かることは無いのだろう。
だからどうと、言うことも無い。
強いて言うなら、「わたし」が彼らと同じ名前を持っているという、他愛の無い事実について述べる位で。
それすらも、大した意味を持ってはいない。
日向蔓(ひむかい かずら)。それが現在の「わたし」の名前だ。
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